アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第14章 道 ⑧最澄と空海

2011-08-12 06:42:56 | 第14章 道
最澄は、空海と比べると若い頃から順風満帆の人生を歩んだ。それは多分に桓武天皇(以下、桓武)という、平城遷都を決行した英邁果断な独裁者に気に入られたことに因る、ということが『空海の風景』(以下、同書)を読むと良く判る。この最澄が、遣唐使船に乗って唐に渡る際の目的は、日本と云う国を代表して、天台宗という新しい仏教体系を日本に移入することであり、桓武は寧ろすすんでその請願を受け入れたに違いない、と司馬遼太郎(以下、著者)は書いている。

それでは、どうして新しい宗教を日本に導入する必要があったかと云うと、これが見事に桓武の思惑と一致していたのである。桓武は、東大寺など、奈良の旧寺社勢力の増長とその影響を嫌って、都を最初は長岡京に移そうとしたが、工事責任者の事故死などもあって、数年後には平安遷都を断行することを決めたのである。
一方最澄の自説は、“(奈良において盛んな)我が国の仏教は論を中心にして経を軽んじている。経こそ根本である。天台宗はその経を中心にした体系であって、これを導入することによって日本に真の釈迦の教えが広まるだろう”というもので、キリスト教に譬えれば、神学論争は切り上げて、キリストの言葉或いは聖書に立ち戻って真のキリストの教えを広めるべきだといったことになろうか。つまり、桓武も最澄も南都排撃という点で利害が見事に一致していたのである。しかし、この時点で最澄の考え方に潜んでいる欠陥は、経を読んでそれを正確に理解すれば、釈迦の教えを体得できると思いこんでいる点であり、これが後に空海との論争に繋がって行くのである。

最澄は入唐すると、長安にも立ち寄らず、真っ直ぐに天台山を目指した。同書から、その最澄の性格と唐での行動を記述している個所を同書から引用する。

「かつて空海と共に入唐した(船は違ったが)最澄は、長安にも入ることなく、上陸するとすぐ、台州に向かった。彼の入唐の目的は天台山で栄えていた天台宗の体系を残らず持ちかえることであり、その為には寸暇を惜しんだのである。天台山で目的を果たすと、容赦も無い去り方で台州を去った。中国語が出来ない最澄は、空海のように土地の大官と詩文の交換等をするゆとりもなかった。また最澄は必ずしも詩文の才の無い人ではない。しかしその文才は理論を説くことによく合い、この当時の流行の毛彫り細工のように華麗な文章を書く事に適していなかった。・・・最澄は去年の三月二十五日、日本への出発港である明州に着いた。ところが、船の準備が出来ておらず、一ヶ月半程待たねばならなかった。・・・」

ここで最澄は船を待つために港でブラブラしていることに堪えられず、そこから120Kmほど離れた越州が仏法の盛んな町だと聞いて出かけて行く。

「越州へ志した時の最澄は、“経典を貰いに行こう”という程度の気持だったし、必ずしも密教を目指したのではなかった。最澄にとって密教は拾いものだったといえる。そこで竜興寺を訪ね、順暁に会った。“あなたが日本の請益僧ならば”と、順暁は、最澄の資格を重視したであろう。・・・ついでながら、順暁は恵果のように密教の正統の継承者でなく、いわば傍流の人であった。最澄もまた、密教を承ける下準備は何もできていなかった。空海が、入唐前、日本において、師もなく手引書もないままに苦心してこの道の体系を自らのものにしたような経験は、天台宗を目指していた最澄には全くない。素地なくしていきなり密教を体系ぐるみ承ける ― 付法される ― というのは、例えば空海の感覚では不可能に近いが、最澄はともかく持って帰りたかった。」

ところが、この時順暁から相承をうけ、筆写した典籍は百二部、百十五巻であり、法具も僅か七点と云われている。

「密教は、それを修する者が宇宙の内奥と交信し、一体化する以上、秘密修法に多くの道具を必要とする。空海の場合は恵果からその一切を承け、その調製を恵果が肝煎りし、大層な点数になったのだが、順暁が最澄に譲るところはわずか七点しかない。この一事だけでも、最澄がゆずられた密教は、中国における正統密教のほんの一部をなしているだけということが判るが、このとき最澄自身には自分が何を得たのか、十分判らなかった(あとになって最澄は気付き、最澄らしく生真面目な、云わば好もしい態度で狼狽する)。」

この後、最澄は無事日本への帰国を果たすのであるが、筆者が想像するに、それは凱旋将軍を思わせるようなものであったのではないだろうか。ところが、ここで皮肉なことが起きる。朝廷は元々最澄が入唐する目的であった、天台宗の教義よりも、最澄が越州に立ち寄ったついでに持ち帰った密教の方に興味を示した。この間の事情は次のように書かれている。

「・・・(桓武は)最澄のもたらした天台に就いては触れず、密教にのみ興奮し、密教をもたらしたがゆえに最澄を国師であるとし、しかも、旧仏教の長老たちに灌頂を受けさせよと命じているのである。灌頂は密教のみに存在する行事であった。香水を頭に灌ぐ儀式を言う。これを最澄を導師として国家の事業としてやれ、と天皇はいう。・・・」

ところが、この間空海は筑紫の太宰府辺りに留まりつつ、自分が請来した目録は確りと役所に提出していたようである。その役所には当然仏教などの専門家が居る訳で、空海のもたらした経文や法具が、最澄のそれを遥かに上回っていることがおのずと評判になったようである。更に、役所の専門家が密教の系譜などを調べれば、最澄の伝えたものがその傍流であったことも判った筈である。それはいずれ最澄の知るところとなり、最澄から空海の請来した経文を筆写させてほしいとの依頼がくる。又、最澄は空海と直接会って、空海から灌頂を受けたいとの意向を伝え、空海はそれを了とする。そしてその約に違わず、空海は最澄に灌頂を授けるが、それは全ての法を伝える伝法灌頂ではなく、結縁灌頂(文字通り縁を結ぶだけの灌頂で、寺院が在家の人々に言わばサービスとして行うもの)だったようである。「最澄ほどの大家に対して行うのは、当然この伝法灌頂でなければならず、最澄もそれを期待したであろう。が実際にはそうでなかった」と著者は記している。この辺りから二人の関係はこじれて行くのであるが、それを説明する前に顕教と密教夫々の特徴と違いを明らかにしておく必要がある。以下、同書からの引用である。

「空海は、インドにも唐にもなかった“真言宗”という体系を樹立するのだが、この為に‘横の教判、縦の教判’といわれるすべての仏教から縦横に密教を見る理論を創り出す必要があり、又密教がそれを可能だと主張する即身成仏という最終目的についても、他の批判に堪え、かつ誰にも理解できる理論をつくりあげねばならない。顕密二教の判釈ということについても、そうであった。顕教とは外側から理解出来る真理 ― 天台宗を含めて全ての今までの仏教 ― であり、密教とは真理そのものの内臓に入りこみ、例えば胃そのものの内臓に入りこみ、脾そのものになり、肝そのものになり、それらの臓腑が動くとともに動きつつ宇宙に同化するという行法と理論を言うのだが、空海としては顕教の本質を暴露しつつ密教をも包摂する最高の仏法であるということを明らかにせねばならない。」

「最澄は、密教は知的に把握できるものと、いわばすずやかさとさえいえるほどの心組みでそう信じていた。最澄はのちに、“筆授”ということばを使った。師匠から心身を接して叩き込まれえるという、いわゆる師承の伝受でなく、書物による伝受法を、最澄はそのように言った。在来、日本の仏教も儒学も、書物を通じ殆どが筆授でもって理解され、受容されてきた。最澄の天台教学もその入唐は書物をもたらすことが目的であり、そのあとそれを受容することは筆授の努力によった。最澄は密教もまた当然ながら筆授でもって身につけ得るものと信じきっていたのである。このため、最澄はしきりに空海に手紙を出し、経典などの借用方を乞うた。これに対し、空海は密教において筆授はあり得ないという立場をとっている。事実インドにおいては密教は師承意外に相続させなかったし、不空も当然ながら筆授を否定した。恵果も無論そうであった。後世、西蔵や蒙古で変質した密教が定着したが、変質しながらも師承であることだけは変らず、例えば弟子たちは自分が法を承けた師承そのものを、それを人間と見ず、仏とみて終生拝むというまでの極端な形をとるに至っている。ともかくも空海は最澄にその云わば秘事に類する重大なことを入念には言わなかった。一つには、先輩の僧としての最澄に、憚りがあったのかもしれない。又一つには、最澄が聡明なら自ら気付くべきだという気分も有ったのであろう・・・」

以上の説明と多少重複するが、引き続き最澄と空海の確執に就いて触れて行きたい。

「最澄は暗闇の中で手探りするようにして、密教を模索している。彼は空海に対し高尾山寺に行かないことを常に詫びつつ、しきりに空海から教を借り出し、文字によって密教を知ろうとしていた。密教は宇宙の原理そのものが大日如来(筆者註:ヒンズー教で言えばブラフマンであろうか)であるとし、その原理による億兆の自然的存在、及びその機能と運動の本性を全て菩薩とみている。更には全ての自然 ― 人間を含めて ― は、その本性において清浄であるとし、人間も修法によってまたその本性の清浄に立ち返り、さらに修法によって宇宙の原理に合一しうるならば即ちたちどころに仏たりうる、という思想を根本としている。このため文字のみによる密教理解を“越三昧耶”(おつさんまや)として甚だ憎む。最澄は筆授を専一としていることにおいて、越三昧耶を犯しているかのようである。」

最後は、空海が最澄に書いた、殆ど絶縁状とでも言えるような手紙の内容である。

「空海は最澄の使命を指摘する。“顕教一乗ハ、公ニ非ザレバ伝ハラズ” 最澄を公と呼ぶ。顕教 ― 天台宗 ― はあなたを措いてこの国に伝わらない。あなたの使命はそこにある。翻って言えば、秘密仏蔵(真言密教)をこの国に根付かせるのは自分の誓うところである、とも云う。“秘密仏蔵は、唯我ガ誓フ所ナリ” あなたと私は、互いにこの本分、領域、使命を守って行く意外手がないではないか ― 彼此、法ヲ守ッテ談話ニ遑(いとま)アラズ ― と空海は言ってしまっている。かつて空海は四十歳になるとき、乙訓寺で最澄に対し、自分の寿命も永くはない、“所持スル真言ノ法ハ、最澄闍梨ニ付嘱スベシ” ― 全部ゆずと明言し、最澄を喜ばせた。しかし今ここで空海は決定的に前言を翻している。このことは、空海の理屈でいえば罪は自分にない、罪はお前さんにある、という。真言秘密の仏蔵の伝授は筆授になく、三昧耶にあると空海は何度も言ってきたが最澄はそれに従わず、強いて筆授を強行してきた。誠に越三昧耶の罪ではないか。最澄は罪を重ね、遂に『理趣釈教』の借教を願うまでにおよんだ。空海は当惑せざるとえないであろう。・・・さて、空海は、返事に言う。“忽チニ封緘ヲ開キテ、具サニ理趣釈教ヲ求ムルコトヲ覚ス。然リト雖モ、理趣ハ端多シ。疑フラク、求ムル所の理趣ハ、何レノ名相ヲ指スヤ” あなたは理趣教々々々と言っているが、理趣教も多々ある、理趣教のなかのどういう章をあなたは求めているのか、と空海は最澄の無知をあざけるというには重すぎる調子でいう。そもそも理趣教の大きさといううのは、と空海は“天モ覆フ能ハザル所、地モ載ス能ハザル所”と言い、であるために、その中の一句や一偈だけを取り上げてその全てを尽くすというのは何人も可能でない、あなたはどういうつもりなのか、とも空海はいう。“自分は不敏であるが、自分の大師が訓えたところを今から示す。だからよく聴け”という。よく聴け、というのに、“汝ガ智心ヲ正シクシ、汝ガ戯論ヲ浄メ、理趣の句義、密教ノ逗留ヲ聴ケ”というように空海は書いている。先刻まで空海は最澄を“公”という尊称でよんでいた。今一転して汝という、非敬語にかわっているところ、文章感情の溢れ出した勢いで、やむを得ないかもしれない。理趣の妙句をことさらに掻い摘んで言うに ― と空海は言う。・・・要するに理趣とは、お前の声に密があり、お前の眼に密があり、お前の心に密があるということである。お前自身を離れて他に密があると思うな、理趣とはそういうことである、という。又理趣には、心の理趣と仏の理趣と衆生の理趣がある、ともいう。・・・理趣は全てお前自身の心の中に在るのだ、と言い、しかしながらそれを求めるには行法をせねばならぬ、お前がやっている筆授ではどうにもならぬ、ということを空海は言外に言っている。」
「空海は三密という。三密と云う言葉と思想は、空海がもたらした。人間の活動機能を身と口と意の三業に分けているが、宇宙の原理にも身と口と意 ― 三密 ― という働きがある。人間の三業は本来宇宙の三密と本質として同じであり、更には行者の行法次第では自分自身の三業を宇宙の三密にまざまざと一体化することができる、という。このことは行法としても思想としても、密教の真髄を端的に現わしていると言っていい。“お前は理趣釈教などというが、お前の三密が即ち理趣ではないか。同じ意味で、私の三密も釈教なのである。私がお前のからだを得ることができないように、お前も私の体を得ることができない。繰り返すが、お前は理趣釈教という。お前は誰にそれを求めるのか、求めようがあるまい。また私も誰にそれを与えるのか、与えようもないことだ”と空海は、措辞、簡潔にいう。・・・さらに空海は言う。 “私が理趣を求めようとする場合、その私(我)とは何か。我に二種類ある。一つは五蘊(人間の心身)という我である。但しこれは仮の我に過ぎない。もう一つの我は、無我の大我である。もしそれ、五蘊の仮の我に理趣ともとめれば、本来仮の我であるから実体が無い。実体がなければ何によってこれを得ることを求められるであろう。無意味である。しかしいま一種類の我 ― 無我の大我 ― にこれを求めれば、即ちそれこそ遮那(大日如来)の三密である。遮那の三密はいずれの処にあるか。それは即ちお前自身の三密ではないか。決して外に求めるべきではない。・・・」

この手紙はもう少し続くのであるが、上記の内容で空海の主張するところは大体網羅されているので、この辺で止め、最後にこの手紙を読んだ最澄の感想の部分を引用しておきたい。

「“・・・新来ノ真言家(筆者註:空海のこと)、即チ筆受ノ相承ヲ滅ボス”と、言う。・・・最澄は、空海が雄大とさえいえる密教論を展開し、くどいばかりに密教はその本質として筆授ではなく如法修行によって伝えられるべきものだと説きに説いたことを全く無視し、“あいつは、筆授で外来文化を受け入れるという日本の伝統を滅ぼしてしまった”と、一言で片づけた。」

最澄は最後まで、日本の伝統である筆授に固執し、真理は体得すべきものであるとの理解に至らなかったのであろうか、それとも世間体から、敗北を認めたくなかったのであろうか。
甚だ僭越ながら、筆者がこれまでクンダリーニ・ヨーガを学んだ経験からすると、ヨーガ・スートラを読んだだけでは普通はサマディー(三昧境)の意味すら理解できないと思われるし、まして解脱に至ることなど、少なくも常人には全く不可能であると思われるのだが・・・。

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