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言葉の仕組みを暴きだす。ふるい言葉を葬り去り、あたらしい言葉を発見し、構成する。生涯の願いだ。

共産主義・資本主義と脳化社会

2013-06-03 02:27:31 | 思想・哲学
 共産主義の成功と失敗は、脳化社会の成功と失敗に等しいのではないか。先日のNHKBSプレイアムを見て、そう思った。共産主義運動は、膨大な生命と悲しみと喜びを踏み台にして出現した。その意味で、たしかに革命という名にふさわしい。

 初期の共産主義者たちは、勃興し発展する資本主義社会を見ていた。とくにロシアの共産主義者たちはツアーリズムという古風な帝国主義も見ていた。もちろん当時は誰もが見ていたはずだが、共産主義者たちは、資本主義と帝政ロシアのもとで貧困と死の淵に追い込まれていく人々の姿に自分を同化した。

 もともと人間の思考とはそういうものである。雨が降れば喜ぶ人と悲しむ人がいる。人間が生み出したものに社会的価値を求める人間の思考は、見かけが複雑なだけで同じだ。それが悪いわけじゃない。よいわけでもない。

 しかしロシア革命を成功させた共産主義者たちは、すべての現実を自分たちの頭脳のもとに計画し、コントロールできると盲信した。自分たちは真理を体現している、すべての真理を手にしていると考えた。あとはこの真理を社会に世界に演繹するだけだと。この過信は社会主義と呼ばれたが、当時の資本主義とはまた違った残虐な刻印を人間の歴史に刻んだのである。反対者や怠惰な者への拷問、投獄、洗脳、暗殺・・・。武力革命で政権を奪取した旧ソ連圏の共産主義者たちは、秘密警察を創り、国民を監視し、ジョージ・オウエル作『1984年』さながらの社会を構築した。この社会が共産主義に基づいた極端な脳化社会だったことは注目に値する。

 こうした極端な脳化社会が失敗する原因は何か。また、なぜ資本主義は失敗を免れたのか。

 ここには、世界と人間の関係がある。もともと人間は、偶然に満ちる世界を理解しようと思考してきた。人間は思考によって偶然を必然の過程として理解する。そうしなければ、収穫のときを知ることもできなかった。こうして人間は身の回りから順に取り巻く世界の偶然を理解し、自然の一部を利用し、生き延びる工夫を重ねてきた。古くは太陽信仰や天文学の発達がそうだったろうし、家畜の飼育や稲作の開始もそうだったはずだ。そして、そうした集団にみあう国家と権力の形成も。

 しかし人間は、自らを含む自然への畏怖を忘れなかった。世界各地に残る神殿や祭壇の遺跡は、そうした古代人の心理を直接に証明する。この日本では神社仏閣がいまでも人々の中に、かろうじてではあっても生きている。このことは、科学技術が発達した現代においても、人間が偶然に満ちた自然に囲まれて生きる実感を得ているからではないか。否定的な状況証拠になるが、共産主義は宗教を排撃しようと試みた。脳化社会には、偶然の力は認められないからだ。

 こうして、極端な脳化社会の敗北が理解できる。人間の思考が理解し計画できるのは、自然の一部にすぎないからだ。そのことは天気予報を見るだけでもわかる。発達した現代科学をもってしても、予報は外れる。地震や噴火の予想は、人間に思考の限界を伝える神の声かとすら思えるほどだ。

 このような人間の存在を前に、極端な脳化社会が敗北するのは当然だろう。そして、人間の欲望という根源、けっして脳化できない部分を核とする資本主義が、敗北を知らずに生き残ったのも当然というべきである。

 したがって、これからの社会は資本主義を継続しながら、その都度に矛盾や悪癖を見出し、それを修正していく努力を要する。この修正を妨げる傾向こそが、未来への敵なのだ。このためには、きめ細かな目配りができる地方自治体を育て、スケールの大きな事業を探し出せる頭のやわらかい国家が必要だと考える。

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
現代の脳化社会 (まろ)
2013-07-08 01:30:02
 ワタクシ、「現代の脳化社会」の典型例は、フリードマンが主唱し、ケインズに反旗を翻した「新古典派」であると思っています。
 時流に乗り、コンピューターを駆使して「統計」「資料」を集め精緻な理論を繰り広げる。ノーベル経済学賞も受賞する。わが世の春ですが、現実と乖離がひどくなり、すでに現実を説明できる理論できなくなっています。
 彼らは言います。「現実の方が間違っている」と。 
 また自分のブログで書いてみたいテーマです。
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あ、まろ先生だ (わど)
2013-07-17 18:07:00
お久しぶりです。といいながら、よく読みにいってますが(笑)。新古典派≒新自由主義ですかね。ここではBSを例に取って、脳化社会の実例を考えてみました。
先生のおっしゃるように、現代の世界を席巻したかのように見える新古典派社会も、その実例と同感。
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