アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第14章 道 ⑥恩寵としての神

2011-07-29 06:21:01 | 第14章 道
神は全ての全てである。従って神を説明し尽くすことなどは到底できないが、今回は神を恩寵という側面から論じてみたい。といいながら、いざその説明を始めようとして、筆者はハタと迷ってしまった。と言うのも、これまでにも説明してきた通り、最終的な悟りの境地というのは、第13章⑤‘シャンカラの不二一元論’でも説明したように、この宇宙も心も全てが神の展開であるという見解が正しいと確信しているからである(無論筆者は未だその境地まで至っていないが、筆者の直観智が、それが正しいことを告げている)。ところが、神を恩寵としての側面から論じる場合、全てが神の展開であるとの観点から話を進めようとすると、全ての人も神の現れであり、そうであれば元々神は悟る必要がないので、理論が破綻してしまう。そこで、神と自身(或いは個我というべきか)が分離している(と通常思われている)という前提、即ち自身が正解だと思っている見解から一歩退いて本稿のテーマを論じざるを得ない。もっとも、その生涯で神我一体の境地に達することの出来る人、或いは解脱出来る人は、ラーマクリシュナに拠れば10万人に一人程度しかいないということであるから、神を悟る為に修行を続けている人(無論筆者もその一人である)を対象としたものとして拙見を述べてみたい。

先ず筆者は、神が創造したこの世界の枠組みとは何かを考えてみた。それを説明する為には、皮肉なことに、再度不二一元論(アドワイタ)に則って説明をしなければならないが、その枠組みの第一は因果律である。しかし、それだけでは個我は何も経験できないので、時間と空間を作り、その場の中で因果律を学べるように神は世界を創造した。それを非常に適切に説明している文章がヴィヴェーカナンダの『ギャーナ・ヨーガ』(同書)に載っているので、先ずはそこから始めたい。因みに、同書では図を使って説明しているのだが、筆者はこのブログに図を挿入する方法が良く判らないので、先ず文章でその図を説明する。その図は、縦長の長方形であり、三つの層に分けられている。最上層が絶対者(a)、中間層が時間・空間・因果律(c)、最下層が宇宙(b)である。即ち、絶対者(a)が宇宙(b)を現わす為に作ったのが、(c)の時間・空間・因果律という考えである。以下、彼の所説を引用する。

「アドワイタ哲学(非二元)哲学を理解する場合に、会得することが最も難しい一つの問題・・・それは、どのようにして無限なる者、即ち絶対者が有限なるものになったのか、という問題です。今日はこの問題を取り上げましょう。そして一つの図面を用いて説明しようと思います(筆者註:これは明らかに講演の記録である)。ここに絶対者(a)があります。そしてこれが宇宙(c)です。絶対者が宇宙になったのです。宇宙というのはこの物質の世界だけのことではなく、心の世界も霊の世界も、つまり諸々の天と諸々の地、実は存在する一切のことを言うのです。心は、一つの変化の名前です。そして、肉体はもう一つの変化の名前です。以下同様であって、これらの変化の全てが我々の宇宙を形成しているのです。この絶対者(a)は時間、空間及び因果律、即ち(c)を通過することによって宇宙(b)となりました。これがアドワイタの中心概念です。時間、空間及び因果律は、それを通して絶対者が見えるようになっているガラスのようなものです。そして、絶対者のより低い側面が見られた時に、それは宇宙として現れるのです。さて我々はこのことから直ちに、絶対者の中には時間も空間も因果律も無いということを推理します。心もなく思いも無いのを見れば、そこに時の観念があろうはずはありません。外面的な変化が無いのを見れば、そこに空間の観念があろうはずはありません。一つしかないところに、皆さんが活動とか原因とか呼ぶものが存在するはずはありません。我々は次の事を理解し、そして心に刻んでおく必要があります。即ち、我々が因果律と呼んでいるところのものは、若しこういう言い方が許されるなら、絶対者が現象界にまで退化したのちに始まるものであって、その前に始まるものではありません。我々の意思、願望、及びこの類のもの全ては、常にそのあとにくるのです。・・・我々はここに、絶対者は時間、空間及び因果律というベールを通してそれ自身を他者として現わしている、という命題を見ています。」

話が少々飛躍したかも知れないが、そもそも神の恩寵としての枠組みの第一は因果律であるということについて論じていた。それは何故か未だ説明していない。
老子に出てくる言葉であったと記憶しているが、天網恢恢 疎にして漏らさず、即ち、この世では自分の播いた種は全て自身で刈り取る(仮にこの世で刈り取らなければ、来世で刈り取る)ことになっている。これを我々が学ぶ為に、因果律と時間と空間があるのである。何故これを学ばなければいけないのか。無論学ばなくてもその人の勝手だといえばそれまでなのであるが、その人はそれを学ぶまで永遠に輪廻転生を繰り返すであろう。つまり、この因果律というのは、我々の心が自然に善、即ち神に向かい、最終的に解脱を目指すように仕向ける(聖書で言えば、放蕩息子が父親の元に帰る)為の、最も壮大な枠組みなのである。

二つ目の枠組みも、第一のものから派生したものと言えるかも知れないが、我々自身の意識を神に近付けようとしたときに心の奥から湧きあがって来る‘静かな喜び’である。これは、何かを貰って嬉しいとかいった単純な喜びとは全く異なる、真我のメッセージとも云うべきもので、バシャールの云うワクワク感とも多少異なるように思う(無論ワクワク感も、自身が正しい方向に向かっていることを告げる魂からのメッセージだとは思うが、ワクワク感は興奮を伴う、より日常的な体験であり、言葉は適切でないかも知れないがより初歩的な感覚だと思う)。つまり二つ目は、真我或いは守護霊などの導きに拠ってもたらされる深い喜びと言っても良いかも知れない。

そして、三つ目の枠組みは、前回説明したグルである。しかし、例えばヨガナンダを例にとって考えてみると、そのグルであるシュリ・ユクテスワから学んでおり、更にそのグルであるラヒリ・マハサヤがおり、更にババジがいる。そのババジもアガスティヤとボーガナタルから学んでおり、その先にはナンディー・デーヴァルが居て更に遡るとシヴァ神に行き着く。或いはヒンズー教に限らなくとも、これまでに仏陀やキリスト等の偉大な聖者が現れては神の法を説き、多くの衆生を導いて来たが、これらの傑出した聖者はアヴァターラ(或いはアヴァター)即ち神の化身と呼ばれている。こうした聖者達を地上に送り出したのか、それとも神の化身であるから、神おん自らが人間の体をまとって現れて来たと言うべきなのかも知れないが、こうしたこと自体も神の恩寵なのであろう。

そして更に考えを進めて行くと、こうした魂の修行の場である自然界と環境、動植物、或いは人間社会、言語、文化、聖書・聖典、宗教も含め、全ては神の恩寵ということになり、我々は神の恩寵の中に生活していることになる。又、読者諸賢が信ずるかどうかは別として、霊界には無数の高級霊がましまして、霊界に戻ってきた霊魂の次の転生先を指導したり、地上界に霊界の精妙な想念を送って、我々が正しい道を歩むように導いてくれたりしている霊(恐らく守護霊も含むものと思う、キリスト教では天使か?)も居ると言われている。即ち、霊界も含め、全てが我々の魂の向上を応援してくれているのである。

ここで一旦見方を変えて、プルシャとプラクリティという観点から人間の肉体や五感に就いて考察してみたい。第13章⑫‘プルシャとプラクリティ’でも触れた通り、プルシャのみが実在であるとすると、それ以外のもの、即ち肉体も五感も想念や記憶など全てはプラクリティであり、実在では無いことになる。因みに霊界もプラクリティである。しかし、このプラクリティという全ての現象があるからこそ、我々は様々なことを体験でき、悟りに向かって進めるのである。そう云う意味では、自分の肉体や感情すらも神の恩寵と言える。

ここで自分の人生を振り返ってみると、自分は或る両親の元に肉体を持った男子として産まれた(と思っている)。その家庭で育てられ、学校にも行っていろいろなことを学んだ(と思っている)。そして会社に就職し、結婚し、子供に恵まれた(と思っている)。しかし、その間活動した肉体も、感じたことも、家族達との記憶も、全てプラクリティであり、実在ではない。一方、家族達の肉体も、経験も全てプラクリティであり、実在ではない。それでは、何の為に我々はこの世に生れてきた(と思っている*)のかと云うと、それは究極的には神を悟る為である。その為に自分の両親が選ばれ、会社が選ばれ、家族たちも選ばれたのであろう(自身で選んだのか、霊界の指導があったのかは微妙なところであるが、重要なところは後者なのではないかと筆者は思っている)。又更にそれは、自身のみならず一緒に暮らす家族も、霊性の向上という究極の目的に向かって一緒に歩みを続ける為である。つまり、我々は自身の魂を向上させるのに最も適した環境(家庭や学校、会社などにおける人間関係も含む)に生活しているのである。これが神の恩寵でなくして何であろう。・・・因みに、ここで筆者はいちいち(と思っている)と付け加えているが、般若心経に‘不生不滅’と書いてある通り、‘自己’即ち真我はこれまで生まれたことも無ければ、従って死ぬことも無い。しかし、実在ではない現象としての‘自我’を残している限り、それは‘自我’がそれ自体を‘自己’と混同している状態なので、‘自我’の立場から説明したものであり、(と思っている)と付け加えたのは‘自己’(真我)の立場から補足したものである。

つまり、神の恩寵とは、最初に述べた通り、全ての全てであり、三つの枠組みに始まってこの世界、霊界、肉体、環境、自然、動植物、社会、文化、宗教、などこの世の基盤とも言える全てに及ぶものであるが、当初は真我を通してグルに導かれ、次にグルを通して神に至る道に導かれ、そして最終的には神によって神を経験させて貰えること、これこそが最高の‘神の恩寵’なのであろう。

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