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言葉の仕組みを暴きだす。ふるい言葉を葬り去り、あたらしい言葉を発見し、構成する。生涯の願いだ。

「正しい言葉」って?/8

2005-11-20 13:51:54 | 思想・哲学
◇言葉の自由

まず「人間の自由」について考えてみます。その定義は二個知られているようです。宮台真司氏の言葉を引用しておきますね。このエントリーでは、彼の言葉をちょくちょくお借りする予定。

■「自由とは何か。束縛がない状態。誰もがこれを自由だと解している。これに対して、欲望に負けず誤謬を排して自分を律しうること。これを自由だとする思考もある」。アイザイア・バーリンは、1959年の講演で、前者を「消極的自由」、後者を「積極的自由」と呼んだ。
■前者がJ・S・ミル『自由論』の愚行権、後者がE・カント『実践理性批判』に由来するのは見易い。よく引用される定番化した区別だ。バーリン自身は冷戦体制を背景に、積極的自由の観念が全体主義者や共産主義者による正しき道への命令を正当化すると恐れた。

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一方は「拘束からの自由」であり、他方は「欲望からの自由」です。前回までの日本文化のトラウマ(「主観」/「客観」)の文脈に接木すれば、おもに後者の自由は「大きな物語」(客観)を参照しつつ'50年代~'60年代に希求され、その反動から前者の自由追求が'70年代以降に流行したといえます。バーリンの恐れは日本で的中していたのです。またこれは、「他者(の拘束)からの自由」「自己(の欲望)からの自由」と理解する糸口でもあるでしょう。

「自己からの自由」なんて、ありえるのか?
「自由」とは、規則を押しつけるウザイ相手への反抗として価値があったんじゃないのか?
これが普通の理解の仕方から生まれる疑問ではありませんか? でも、この理解は古典的です。

マルクスは、「下部構造」が「上部構造」を規定すると考えました。「下部構造」とは社会の生産関係全体のことです。「上部構造」とは、文化や戯言など人間意識の全体です。
フロイトは、日常の覚醒した理性的な意識を「無意識」が規定し抑圧していると考えました。
またレヴィ=ストロースに始まる「構造主義」については、内田樹氏の言葉を引用しておきます。

構造主義というのは、ひとことで言ってしまえば、次のような考え方のことです。
私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ、私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け容れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。そして自分の社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題になることもない。
私たちは自分では判断や行動の「自律的な主体」であると信じているけれども、実は、その自由や自律性はかなり限定的なものである、という事実を徹底的に掘り下げたことが「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」構造主義という方法の功績なのです。(『寝ながら学べる構造主義』内田樹)

上にあげたマルクスからレヴィ=ストロースまでをやや強引にまとめます。本質的に人間の意識は意識外の、つまり意識できない、わけのわからないものに影響され、規定され、拘束されているというのです。人間は、自分をトータルには意識できません。なにか意識的な戦略でもないかぎり、「これがオレ流」とは断言できないのです。異口同音に、この知見は現代に繰り返されています。自分がわからない――これが現代の代表的な人間観なんですね。

いまでは完全にクリシェですけど、人間は理解できない(意識できない)他者を抱えているんです。ああだこうだいったって、すでに他者と一緒に生きているんですよ。どんな他者なのかわかりません。優しいか怖いか、厳格なのかルーズなのか、はっきりした理解は不可能です。当然、男か女かも不明です。両性具有? 天才ならいいですね。ものすごい発明を考えついても、こっち(覚醒部分‐フロイト)には意識できませんけど。悪魔クンだったら落ち着けません。幸いおれの場合、金持ってないヤツってだけわかってます。こういう擬人化さえ怪しい喩えかも知れません。人間の意識を抑圧して強い影響を与えてくるのですが、意識された自分との間に通訳可能な言葉はないに等しいのです。あるとすれば、フロイトが指摘する「夢」。理性的な覚醒した意識が眠り込んだあと、夢を通して「無意識」の片鱗に、亡霊のように揺らめくその姿に、触れることができると彼はいったのでした。ほかに「いい間違い」にも言及したんですよね。

「われ思う。ゆえにわれあり」(『方法序説』デカルト)という素朴な人間観から、ずいぶん遠くまで来たものです。もう能天気に「アナタを愛している」とさえいえません。何かを「愛している」としても、愛の対象はほんとうに「アナタ」ですか? まさか、相手の性器だけじゃないですよね? それとも「アナタ」の兄弟や両親、または「アナタ」家の資産かも知れません。「愛している」どころか、「アナタ」の抹殺を無意識に意図している場合だって考えられます。そうではないという保障を人間は失っているんです。

こうして、しっかり他者を組みこまれた人間にとって、自己からの開放、自由が問題になってきます。自己に渦巻く欲望の主人は、自分であるとはいえないのですね。自分が欲望しているのではなく、欲望するように仕向けられているかも、というわけです。自己にたいして、意識の闇が隠微な権力を行使している!?

電光掲示板に流れる映像、広告ボードのキャッチコピー、TVや新聞を買い占めて打たれる選挙宣伝、だれそれが口にし綴られていくシニフィアン。社会的な文脈に乗せて、そこから何かのシニフィエを受容したつもりの人間たち。ほんとうは、どんなシニフィエがあるというのでしょう。意識は闇を抱えています。意識は闇に突き動かされています。よくは見えない。とても疑わしい。でも、「裏切られた!」と叫ぶのだけは止めましょうね。すごく時代錯誤で恥ずかしいし、自分をバカだと公言することになります。

健康雑誌『若葉』を読み、「××シャンプーを使い始めてもう五年だよ。ぜんぜん頭髪に効果ないじゃん!」なんて冗談にすぎませんから。それが現代、だれも同情しませんから。でも回春薬の「バイアグラ」や「レビトラ」は、どうやらホントに効くそうです。一錠○千円とか。あんまり高価なので、四人で金を出し合ってカッターナイフで一個を四等分にするんだとか。最近じゃ若いリーマンまで使いだし、吉原に働く女性が局部の休憩を取れないとボヤイているとか。タクドラの耳学問はお信じになりますか? 少なくとも健康雑誌『若葉』なんかより信憑性はありますぜ、ダンナ。

つくづく不思議です。なんで、そんな薬は大きな顔で宣伝されないのか? そうでもしなけりゃ、薬‐広告の現代的な関係が前面に露呈されてしまうからでしょうか? あまり効かない薬が薬屋の目立つところにデンと並べられています。良薬の「バイアグラ」や「レビトラ」は、普通の薬局では入手できないそうです。「表」のルートでは医師の承認がいるとか。ほとんど闇の商品になり下がっています。闇にはドラッグまがいの薬剤がドッサリと。闇商人にたいしては、くれぐれも古典的な人間観をもって臨まないようにしてくださいよ、そこの方。

お互い裏切りを覚悟して、人間は契約書を交わし、モノを買い、友だちになり、「愛している」のです。裏切りをも許す度胸がなければ、この時代を生きられません。「信頼」、それは「命がけ」の別名です。現代に「自由」はありえないんでしょうか? 欲望や拘束からの自由といっても、きわめて不徹底な自由だけ!? だいたい人間は自分を知らないんだから?

しかし、人間にも二種類あると考えられています。

僕は「ここではないどこか」を志向せざるを得ない者を「超越系」、志向しなくてもすむ者を「内在系」と呼びます。これはハイデガーに忠実です。…
「内在系」とは、仕事が認められ、糧に困らず、家族仲よく暮らせれば、幸せになれる者のこと。〈社会〉内のポジショニングいかんで自足できる存在です。「超越系」とは、仕事が認められ、糧に困らず、家族仲よく暮らせても、そうした自分にどんな意味があるのかに煩悶(はんもん)する者のこと。〈社会〉内のポジショニングには自足できない存在です。(『限界の思考』宮台氏)

  *『限界の思考』(双風舎¥1900) 宮台氏と北田氏の対談集


ですから「内在系」の人間であれば、それなりの「自由」意識を満足させ、この世で「幸せ」あふれる人生を満喫できる可能性もあるんですね。厄介なのは「超越系」の人間です。

…近代社会の理念型では、〈世界〉と〈社会〉が癒合(ゆごう)した段階から〈社会〉と〈世界〉を区別したうえで〈社会〉を志向する段階への移行を、「健全な人格発達」だと見なします。すなわち「内在系」の実存が健全で、「超越系」の実存は、今日的にいえば、「発達障害」的な〈社会〉化不全となります。(『同上』宮台氏)

ここで宮台氏は「超越系」を、社会もなにもかも含んだ「世界」を志向する人と考えています。別のところでは、「いい社会になっても幸せになれない実存」とも述べています。家族たちや職場の人々の笑顔、商店街の活気、登校児童やジィさんバァさんたちの元気に触れても、透明な空気を通して車のブレーキ音やチェーンソウの音が聞こえ、切り裂かれる人や樹木と一体化し、イルカの潤んだ目を借りて、手榴弾に吹き飛ぶ子供たちの足や手が見え、宇宙に放棄されたゴミの山が見え、家族を超え、地域を超え、日本をアジアを地球を星雲を、時間をさえ超えた過去と未来という「場所」に自分の実存をシンクロさせようと志向してしまうのです。ときどきは一人山頂に立ち、満天の星空を喜び、両手を広げて宇宙の風を全身に浴びてみたいと欲するのです。風邪引いて、鼻をジュルジュル流しながら帰ってくるだけなのですが。「自由」や「幸せ」を感受するためには、ある意味、悲惨な感性を持っているんですね。 《続》

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   leftyさんち;正しい言葉?
   ユリアさんち;『正しい言葉?』および『「正しい言葉」って?』へのコメントです。

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