『さよならナム・ジュン・パイク展』
2006年6月10日-10月9日 ワタリウム美術館
![](http://www.watarium.co.jp/exhibition/0606_paik/0606_paik_top.jpg)
ナム・ジュン・パイクの芸歴は60年代から21世紀まで長きにわたるのだが、当方の中ではなぜか「80年代」ド真ん中の人、というイメージがある。
実際、80年代のパイクは日本の様々なメディアでも盛んに紹介され、脚光を浴びていた。しかしそのこと以上に、80年代とは「ビデオ・アートの時代」だった。その象徴がパイクだったのかなという気が、今ではする。
いや、「ビデオ・アートの時代」と言うよりも「ビデオの時代」と呼んだ方が良いかもしれない。
81年にMTVが開局し、84年からは日本でも『ザ・ポッパーズMTV』なんて番組が始まる。カルチャー・クラブだデュラン・デュランだフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドだ…と、ビデオ映えを意識したバンドがガンガン売れ始める。
番組ではなく「ビデオ」を視聴するためにTV画面を見つめるという、それまでなかった習慣が根づいたのが、この時期だ。
ちなみにレンタルビデオというシステムが発展したのは、1980年に三鷹に「黎紅堂」というレンタルレコード店が誕生して、ソフトウェアをレンタルする業態が世間に定着してからのことだ。また現在のレンタル最大手チェーン「TSUTAYA」は、82年に大阪にできたレンタルレコード喫茶「LOFT」とその姉妹店「蔦屋書店」から始まったという。どちらも80年代。
当時あちこちにできた「カフェバー」には、BOSE社のスピーカーやビリヤード台、そしてTVモニターが必須のインテリアだった。天井に吊られたモニターにうつるMTVを適当に眺めながらラムコークやカンパリソーダを飲み、メンソールの煙草をふかすのが「オシャレ」とされたものである。
それは、ビデオという意匠が一つの「付加価値」になった時代だ。
ライヴのステージでビデオ映像を用いるのも流行となり、「AVライヴ」と呼ばれた。今日、巨大スクリーンに映像をプロジェクションするのはごく普通のステージ演出だが、当時はステージ上にブラウン管ディスプレイを積み上げて映像を流すのが主流だった。
ブラウン管。
そう、70年代まではブラウン管受像機というインターフェイスも、TV番組というコンテンツも、全部まとめて大ざっぱに「テレビ」と呼ばれていた。
80年代以降、あの「箱」は単に映像を見せるためのハードウェアであり、そこに流すソフトウェアには「テレビ番組」以外にも「ビデオコンテンツ」がある、と分離して意識されるようになっていった。一般の消費者も、あの「箱」をテレビではなく「モニター」と呼ぶようになっていった。
かつては重厚な木目の家具調デザインで、お茶の間の中央にうやうやしく設置されるものであったテレビが、フローリングの床にゴロンと転がされた黒い「モニター」へと変わった、それが80年代という時代。
パイクの作品群をあらためて眺めると、こういった「ハードとソフトの分離」を意識的に行ってきたのが、よくわかる。
作品のほとんどは一見ものすごく単純に見える。いや長い時間かけて眺めても、やっぱりとんでもなく単純なアイディアだ。ほとんど子どものいたずらか冗談にしか見えない。
庭を作って木の間にTV埋めて「TVガーデン」
![](http://i.cdn.cnngo.com/sites/default/files/imagecache/inline_image_624x416/2010/11/05/IN1_Nam_June_Paik_TV_Garden1974.jpg)
モニターの前に水槽を置いて「TVフィッシュ」
![](http://farm4.staticflickr.com/3385/3579033419_dfff114a77_z.jpg)
TVの箱からブラウン管をはずして、中にろうそく立てて「TVキャンドル」。
![](http://www.ntticc.or.jp/Archive/2008/Light_InSight/Image/works/candletv.jpg)
お笑いですか。とツッコミたくなる、ほとんど瞬間芸のセンス。
そこが、強い。
パッカーンと後頭部を金だらいで叩くような、このシンプルな強さ。
ああそうか、TVってただの箱なんだな。リアルな映像だと思って感情移入して観てたのは、単なる電波の模様だったんだな。と、この途方もないシンプルさによって初めて、我々は気づくことができたのだ。
つまりパイクの作品とは、まずは「ビデオについてのアート」なのだ。
今日、現代アートの展覧会に出かけると実に多くのビデオ作品を見かけるが、「ビデオについてのアート」はあんがい少ない。
「ビデオ・インスタレーション」と銘打っていても、そのほとんどは要するにビデオ映像を上映する緻密に構築されたシステムなのであり、そこで流されるものが「ビデオ」であっても「DVD」であっても「ムービーファイル」であっても本質的な差は無い、そんな作品も多い。
しかしパイクの真骨頂は、それぞれの作品が訴えかける「ビデオとは何なのか」「映像とは何なのか」「なぜ人は映像をみるのか」という疑問符の方にある。しかもその、極端に馬鹿馬鹿しい方法での提示。
究極は、世界中を衛星でつないで映像をミックスし、タイムラグやノイズさえも映像エフェクトとして取り込んでいった『グッド・モーニング、ミスター・オーウェル』や『バイバイ、キップリング』のようなブロードキャスト作品だ。
ジャンルやスタイルを飛び越え、無秩序に、無作為に、次々とリアルタイムにミックスされていく世界中の映像。
そこに流れていたアナーキーな空気は、今日インターネットに流れる無数の匿名映像の奔流を、既に先取りしていたと思えるのだ。
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