三鈷の松

空海さん伝説の三鈷の松ネットワーク

龍造寺隆信

2006-08-05 23:57:54 | 史跡名所
龍造寺隆信の墓、以下「隠れた雲仙史」より
 昭和六十二年頃、雲仙観光通りを考える会(当時の会長加藤元俊氏)が、満明寺の裏山、現ゲートボール場横に散らばっていた五輪塔の隆信墓石を集め、修復再建された。案内標札によると
 「龍造寺家は藤原鎌足の子孫が、鎮西八郎為朝に従って九州入りした武将を祖とする。隆信は五国二洲三十五万石の大守として、南の島津、東の大友、西の隆造寺と九州を三分割する雄藩にした。
 天正十二年島原地方を所領していた有馬晴信を佐賀の龍造寺隆信が攻め、島原市北門に鹿児島の島津氏の援軍を受けた有馬氏が迎え討ち、此の地で龍造寺軍は敗退し龍造寺隆信は戦死しました。墓は高来の峰、温泉山のこの地である。」 とある。
 世話人の雲仙古湯、酒井店主の話によると、古湯有志により墓再建の話が出た頃、小浜商工会が、「地区起こしの資金配分」を企画、この資金を古湯地区が、寺の馬場、新湯地区に呼びかけ、三地区の資金を拠出、修復再建したとのことである。開眼供養の時は、龍造寺家の子孫、長崎戸石の澤田祐造も参列されたとのことある。尚、隆信の墓碑は、各地に建立されてある。
 渋江鉄郎著「島原一揆」によると、佐賀の願行寺、高伝寺、龍泰寺に遺骨が埋葬され、高来町の湯江和銅寺、島原の護国寺には供養碑が建立されてあるとのことである。
ONE MORE THING
 歴史に、もし・・・はないが、もし龍造寺が攻めてこなかったら・・、当時の島原藩主の「有馬晴信」は龍造寺からの脅威のためイエズス会より食料と武器・弾薬の援助をうけるためキリシタン改宗を決心し、口之津で洗礼を受け、天正八年(1580)キリシタン大名となってしまった。(アー・・・!)
 その結果、明治政府の愚かしい排仏毀釈にも等しい領内の寺社破壊が決行された。(同様に大村領でも修験道の山として知られる多良岳でもキリシタン大名の大村純忠によって寺社仏閣の破壊が行われた。)
 このことは、あの有名なフロイスの「日本史」に「温泉と呼ばれ、日本では盛んな巡礼をもって知られる豪華な神殿・・そこには大いなる硫黄の鉱山がある。神殿や僧院、および神仏像は、晴信改宗後に破壊されていた。」さらに、その破壊された寺社の資材によって教会などが造られたという・・。
 いつも温泉山の歴史を話すとき、小生はつい・・もし・・と言ってしまうのです。そして・・・・なかったら温泉山は今頃きっと凄かったでしょうにと!
 

温泉山一乗院 宝物

2006-08-04 09:40:17 | 菅原道真
温泉山一乗院寶物、雲仙は昭和9年日本で最初の国立公園の指定を受けました。明治から大正にかけて雲仙は、避暑地湯治として外国人の人気が高く、当時の旅館の女将さんは英語とかロシア語が話せる程、日本人よりも多くのイギリス人やロシア人が長期滞在して雲仙での避暑をゴルフやテニス、乗馬、登山を楽しんでいた様です。 
 その頃の写真をみると本当に多くの外国人が雲仙を訪れていたことが判ります。その外国人達が雲仙を国立公園にという嘆願書も残っています。日本には国立公園の制度もなかったのですから・・・。
 国立公園決定記念祝賀が、昭和7年に雲仙で開催されています。(主催は雲仙国立公園協会)出品目録が残っており、その最初に「温泉山一乗院寶物目録」があります。宇多法皇御尊影 天満宮榊御影 天満宮直筆法華経 天満宮直筆四季御紋章 天満宮直筆法華経一箱 天満宮榊鏡一個などが出品者南串山村一乗院から出されていました。周知のようを宇多法皇は道真を右大臣までとりたてて下さった方になります。こういった資料が温泉山に残っていたということは・・。
 しかし、残念ながら寶物の殆どは散逸や保存状況が悪く、原形を留めていません・・・。(上記写真は、南串山一乗院生まれの父が残していたものです。)
ONE MORE THING
 雲仙情報館のカウンターにいると、外国人は軽装リック姿で「どこか、登れる山はありませんか?」そして普賢岳や絹笠山などに登ります。女性一人でも、温泉街から片道3時間以上歩いて普賢岳登山をします・・。が日本人の団体グループ観光客は、雲仙地獄(歩いて20分ほどの歩道)ですら、「車では、まわれないのですか?」と情けない・・・。
 日本には学校が全て引率する修学旅行なるものが、小学校からずっとあります。
自分で行きたい所を探し、日程を計画し、交通機関を調べて・・をする必要がない時間に追われた記念写真撮りの時間つぶしが。 

温泉山 菅原道真

2006-08-02 16:42:04 | 菅原道真
 菅原道真、好きな歴史上の人物の一人です。行基菩薩・空海さん・そして菅原道真です。高い人格・能力・右大臣というトップの政治家として道真公、圧倒的に優れた文学者として道真公。それなのにあまりに悲しく、むごい最後・・。
 怨霊となって復讐したのは当然でしょうか。それにしても、怨霊を閉じこめようとした、太宰府天満宮が、いつのまにか学問の神様がメインとなったのは、、、。法隆寺や出雲大社も怨霊を・・・。
 藤原時平の陰謀で太宰府へ無実の罪で左遷されたときに、高来郡の名山霊地温泉山に登山したと伝説があるのです。しかも、そのとき帰路に湯江村(有明町)へしばし滞在し、お世話をしていた女性に子供ができたという話です。
 また、道真公の祖父菅原清公が遣唐使として唐へ渡ったとき、空海さんが第1船に道真公の祖父が第2船でした。空海さんも唐からの帰途に太宰府に2年程滞在しています。日本山とも呼ばれていた温泉山です。太宰府で、温泉山の話を聞き及び、どちらも・・・もしかすると。
 次回興味ある「満明寺」の宝物を紹介します。
ONE MORE THING
 上記、菅原道真伝説の続きですが、「女はその後月満ち男子を生む、この子長ずるに及び才智人に勝れ、国司の命によって邑長となる、この子道真の血脈を以て菅原の名字を名乗り定紋を道真の梅鉢紋とす。」