
和銅寺・隆信公墓
行基伝承がある、和銅寺の庭園には「龍造寺隆信公墓」があります。
隆信公は、天正十二年(1584)有名な島原の沖田畷の戦いで、薩摩島津・有馬両氏に敗戦し戦死しました。隆信公の遺体は、島原の護国寺裏に葬られたとも云われてますが、
肥前佐賀の龍泰寺の大圭和尚が戦場へ行き、遺体を湯江村の和銅寺に葬ったと伝えています。
ONE MORE THING1
島津義久の重臣で上井覚兼(うわいかっけん)という薩摩大守の記録がのこっています。
この戦後対策で、隆信公の死後一週間後に島原半島へきたと。以下抜粋
「早朝出発して、温泉山登山、千々石路から廻る。温泉の現地は言語道断、悉く荒廃しきってどうにもならない。寺院跡では念誦をなし、哀悼の意を表した。荒廃しきった満明寺の跡をみて涙を流し、袖をしぼった・・・」
そして、満明寺の再興については島津氏が計画していたという。
また、フロイスの日本史によると島津氏は有馬氏に対して「この度の勝利は、自分たちが奉じている神仏像のおかげであり、貴殿が必要もないのに信奉しているデウスの教えを棄てるならば、収入をふやし、種々の援助をしよう・・」と
ONE MORE THING2
しかし、キリシタンとなって寺社破壊を決行していた晴信は、この戦いの後に温泉山をイエズス会へ渡す密約があった・・・、「もし、デウスが敵に対して勝利を授け給うた暁には、高来にある温泉と称せられる多数の巡礼と多大な収入を有する僧院の全収入をデウスに奉献することが約束されていた・・・」
だが、島津氏の援軍で勝利したため、晴信は実現できず替え地として長崎近郊の浦上を協会側へ与えたという・・・。
行基伝承がある、和銅寺の庭園には「龍造寺隆信公墓」があります。
隆信公は、天正十二年(1584)有名な島原の沖田畷の戦いで、薩摩島津・有馬両氏に敗戦し戦死しました。隆信公の遺体は、島原の護国寺裏に葬られたとも云われてますが、
肥前佐賀の龍泰寺の大圭和尚が戦場へ行き、遺体を湯江村の和銅寺に葬ったと伝えています。
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島津義久の重臣で上井覚兼(うわいかっけん)という薩摩大守の記録がのこっています。
この戦後対策で、隆信公の死後一週間後に島原半島へきたと。以下抜粋
「早朝出発して、温泉山登山、千々石路から廻る。温泉の現地は言語道断、悉く荒廃しきってどうにもならない。寺院跡では念誦をなし、哀悼の意を表した。荒廃しきった満明寺の跡をみて涙を流し、袖をしぼった・・・」
そして、満明寺の再興については島津氏が計画していたという。
また、フロイスの日本史によると島津氏は有馬氏に対して「この度の勝利は、自分たちが奉じている神仏像のおかげであり、貴殿が必要もないのに信奉しているデウスの教えを棄てるならば、収入をふやし、種々の援助をしよう・・」と
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しかし、キリシタンとなって寺社破壊を決行していた晴信は、この戦いの後に温泉山をイエズス会へ渡す密約があった・・・、「もし、デウスが敵に対して勝利を授け給うた暁には、高来にある温泉と称せられる多数の巡礼と多大な収入を有する僧院の全収入をデウスに奉献することが約束されていた・・・」
だが、島津氏の援軍で勝利したため、晴信は実現できず替え地として長崎近郊の浦上を協会側へ与えたという・・・。
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