◆書く/読む/喋る/考える◆

言葉の仕組みを暴きだす。ふるい言葉を葬り去り、あたらしい言葉を発見し、構成する。生涯の願いだ。

「正しい言葉」って?/9

2005-11-25 12:36:30 | 思想・哲学
このエントリー、「正しい言葉」って? を読んで一緒に考えてくださっている方、ありがとうございます。Leftyさんとユリアさんにレスするつもりで、いつの間にか「自由」をめぐって足を取られそうになっていますが(爆)。

そこで少し、話を先取りしておきますね。文脈の混乱も避けられるでしょうし。どういうことか? 基本的には、人間の「言葉」は人間の「自由」に関係づけられているんじゃないかと考えているんです。でも、「言葉は自由を求める人間のものだ」なんて表現されると、どこか反感すら覚える傾向はありませんか? あまりにも古典的でロマンすぎ、ベタでクリシェすぎな感じがありますよね。

理由のひとつは、どこにも「自由」はないからでしょう。そんなものはバカな頭の中だけにあるもので、悪い冗談にすぎないと。「自由」は「理想」の別名であり、または思考パターンとして同根であり、人間はそれを口にして幾たびもの「民族」「祖国」防衛戦争や「開放」戦争で互いの肉体を潰しあってきた。その全部の結果が現代世界なんだと。「自由」は完璧な虚構にすぎず、そんなものを希求する(させる)のは、日本の文脈では「連赤」事件や「三島」事件や「オーム真理教」の再現を煽るのに等しい、…etc。

「自由」への疑念は、こうも表わせます。人間の生や言葉を「自由」に動機づける場合、現状の「不自由」を嘆き呪うことになりますよね。「自由」を「理想」として描けば、現実は理想からはほど遠いんです。ほど遠いことが、「理想」の定義でもあるでしょう。簡単には現実をやりすごせないという意味で、これはものすごい「不自由」なんじゃないか? 「不自由」は「不器用」にも接近しそうです。 「自由」の意識は、「不自由」の意識でもあるんじゃないか。「自由」を希求するコース選択は、絶え間なく深く「不自由」に捉えられ、そこに巻き込まれていく選択に他ならないんじゃないか? 3D的に見れば「自由」は「不自由」や「不器用」とまったく同じ姿をしている、「新自由主義」とは「新不自由主義」「新不器用主義」のことだ、というわけです(笑)。

こういう経緯からも、「言葉」を人間の「自由」とリンクさせるには、もっとしっかり考えておく必要があると思うのです。結果として、従来の「自由」概念を叩き潰していても気にしない。いい加減に「正しい言葉」を排斥する行為にも通底します。「不正の言葉」に逆に「正しさ」を与えてしまう矛盾は避ける必要がありますよね。この矛盾は欺瞞そのもの。意図せざる過失行為だとしても、「バカだった」こと以外に何のいい訳もできません。

人間の「自由」について考えようとすると、『マトリックス』(監督/脚本:ウオシャウスキー兄弟)に驚愕した経験を思いだすのです。 《続》


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   leftyさんち;正しい言葉?
   ユリアさんち;『正しい言葉?』および『「正しい言葉」って?』へのコメントです。

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