龍造寺隆信の墓、以下「隠れた雲仙史」より
昭和六十二年頃、雲仙観光通りを考える会(当時の会長加藤元俊氏)が、満明寺の裏山、現ゲートボール場横に散らばっていた五輪塔の隆信墓石を集め、修復再建された。案内標札によると
「龍造寺家は藤原鎌足の子孫が、鎮西八郎為朝に従って九州入りした武将を祖とする。隆信は五国二洲三十五万石の大守として、南の島津、東の大友、西の隆造寺と九州を三分割する雄藩にした。
天正十二年島原地方を所領していた有馬晴信を佐賀の龍造寺隆信が攻め、島原市北門に鹿児島の島津氏の援軍を受けた有馬氏が迎え討ち、此の地で龍造寺軍は敗退し龍造寺隆信は戦死しました。墓は高来の峰、温泉山のこの地である。」 とある。
世話人の雲仙古湯、酒井店主の話によると、古湯有志により墓再建の話が出た頃、小浜商工会が、「地区起こしの資金配分」を企画、この資金を古湯地区が、寺の馬場、新湯地区に呼びかけ、三地区の資金を拠出、修復再建したとのことである。開眼供養の時は、龍造寺家の子孫、長崎戸石の澤田祐造も参列されたとのことある。尚、隆信の墓碑は、各地に建立されてある。
渋江鉄郎著「島原一揆」によると、佐賀の願行寺、高伝寺、龍泰寺に遺骨が埋葬され、高来町の湯江和銅寺、島原の護国寺には供養碑が建立されてあるとのことである。
ONE MORE THING
歴史に、もし・・・はないが、もし龍造寺が攻めてこなかったら・・、当時の島原藩主の「有馬晴信」は龍造寺からの脅威のためイエズス会より食料と武器・弾薬の援助をうけるためキリシタン改宗を決心し、口之津で洗礼を受け、天正八年(1580)キリシタン大名となってしまった。(アー・・・!)
その結果、明治政府の愚かしい排仏毀釈にも等しい領内の寺社破壊が決行された。(同様に大村領でも修験道の山として知られる多良岳でもキリシタン大名の大村純忠によって寺社仏閣の破壊が行われた。)
このことは、あの有名なフロイスの「日本史」に「温泉と呼ばれ、日本では盛んな巡礼をもって知られる豪華な神殿・・そこには大いなる硫黄の鉱山がある。神殿や僧院、および神仏像は、晴信改宗後に破壊されていた。」さらに、その破壊された寺社の資材によって教会などが造られたという・・。
いつも温泉山の歴史を話すとき、小生はつい・・もし・・と言ってしまうのです。そして・・・・なかったら温泉山は今頃きっと凄かったでしょうにと!
昭和六十二年頃、雲仙観光通りを考える会(当時の会長加藤元俊氏)が、満明寺の裏山、現ゲートボール場横に散らばっていた五輪塔の隆信墓石を集め、修復再建された。案内標札によると
「龍造寺家は藤原鎌足の子孫が、鎮西八郎為朝に従って九州入りした武将を祖とする。隆信は五国二洲三十五万石の大守として、南の島津、東の大友、西の隆造寺と九州を三分割する雄藩にした。
天正十二年島原地方を所領していた有馬晴信を佐賀の龍造寺隆信が攻め、島原市北門に鹿児島の島津氏の援軍を受けた有馬氏が迎え討ち、此の地で龍造寺軍は敗退し龍造寺隆信は戦死しました。墓は高来の峰、温泉山のこの地である。」 とある。
世話人の雲仙古湯、酒井店主の話によると、古湯有志により墓再建の話が出た頃、小浜商工会が、「地区起こしの資金配分」を企画、この資金を古湯地区が、寺の馬場、新湯地区に呼びかけ、三地区の資金を拠出、修復再建したとのことである。開眼供養の時は、龍造寺家の子孫、長崎戸石の澤田祐造も参列されたとのことある。尚、隆信の墓碑は、各地に建立されてある。
渋江鉄郎著「島原一揆」によると、佐賀の願行寺、高伝寺、龍泰寺に遺骨が埋葬され、高来町の湯江和銅寺、島原の護国寺には供養碑が建立されてあるとのことである。
ONE MORE THING
歴史に、もし・・・はないが、もし龍造寺が攻めてこなかったら・・、当時の島原藩主の「有馬晴信」は龍造寺からの脅威のためイエズス会より食料と武器・弾薬の援助をうけるためキリシタン改宗を決心し、口之津で洗礼を受け、天正八年(1580)キリシタン大名となってしまった。(アー・・・!)
その結果、明治政府の愚かしい排仏毀釈にも等しい領内の寺社破壊が決行された。(同様に大村領でも修験道の山として知られる多良岳でもキリシタン大名の大村純忠によって寺社仏閣の破壊が行われた。)
このことは、あの有名なフロイスの「日本史」に「温泉と呼ばれ、日本では盛んな巡礼をもって知られる豪華な神殿・・そこには大いなる硫黄の鉱山がある。神殿や僧院、および神仏像は、晴信改宗後に破壊されていた。」さらに、その破壊された寺社の資材によって教会などが造られたという・・。
いつも温泉山の歴史を話すとき、小生はつい・・もし・・と言ってしまうのです。そして・・・・なかったら温泉山は今頃きっと凄かったでしょうにと!