マルセラ自身も、ロレンソのために水を汲んでこようと立ち上がろうとしたその時、床に倒れかけていたロレンソが、バネのように身を起こして、マルセラの腕を捉(とら)えた。
ロレンソの手の中にある彼女の褐色の腕は、以前と変わらぬ若枝のようなしなやかさである。
しかし、その肌には、薄闇の中でも息を呑むほど、生々しい傷痕が無数に刻まれていた。
インカ軍を挑発するために、敵将アレッチェが、衆目の面前でマルセラを激しく痛めつけていた、あの屋上階の悪夢のような光景がロレンソの脳裏に甦る。
『来てはだめ!!』
アレッチェに打ち据えられながらも、挑発に乗せられかけた己を止めるために叫んだ、あの時のマルセラの必死の声が今も耳奥にこびりついて離れない。
あれだけのことがあったというのに、もともと気丈で闊達なマルセラは、今も、何事も無かったように快活に振る舞っている。
が――さすがに此度は、その身や心に受けた傷つきや衝撃は、そう軽々しいものではないだろう。
ロレンソは、胸の締め付けられる思いでマルセラの腕を握り締めたまま、懇願するような眼差しを彼女に向けた。
「マルセラ殿、行かないでくれ」
「え?
いえ、そこの水瓶から水を取って来るだけですよ」
明るい笑顔を見せて己の手をほどきかけたマルセラを、ロレンソの腕は、反射的に強く引き寄せ、次の瞬間には、全身ごと胸に抱き締めていた。
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≪アンドレス≫(インカ軍)
トゥパク・アマルの甥で、インカ皇族の青年。
剣術の達人であり、若くしてインカ軍を統率する立場にある。
スペイン人神父の父とインカ皇族の母との間に生まれた。混血の美青年(史実どおり)。
沿岸に布陣するトゥパク・アマルのインカ軍主力部隊にて副指揮官を務める。
現在は、スペイン砦を制覇すべく、インカ兵と黒人兵の混成部隊を率いて砦に進撃し、戦闘続行中。
≪ロレンソ≫(インカ軍)
アンドレスが学生時代を過ごしたクスコ神学校時代の朋友。生粋のインカ族。
反乱幕開けと共に、インカ軍に参戦した。
アンドレスに比して大人びた風貌と冷静な性格を有し、公私に渡ってアンドレスを助けてきた。
≪マルセラ≫(インカ軍)
トゥパク・アマルの最も傍近い護衛官である重臣ビルカパサの姪。
アンドレスやロレンソと同年代の年若い女性だが、青年のように闊達で勇敢な武人。
女性ながらもインカ軍をまとめる連隊長の一人で、ロレンソの恋人でもある。
砦の敵中に囚われ捕虜の身となっていたが、脱出をはかった。
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