三鈷の松

空海さん伝説の三鈷の松ネットワーク

絹笠山の隠れキリシタン像

2006-11-22 22:01:39 | 史跡名所
絹笠山・隠れキリシタン像
 雲仙白雲の池から絹笠登山道の途中から、林の中へ道らしき跡を辿ると、小さな金比羅神に逢うことができます。(歩道途中、左手にテーブルとベンチがある休憩所から、林の中へ2分程行くと巨大な岩があり、その左下へ抜けると道らしき跡があり、それを10分程すすむと、その像があり、ちょっとした広場に辿り着く)その金比羅神には、足下にカニが彫ってあり、キリシタン信仰(隠れキリシタン?)の証だと云われています。
 絹笠山は、昔から絶景で知られ、明治・大正の頃には、多くの外国人が登山し、「サンセットヒル」(夕日が沈む丘)と呼ばれ人気のハイキングコースでした。馬で登っていたという話しもあります。
 山頂から西方の千々石湾には、絶景夕日が見られ、東方には、温泉街の全景から平成新山・普賢岳・妙見岳を遠望できます。
 また、修験道繁栄の頃の史跡としては、展望岩が中腹あり回峰修行が行われていたと考えられています。この修行のなかに、恐怖の「のぞき」と呼ばれる所がある。そこは、目の眩むような絶壁の先端に、先達の山伏が修行僧の身体を縄でしばり、上半身を突き出し、谷底をのぞかせながら、谷に向けて、大声で自分を「懺悔」させるものです。 
ONE MORE THING(ザビエルとカニ)
 ザビエルが福音宣教の旅でインドネシア諸島アンボイナから小舟に乗ってセランという大きな島へ向かっていたとき大暴風に襲われ、海難をさけるためザビエルは首にかけていた十字架をはずして祈りをささげていたとき十字架が波間に消えてしまった。やがて暴風雨もおさまり、セラン島に着き、海岸を歩いていると、一匹のカニが失った十字架をハサミに挟んでザビエルに捧げたという・・・・。 

有江・温泉神社

2006-11-21 00:03:28 | 史跡名所
温泉神社・有江神
 島原半島には、明治八年の「神社明細帳」では、十八の四面宮が記録されていました。
それらは、温泉山四面宮の末社であったと考えられています。
 その「温泉山起立書」によると・・「当山は行基菩薩開基、聖武帝勅願、山内二千坊、内七百坊別所、三百坊釈迦堂辺に有、繁昌地・・」
 また、「和漢三才図解」(1712年(正徳2年)頃出版された日本の百科事典:百五巻、寺島良安著、中国の『三才図会』(百六巻、王圻選、図絵入りで説明した百科全書で満歴三十五年(1607)に成る)を範とし、いわば絵入りの百科事典)では・・「往古には大伽藍有り、日本山大乗院満明蜜寺と号す、文武天皇の大宝元年に行基の建立、三千八百坊を建立。塔十九基あり天正年中(1573~1579)耶蘇宗門が盛行し、増俗に邪教に陥る者が多かった・・」など当時の繁栄と修験僧とキリシタンとの対立の様子を想像できます。☆ 平凡社「和漢三才図14 」肥前221Pに掲載 定価2800円。
 温泉山縁起書による四面神は、島原半島全体を神域とする結界を現わし、半島の東西南北に鎮座する「千千石」「山田」「有江」「伊佐早」は密教曼荼羅図の四方位に対応すると考えられ、その中央には「温泉山温泉神」大日如来が座していると・・・凄い!
 このような修験道の聖地は日本中でも珍しいのではと考えられます!
 このうち「有江」の温泉神社は、現在の門柱も素晴らしく、広い境内には巨木が祀ってありました。国道からの参道にも「四面宮」の鳥居があり、空海さんの像もいくつか並んでいました。
ONE MORE THING 
 自動車全体の売り上げが落ちている中、軽自動車だけは順調らしい、なんといっても税金が安い! 7200円。維持費が安い!
 それにコンパクトで運転が楽だ、燃費も良いし、化石燃料を節約できCO2削減⇒温暖化防止にも。最近は装備も、安全性も改善されている。・・・となると、やっぱ軽自動車が良いに決まっている。
 なんでも「シンプル・簡単・合理的が良い!」

和銅寺・隆信公墓

2006-11-20 00:19:18 | 史跡名所
和銅寺・隆信公墓
 行基伝承がある、和銅寺の庭園には「龍造寺隆信公墓」があります。
 隆信公は、天正十二年(1584)有名な島原の沖田畷の戦いで、薩摩島津・有馬両氏に敗戦し戦死しました。隆信公の遺体は、島原の護国寺裏に葬られたとも云われてますが、
肥前佐賀の龍泰寺の大圭和尚が戦場へ行き、遺体を湯江村の和銅寺に葬ったと伝えています。
ONE MORE THING1
 島津義久の重臣で上井覚兼(うわいかっけん)という薩摩大守の記録がのこっています。
この戦後対策で、隆信公の死後一週間後に島原半島へきたと。以下抜粋
「早朝出発して、温泉山登山、千々石路から廻る。温泉の現地は言語道断、悉く荒廃しきってどうにもならない。寺院跡では念誦をなし、哀悼の意を表した。荒廃しきった満明寺の跡をみて涙を流し、袖をしぼった・・・」
 そして、満明寺の再興については島津氏が計画していたという。
 また、フロイスの日本史によると島津氏は有馬氏に対して「この度の勝利は、自分たちが奉じている神仏像のおかげであり、貴殿が必要もないのに信奉しているデウスの教えを棄てるならば、収入をふやし、種々の援助をしよう・・」と
ONE MORE THING2 
 しかし、キリシタンとなって寺社破壊を決行していた晴信は、この戦いの後に温泉山をイエズス会へ渡す密約があった・・・、「もし、デウスが敵に対して勝利を授け給うた暁には、高来にある温泉と称せられる多数の巡礼と多大な収入を有する僧院の全収入をデウスに奉献することが約束されていた・・・」
 だが、島津氏の援軍で勝利したため、晴信は実現できず替え地として長崎近郊の浦上を協会側へ与えたという・・・。

野岳・空海さん

2006-11-19 01:48:44 | 空海さん
空海さん
 西有家町郷土史によると、雲仙温泉近くの「西有家新八十八ヶ所」空海さん像は、四十一番札所:雲仙小地獄入り口、四十四番札所:一切経の滝南側行基洞内、四十五番札所:雲仙札ノ原知恩洞内、四十六番札所:雲仙小地獄丸登屋前、四十七番札所:高岩山遊歩道と林道交差点、四十八番札所:高岩山山頂、四十九番札所:小地獄一切経の滝社務所横、これ以外にオシドリの池近くの別所関荘の前に「西有家第六十八番札所」で空海さんが祀ってあるが、町史には記載がなく、別の場所の六十八番が記載してある?
 それ以外にも空海さんを祀ってある場所も多く、その一つに仁田峠の野岳にあります。
温泉街を背景に普賢岳を望んで二体が座しておられます。
ONE MORE THING
 また、富津の六角井戸の伝承以外にも千々石町にも下記の伝承があります。
「弘法大師と大豆:昔々弘法大師が全国行脚の途中千々石を通らしたげな、大師がとある一軒の家に立ち寄らしたげな、家の中では、お婆さんが大きな釜で何かをグツグツ煮ておったそうな。大師さんがお婆さんに何を煮ておるのですかとたずねると、お婆さんは味噌を作るため大豆を煮ておりますというたげな。大師が私にも少しご馳走して下さいとお願いされたそうな。するとお婆さんがまだ、煮えちょらんけんやられんと言って断ったげな。大師はその釜の中で赤ん坊を煮ているのを見通していたが、その言葉を聞いてたいへん怒られて、村中を歩きながら「サヤは出来ても実はいるな、サヤは出来ても実はいるな」と唱えながら村を出られたそうな。だからその後は千々石では大豆が出来なくなったという」・・・それにしてもこの伝承は、赤ん坊を煮ていたお婆さんとは不気味な・・。

稚児落としの滝

2006-11-18 22:41:12 | 史跡名所
稚児落としの滝
 雲仙別所ダム(オシドリの池)の駐車場に「稚児落としの滝園地」と大型名盤が作ってありますが・・・、どこに、その滝があるのかは全くわからない。
 実は、そこから車で1.2km程千々石方面へ下った大きなカーブ手前から林の中へ10分程行った所にありますが、現在は入り口の案内板もなく、途中の道は斜面が崩れており、危険な状態になっています。
 数十年前の記憶をたよりに久しぶりに行ってきました。雨が降った後だったので水量も多く小地獄の一切経の滝より迫力がありました。
ONE MORE THING
 この滝の名の由来は、稚児同士の「白雀」の争いから、僧同士の内乱となり、稚児をこの滝へ投げ入れたという伝承があるが・・、この内容の詳細は明らかでなく、直接の資料もなく、キリシタンが島原半島に浸透し始めた頃(元亀・天正年間)にあたるのでキリシタン伝道原因とする内乱だという説がある。

空照像・一夜大師

2006-11-17 22:19:54 | 史跡名所
空照像と一夜大師・高岩山
 1994年11月6日の、当時の「雲仙公園ビジターセンター」歴史散策ガイドで訪ねた「空照像・一夜大師」へ12年ぶりに辿り着きました。
 高岩山中にあり、2年程前から探していましたが、やっと見つけることができました。(現在は、ほぼ全山植林状態で悲惨な山になっています。)以下「西有家町郷土史」より抜粋
 「大正11年、島原大地震のときに龍泉寺の裏の麦畑に避難した。その年は豊作で、この地は霊地であるとうわさが流れた。当時南有馬村で病気を霊験で治すという空照さん(真言宗の僧)にお願いして、町内を中心に高岩さんを霊地に八十八ヶ所巡りを設定した。空照さんは、八十八ヶ所霊場を祈願し行基洞で二十一日間業をしたという。」
 一夜大師は、空照像からわずかに登り(戻り)分岐口から右方向へ、わずかに登ると巨大な岩(びわの口と呼ばれる岩)が眼前に現れます。これが昭和6年に空照和尚が百日修業されたという洞窟で、見岳名の信者がセメント・砂を担ぎ上げ一日で完成させたという「一夜大師」が人知れず座されています。
ONE MORE THING
 この前(11月3日)、父と子供3人を連れて、島原半島の「温泉神社」を探して一周約100kmのドライブをしてきました。温泉山の末社として、半島には現在も12~15の温泉神社が名を残し現存しています。まだ全ては確認できていませんが当時の温泉山の繁栄が想像できます・・。
 地図については、インターネットのグーグルマップが便利で、これでおよその位置を確認しプリントして利用しています。

和銅寺の行基菩薩

2006-11-16 23:09:27 | 行基菩薩
和銅時・行基伝説
 島原半島から干拓道路を渡った高来町湯江に、行基伝説(肥前七観音)がある和銅時(開山和銅元年708年)があります。
 「寺院明細帳」によると「行基が人々に異変を及ぼしていた肥後国宇土郡にあった橋脚で七体の観音像を彫った・・ 」その一体が、法川山弘済院和銅寺の御本尊で、50年に一度御開帳になる秘仏とされています。 
 像高110cmのクス材を仕用した一木造りで、その素木仕上げの御容貌は、県内の十一面観音像のうちでも代表的なものとされています。
 和銅寺は和銅元年の創建で年号寺としても有名です・・という、そこの本堂を訪ねて見ると、なんと一木作りの「行基像」「空海像」が並んで安置されていました。
 そして、和銅時の庭園には、あの「龍造寺隆信」墓があり、住職さんに隆信公の位牌を見せて頂きました。さらに、住職さんが持って来られたおみくじを引く古い箱形があったのですが、竜造寺隆信が出陣の前に、このみくじを引いたところ、何度も「凶」が出たという伝承があったと言われていました。大軍で向かい、まさか敗戦するとは思ってもいなかったでしょうが、島津の戦略にはまり・・・。
ONE MORE THING
 今や、誰もがメールアドレスを持ち、PCからインターネットを利用し、簡単に最新情報を収集・選択・利用が可能な時代になりました。文字情報から画像・音楽、ついに動画へと、あらゆる情報伝達媒体がインターネットへ集約・集中されてます。個人の「いつでも・どこでも・・オンデマンド」が現実化してきました。
 情報を受ける方は、膨大なデータから、いかに必要・重要かつ有益なデータを検索利用できるか(経費・時間・労力・資源の効率化)・・。使える人と、使えない人との差(お金・時間)は大きい!
 そして、情報を提供する方は、いかに正確な情報を、「より早く、効率良く、より多くの人へ」伝えられるかが・・。

穴観音・行基伝説

2006-11-15 21:10:47 | 行基菩薩
穴観音(行基伝説)
 加津佐岩戸山の頂上から80m程下ると、方向板があり穴観音へ行けたらしいが・・・、海抜96m簡単に登れると思っていると結構きつかった。
 登っている途中で何度か釣り人に会い、穴観音を尋ねるが反応なして、無視して行ってしまう。釣りしか興味がないのだろうか?急な斜面を注意しながら下ると海岸まで着いてしまった。釣り人がいるが・・。また、注意しながら登るが判らず山頂まで着いてしまった。以下登山口にあった解説板によると・・
「古名を岩殿山と呼び、観音道場があった霊地です。観世音の御尊体は僧行基の作であったと伝えられています。この観音堂はキリシタン騒動のため壊滅してしまいましたが、寛文11年(1671)肥後国宇土の妙覚禅尼によって復興されました。また岩戸山にある巌吼寺は、山号を補陀山と言い、加賀大乗寺の直末直系の末寺で曹洞宗明峰派に属し本尊は釈迦牟尼仏です。」
 帰宅後メールで加津佐町の観光課へ問い合わせると、担当者が確認に行かれ、画像も送信していただいた。感謝、感謝・・。
ONE MORE THING
 小生の座右の書・根井浄先生の「修験道とキリシタン」(温泉山歴史について、もっとも詳しく書いてある)によると「その岩戸山は温泉山修験の海辺の修行地であったと考えられ、温泉山修験に補陀落渡海信仰が享受されていたことが推察される。・・・」フダラクトカイ、なんと不思議で神秘的な言葉だろう。
 遠い昔、小さい頃お盆には必ず、父の実家一乗院(南串山町)へ家族で行き、お参りし、夜遅くには境内の庭の塀から夜遅くまで起きて、先祖の霊を浄土の世界へ送るたくさんの「精霊流し」を見ていた・・・補陀落渡海も精霊船も西方極楽浄土を目指していたのだろうか・・・。

加津佐 岩戸山

2006-11-14 00:43:38 | 行基菩薩
行基伝説(岩戸山・穴観音)
 大宝元年(701)年に温泉山開山伝説が残っていますが、島原半島では他に加津佐町の「岩戸山」があります。その昔、ポルトガルのイエズス会宣教師のルイス・フロイスが訪れた頃は、岩殿山と呼ばれた小島で観音道場のあった霊地でした。そして、観世音の御本尊は僧行基の作とあったと伝えられています。
 しかし有馬晴信の保身のためのキリシタン改宗により、温泉山での愚行同様、キリシタンによる寺社仏閣の破壊、仏像の破壊が加津佐でも行われました。
 フロイス「日本史」によると、「仏僧たちは仏像の安全を、はかって安全な場所である小島に隠遁しているにちがいない・・そこで我らは、それらの偶像を破壊したいという望みに駆られ・・・洞窟の中で各地の寺院から持ち寄った仏像を発見した。我らはそれらをとり出していき大きい仏像は出すこともできず、火をつけた。すべて木製で燃やすにはうってつけの材料であった。寒い季節のことで我らが司祭館では炊事用の薪が欠乏していた。そこで仏像はただちに割られて全部薪にされた・・・。」いったい、どれほど貴重な多くの仏像がキリシタンによって消滅させられたのか・・・。(参考資料 完訳フロイス日本史10 松田毅一)
ONE MORE THING
 フロイスの「日本史」を読むと、フロイス自身もここへ来て、仏像を燃やし、破壊したという、特にこの地方では仏教徒に対するキリシタンによる激しい弾圧が行われていた。彼らにとっては、修験僧たちは悪魔の使いとされていた。
 温泉山のことについても以下の記載がある。
「この地は、事実肥前の国中でもっとも美しい地方の一つであり、この地には、大きくて豪華な寺院がいくつかあって、そこへ大勢の名望のある仏僧が多数参集し・・・その山には絶えず激しい勢いで種々の硫黄の熱湯が噴出している。この硫黄泉の近くには大いなる僧院があるが、そこには実に大勢の仏僧がいる。
 ここは、日本における最大、かつもっとも一般的な霊場の一つで不断に巡礼が訪れている。これらの寺院は温泉(ウンゼン)という偶像に奉献されており、この高来の地は日本中でなおいっそう名声と評判を有することになったのである。」
・・・それらは、全て破壊されてしまった。