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「立教大・吉岡総長の祝辞」を読む

2012-04-04 18:14:49 | 思想・哲学
前回のブログ記事、『卒業生の皆さんへ(2011年度大学院学位授与式)』を読んでみます。エッセイとしても秀逸なので。

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まず、今回の東日本大震災によって、日常を構成する要素への信用が失われたと指摘されます。

東日本大震災が崩したのは、日常世界の物質的基盤だけではありません。深刻なのは、水や食料から社会制度まで、日常世界を構成しているさまざまな要素に対する「信用」が失われてしまったことです。

「大学という研究・教育機関」も例外ではなく、「信頼が失墜していった」。
ですから、「大学の存在根拠」が問われる必要があります。

大学とは考えるところである。・・・人間社会が大学の存在を認めてきたのは、大学が物事を徹底的に考えるところであるからだと思うのです。

何を、どのように考えるのでしょう。
考えるとは、どうすることでしょうか。

現実の社会は、歴史や伝統、あるいはそのときどきの必要や利益によって組み立てられています。日常を生きていく時に、日常世界の諸要素や社会の構造について、各自が深く考えることはありません。考えなくても十分生きていくことができるからです。あるいは、日常性というものをその根拠にまで立ち戻って考えてしまうと、日常が日常ではなくなってしまうからだ、と言ったほうがよいかもしれません。

興味が尽きません。歴史や伝統すら「現実の社会」、「日常」を構成する要素として扱われています。その根拠を問う者にとって、日本の歴史・伝統への回帰をうたう原理主義者たちは、たんなる日常至上主義者にすぎません。では大学にとって、考えることは必要でしょうか。

マックス・ウェーバーが指摘したように、社会的な諸制度は次第に硬直化し自己目的化していきます。人間社会が健全に機能し存続するためには、既存の価値や疑われることのない諸前提を根本から考え直し、社会を再度価値づけし直す機会を持つ必要があります。/・・・大学は、そのために人間社会が自らの中に埋め込んだ、自らとは異質な制度だと言うことができるのではないでしょうか。大学はあらゆる前提を疑い、知力の及ぶ限り考える、ということにおいて、人間社会からその存在を認知されてきたのです。

「社会的な諸制度」が「次第に硬直化」する理由は、社会や歴史の「必要や利益」が変化するからでしょう。人間に奉仕する「社会的な諸制度」が目的を逆転させると、人間が「社会的な諸制度」のために存在するようになります。社会の「硬直化」を防ぐために、既存の価値や諸前提を根本から考え直し、「社会を再度価値づけし直す機会を持つ必要」がある。

こうして、「既存の価値や思考方法自体を疑い、それを変え、時には壊していくこと」が、考えることの意味とされます。

既存の価値や思考方法自体を疑い、それを変え、時には壊していくことが「考える」ということであるならば、考えるためには既存の価値や思考方法に拘束されていてはならない。つまり、大学が自由であり得たのは、「考える」という営みのためには自由がなければならないことをだれもが認めていたからに他ならない。大学の自由とは「考える自由」のことなのです。
言葉を換えると、大学は社会から「考える」という人間の営みを「信託」されているということになると思います。

「考える自由」と等価な意味で、大学の自由を問題にされます。既存の価値や思考方法に拘束され、自由を失うと、根拠を問うことが不可能になります。今日まで大学が存続してきた理由は、社会から「考える」という人間の営みを「信託」されてきたからですが、現代の大学は社会の「信託」に答えてきたでしょうか。

東日本大震災とその後の原発事故は、大学がそのような「考える」という本来の役割を果たしていないし、これまでも果たしてこなかったことを白日のもとに明らかにしてしまった。/・・・社会が大学に求めるものが、「考える」ことよりもすぐに役立つスキルや技術に特化してきたことはそれを示しているのではないでしょうか。

この部分にたいする読者の意見は、賛否両論あるでしょう。しかし吉岡氏は「考えること」に言及しているのであり、社会の「グローバル化」や「ユニバーサル化」といった日常の処方箋とは別の次元に属しています。その処方箋を大学に持ち込み、次元の混乱を引き起こすのは、日常性の支配を通して根源を考える自由、大学の自由を奪うことに繋がります。

社会に「東日本大震災とその後の原発事故」が及ぼした影響のうち、他の面も見逃しません。「反知性主義」です。社会に既存する価値観、日常性を、根拠から問い直す知性の隣に、知性を見失った絶望も繁殖するのでしょう。この「反知性主義」は近い将来、日常性へと回収されざるをえません。

また、このような変化の背景に、そもそも「考える」ことの社会的意味を否定するような気分が醸成されてはいないか、という点にも注意しなければなりません。反知性主義が力を得るための条件は東日本大震災以後いっそう強まってきていると思われるからです。

ですが時間ぎれでしょうか。これ以上、吉岡氏は「反知性主義」について言及しません。そのかわり卒業生と大学人にたいして、ある存在の覚悟を要求します。

さて、これまで述べてきたことからもお分かりのように、「考える」という営みは既存の社会が認める価値の前提や枠組み自体を疑うという点において、本質的に反時代的・反社会的な行為です。
・・・・・
皆さんがどのような途に進まれるにしても、ひとつ確実なことがあります。
それは皆さんが、「徹底的に考える」という営為において、自分が社会的な「異物」であることを選び取った存在だということです。

どうか、「徹底的に考える」という営みをこれからも続けてください。そして、同時代との齟齬を大切にしてください。

考えることは、観念の中で罪を犯すことです。ときには観念の中で罰を受ける覚悟も必要でしょう。成文化された憲法や法律、または成文化されていないが慣習になっている社会の既存価値や前提を破り、観念として違反するからです。考える行為は本質的に反時代的・反社会的であり、その点で、根源を考える人は罪人です。

その一例として、ハリウッド映画をあげられます。混乱に陥った社会秩序を回復して、健全なナショナリズムを再興するために、映像の中で残忍な犯罪が行われます。ですが現実には、だれも俳優やシナリオ・ライターを罰しません。ゾンビ映画では、シューティング・ゲームのように銃が激しく火を吹きますが、映像の自由が保障されています。

また根源的な考えを圧殺すると、2010年ごろから始まったアラブの春は起こらなかったでしょう。いまもなおチュニジアのベンアリ政権、エジプトのムバラク政権、リビアのカダフィ政権の独裁は存続していました。アウン・サン・スーチー女史の政治的な復活もありえなかったはずです。

したがって、根源的に考える大学人と卒業生は、「社会的な『異物』であることを選び取った存在」であると、吉岡氏は聴衆に訴えます。「同時代との齟齬」は、「異物」に与えられた証明でしょう。


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