――内田樹著『街場の文体論』を読み終えて
言語の態様は、バルト型にしろ春樹型にしろ、言葉と言葉にならないものとの二重の構成物と考えられる。このうち言葉にならないものは、言葉を生み出す母胎であり、言語には特別に重要である。前回の【感想】で論述を試みた民族史的な織物は、言葉にならない構成部分の呼び名だった。また、こうした二重構造が、フロイト理論の意識/無意識を基礎にしているのは興味深い。
内田樹氏によると、言葉にならないものはトラウマとは違って、見知らぬ他者や死者たちの経験せざる経験の記憶である。この意味でバルトの「作者の死」は成り立つが、言葉の表面には共時的にエクリチュールの個性、オリジナリティーが見出されるだろう。それも類似の枠(監獄)からの離脱はたいへん困難なのだが。
「魂」とか「生身」とか「ソウル」とか呼ばれる言葉にならないものは、右脳から言葉を操る左脳に向けて人にささやくという噂もある。たとえば、これがミューズのささやきである。多くの人々が作家になる必要もないだろうが、このささやきを耳にするデリケートな感性は持ちたいものだ。
好きな人と会話するとき、好きだ愛してるといわないのに、その気持ちが相手に伝わるのは、こうした言語の秘密があるからだ。これを〆としておこうwww
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