東京は地下鉄上野駅ホームの写真。でも看板に出ている
大相撲のポスターには昭和3年春場所とあります。
それに「うへの」の表示。
実は東京メトロの地下鉄博物館。
今回訪問してきました。
日本の地下鉄は、銀座線が昭和2年に
浅草~上野間で開通したのが最初だそうです。
今や130を越える駅がある東京の地下鉄。
古い駅は、よくみると壁や通路に
歴史を感じさせるものがありますね。
友人のUさんはスタン . . . 本文を読む
山内一豊の生まれ育ったという黒田城。城址は今は小学校に
なってしまっていて石碑とこのような解説板があるのみです。
石碑の方はうしろに小学校の遊具が写ってしまうためカット。
ここは市内北部、旧木曽川町にあります。
一豊の父、盛豊は岩倉織田氏の家老として
その支城、黒田城を預かっていました。
一豊の生誕地はこの黒田城説と岩倉城説があります。
しかし父、盛豊 兄、十郎の墓は黒田城すぐ近くの
法蓮寺に . . . 本文を読む
徒歩30分車なら10分で十分いけるところにある
地元の市立博物館。
地元出身者を中心に戦国武将列伝という企画を
7月上旬まで特別展示中です。
地元の出身者って・・早い話が、NHK大河ドラマに
出てきている人たち。
なんてったって尾張の国は戦国時代の大舞台です。
純粋に市内の出身者は、
山内一豊、ねね、浅野長政(浅井ではありません)
もうちょっと広い範囲を入れれば、信長、秀吉それに
丹羽一族や . . . 本文を読む
喫茶店にあった古い写真。
おそらく戦前の隅田川らしいのですが、
詳しくはわかりません。
壁にあたった光の中に浮かぶ
昔の街は自分が生きていなかった
時代のものでもどこか懐かしさを
感じます。
街も人も変わっていきますが
四角く切り取られた風景が
懐かしくいつまでも残っています。
東京は新しいものも多いですが
ちょっと懐かしい
時代を感じさせる
絵になる風景が
所々にまだ見られます。
奈良・ . . . 本文を読む
友人のUさんが屋島の平家のことを
ブログに書いていたので、
私も平家にゆかりの画像をアップ。
既に、下関の赤間神宮の画像をアップしましたが
今日のは門司、和布刈(めかり)公園にある
巨大な壇ノ浦合戦のタイル画。
お城巡りもしているUさんなので、門司古城址も
訪問なさっているかもしれませんが
その近くにあります。
和布刈(めかり)公園から
関門橋・関門海峡を望む(左上写真)
展望台のうしろにこ . . . 本文を読む
平家滅亡の地、関門海峡の壇ノ浦。
なんだか旅日記ばかりのブログになってますが
ここもお気に入りの場所。
数年ぶりに再訪しました。
ご覧のように関門橋の真下あたり
先日ブログでご紹介した
関門人道トンネルはこの真下で
ここは「みもすそがわ」とよばれています。
ここから西に赤間神宮
(安徳天皇陵・みみなし芳一
ゆかりの地・平家七盛塚)、
伊藤博文が活躍した
日清戦争下関講和条約締結地の
春帆楼など . . . 本文を読む
氷川丸の中に展示されていた戦前の名客船たち。
精巧な模型で、船旅全盛期のころへの
ノスタルジックな想いを
つのらせてくれます。
一月近くかかるアメリカや欧州への航路に
横浜や神戸から多くの船が就航していました。
大海原を何日も長めながらの旅は
きっと心も雄大にしてくれたもの
だったでしょうね。
この模型の船たちの展示を見ていて
悲しいことに・・
ほとんどの船が戦火にまみれ
海の藻屑と化していっ . . . 本文を読む
JR松山駅の画像。国鉄で最後にできた県庁所在地駅。
(沖縄にはいまだに国鉄・JRが無いのですが・・)
ここは昭和初期にできた駅で、
伊予鉄最古の三津駅などと
比べものにならない新しい駅ですが、
昭和の雰囲気はそこかしこに残っています。
わざわざ「駅」を「驛」と書いてレトロ調を
演出していますネ。
(「驛」って訓読みは「うまや」なんですね)
JRで松山へ訪れると、まず出迎えてくれるのが
正岡子 . . . 本文を読む
坊ちゃんとくれば、やっぱりマドンナに
触れないわけにはいけないでしょう。
写真は、伊予鉄の松山市駅にあるマドンナ時計
(写真はマドンナレリーフ部分だけですが
実は上に時計がついて時計塔になってます)と
昨日の写真の1号編成とは別の
14号(いよ?)編成の坊ちゃん列車です。
この写真は既に、いつものチャットBBSには
載せましたが、ここでは右下に、本物の(?)
マドンナの写真を小さく入れてみまし . . . 本文を読む
さて、松山シリーズもそろそろ終盤です。
今日は夏目漱石が一年間教鞭を執った
旧・松山中学校の跡地に建つ
記念碑をご紹介します。
場所は、愛媛県庁と松山市役所に挟まれて、
松山城の東南の堀端です。
いまはNTT西日本四国のビルが建っています。
上の写真はちょうどその前にある
「市役所前」電停を駆け抜ける
現在の「坊ちゃん列車」。
記念碑は電停側の建物の入り口付近に
あります。
南を向いて撮影し . . . 本文を読む
道後温泉周辺に戻ります。伊佐爾波神社の北隣。
宝厳寺は,時宗の開祖一遍上人生誕地です。
明治28年(1895)10月6日,日曜日に
子規は同居の漱石と道後へ出かけます。
入浴後遊郭松枝町を通ってこの寺へ。
こんなお寺が遊郭街を抜けた
坂の上にあるのに漱石は
びっくりしています。
そのとき子規が詠んだのが
「色里や 十歩はなれて 秋のかぜ」
碑が境内には立てられています。
ここには他に斎藤 . . . 本文を読む
横浜の外人墓地のような風情はありませんが、
ひっそりと100年以上前から
松山の城北に眠り続けている
ロシアの兵士たちの墓です。
「坂の上の雲」も日露戦争を
舞台にしていますが
その日露戦争で捕虜となった
ロシア兵を収容するために
日本に初めて作られた
捕虜収容所が松山にありました。
なんと明治28年当時人口3万人程度だった
松山に6000人ほどの捕虜が住んでいたそうです。
捕虜収容所という . . . 本文を読む
一畳は 浮世の欲や 二畳庵。
松山訪問記に戻りますが
今回はじめて訪れたところのひとつが
伊予鉄古町駅近くの庚申庵。
伊予の俳人・栗田樗堂(くりたちょどう)が
52歳の時、松山の俳人たちと俳諧を
楽しむために建てた草庵です。
寛政12庚申年(1800)に建てられたので
庚申庵と名づけられたそうです。
伊予は俳句の盛んなところで
現在も市内線の路面電車の中や
松山城・道後温泉にも投句箱があり . . . 本文を読む
今年は坊ちゃんが書かれてちょうど100年の年である。
松山といえば漱石の坊ちゃんなのだが
いまだに100年前の文学作品を
観光資源にしている街はそうないだろう。
漱石が松山中学校の教師として
教鞭を執っていたのは1895年なので
舞台はそれより更に11年前を描いています。
しかし不思議な街であれだけ作品の中で
田舎扱いされたのに松山の人たちは
ものともせずに江戸っ子の
辛口なお話を100年間楽 . . . 本文を読む
雪の木曽路シリーズから、雪の江戸の街へ。
先日久々に状況したところ、東京には珍しく
大雪のお天気になりました。
予定を変更して、宿近くの雪景色を撮影。
写真は雪降る桜田門です。
幕末に水戸藩の浪士18名が
大老井伊直弼の行列を江戸城桜田門で襲った事件。
実際に起こったのは
1860年3月24日(安政7年3月3日)で
二ヶ月も後のことなのですが
きっとこんな景色であったのでしょう。
戦国時代や . . . 本文を読む