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三鈷の松

空海さん伝説の三鈷の松ネットワーク

温泉山地獄の首無地蔵

2015-06-21 12:16:50 | 史跡名所
 地獄歩道の大叫換地獄前の休憩舎に空海座像がありますが,一度首が刎ねられ後でコンクリで補修されています,今まで、明治始めの排仏毀釈によるものと思っていましたが、今日地獄周辺のシャシャンボという植物を撮影していたとき温泉卵を長年地獄で売っておられるおばあさんに、いろいろ昔話を伺っていたとき、衝撃の事実を知ることができました。
 なんと、お地蔵さんの首を破壊したのは、戦後雲仙に多数進駐していた外国人だったというのです・・・。

絹笠山の隠れキリシタン像

2006-11-22 22:01:39 | 史跡名所
絹笠山・隠れキリシタン像
 雲仙白雲の池から絹笠登山道の途中から、林の中へ道らしき跡を辿ると、小さな金比羅神に逢うことができます。(歩道途中、左手にテーブルとベンチがある休憩所から、林の中へ2分程行くと巨大な岩があり、その左下へ抜けると道らしき跡があり、それを10分程すすむと、その像があり、ちょっとした広場に辿り着く)その金比羅神には、足下にカニが彫ってあり、キリシタン信仰(隠れキリシタン?)の証だと云われています。
 絹笠山は、昔から絶景で知られ、明治・大正の頃には、多くの外国人が登山し、「サンセットヒル」(夕日が沈む丘)と呼ばれ人気のハイキングコースでした。馬で登っていたという話しもあります。
 山頂から西方の千々石湾には、絶景夕日が見られ、東方には、温泉街の全景から平成新山・普賢岳・妙見岳を遠望できます。
 また、修験道繁栄の頃の史跡としては、展望岩が中腹あり回峰修行が行われていたと考えられています。この修行のなかに、恐怖の「のぞき」と呼ばれる所がある。そこは、目の眩むような絶壁の先端に、先達の山伏が修行僧の身体を縄でしばり、上半身を突き出し、谷底をのぞかせながら、谷に向けて、大声で自分を「懺悔」させるものです。 
ONE MORE THING(ザビエルとカニ)
 ザビエルが福音宣教の旅でインドネシア諸島アンボイナから小舟に乗ってセランという大きな島へ向かっていたとき大暴風に襲われ、海難をさけるためザビエルは首にかけていた十字架をはずして祈りをささげていたとき十字架が波間に消えてしまった。やがて暴風雨もおさまり、セラン島に着き、海岸を歩いていると、一匹のカニが失った十字架をハサミに挟んでザビエルに捧げたという・・・・。 

有江・温泉神社

2006-11-21 00:03:28 | 史跡名所
温泉神社・有江神
 島原半島には、明治八年の「神社明細帳」では、十八の四面宮が記録されていました。
それらは、温泉山四面宮の末社であったと考えられています。
 その「温泉山起立書」によると・・「当山は行基菩薩開基、聖武帝勅願、山内二千坊、内七百坊別所、三百坊釈迦堂辺に有、繁昌地・・」
 また、「和漢三才図解」(1712年(正徳2年)頃出版された日本の百科事典:百五巻、寺島良安著、中国の『三才図会』(百六巻、王圻選、図絵入りで説明した百科全書で満歴三十五年(1607)に成る)を範とし、いわば絵入りの百科事典)では・・「往古には大伽藍有り、日本山大乗院満明蜜寺と号す、文武天皇の大宝元年に行基の建立、三千八百坊を建立。塔十九基あり天正年中(1573~1579)耶蘇宗門が盛行し、増俗に邪教に陥る者が多かった・・」など当時の繁栄と修験僧とキリシタンとの対立の様子を想像できます。☆ 平凡社「和漢三才図14 」肥前221Pに掲載 定価2800円。
 温泉山縁起書による四面神は、島原半島全体を神域とする結界を現わし、半島の東西南北に鎮座する「千千石」「山田」「有江」「伊佐早」は密教曼荼羅図の四方位に対応すると考えられ、その中央には「温泉山温泉神」大日如来が座していると・・・凄い!
 このような修験道の聖地は日本中でも珍しいのではと考えられます!
 このうち「有江」の温泉神社は、現在の門柱も素晴らしく、広い境内には巨木が祀ってありました。国道からの参道にも「四面宮」の鳥居があり、空海さんの像もいくつか並んでいました。
ONE MORE THING 
 自動車全体の売り上げが落ちている中、軽自動車だけは順調らしい、なんといっても税金が安い! 7200円。維持費が安い!
 それにコンパクトで運転が楽だ、燃費も良いし、化石燃料を節約できCO2削減⇒温暖化防止にも。最近は装備も、安全性も改善されている。・・・となると、やっぱ軽自動車が良いに決まっている。
 なんでも「シンプル・簡単・合理的が良い!」

和銅寺・隆信公墓

2006-11-20 00:19:18 | 史跡名所
和銅寺・隆信公墓
 行基伝承がある、和銅寺の庭園には「龍造寺隆信公墓」があります。
 隆信公は、天正十二年(1584)有名な島原の沖田畷の戦いで、薩摩島津・有馬両氏に敗戦し戦死しました。隆信公の遺体は、島原の護国寺裏に葬られたとも云われてますが、
肥前佐賀の龍泰寺の大圭和尚が戦場へ行き、遺体を湯江村の和銅寺に葬ったと伝えています。
ONE MORE THING1
 島津義久の重臣で上井覚兼(うわいかっけん)という薩摩大守の記録がのこっています。
この戦後対策で、隆信公の死後一週間後に島原半島へきたと。以下抜粋
「早朝出発して、温泉山登山、千々石路から廻る。温泉の現地は言語道断、悉く荒廃しきってどうにもならない。寺院跡では念誦をなし、哀悼の意を表した。荒廃しきった満明寺の跡をみて涙を流し、袖をしぼった・・・」
 そして、満明寺の再興については島津氏が計画していたという。
 また、フロイスの日本史によると島津氏は有馬氏に対して「この度の勝利は、自分たちが奉じている神仏像のおかげであり、貴殿が必要もないのに信奉しているデウスの教えを棄てるならば、収入をふやし、種々の援助をしよう・・」と
ONE MORE THING2 
 しかし、キリシタンとなって寺社破壊を決行していた晴信は、この戦いの後に温泉山をイエズス会へ渡す密約があった・・・、「もし、デウスが敵に対して勝利を授け給うた暁には、高来にある温泉と称せられる多数の巡礼と多大な収入を有する僧院の全収入をデウスに奉献することが約束されていた・・・」
 だが、島津氏の援軍で勝利したため、晴信は実現できず替え地として長崎近郊の浦上を協会側へ与えたという・・・。

稚児落としの滝

2006-11-18 22:41:12 | 史跡名所
稚児落としの滝
 雲仙別所ダム(オシドリの池)の駐車場に「稚児落としの滝園地」と大型名盤が作ってありますが・・・、どこに、その滝があるのかは全くわからない。
 実は、そこから車で1.2km程千々石方面へ下った大きなカーブ手前から林の中へ10分程行った所にありますが、現在は入り口の案内板もなく、途中の道は斜面が崩れており、危険な状態になっています。
 数十年前の記憶をたよりに久しぶりに行ってきました。雨が降った後だったので水量も多く小地獄の一切経の滝より迫力がありました。
ONE MORE THING
 この滝の名の由来は、稚児同士の「白雀」の争いから、僧同士の内乱となり、稚児をこの滝へ投げ入れたという伝承があるが・・、この内容の詳細は明らかでなく、直接の資料もなく、キリシタンが島原半島に浸透し始めた頃(元亀・天正年間)にあたるのでキリシタン伝道原因とする内乱だという説がある。

空照像・一夜大師

2006-11-17 22:19:54 | 史跡名所
空照像と一夜大師・高岩山
 1994年11月6日の、当時の「雲仙公園ビジターセンター」歴史散策ガイドで訪ねた「空照像・一夜大師」へ12年ぶりに辿り着きました。
 高岩山中にあり、2年程前から探していましたが、やっと見つけることができました。(現在は、ほぼ全山植林状態で悲惨な山になっています。)以下「西有家町郷土史」より抜粋
 「大正11年、島原大地震のときに龍泉寺の裏の麦畑に避難した。その年は豊作で、この地は霊地であるとうわさが流れた。当時南有馬村で病気を霊験で治すという空照さん(真言宗の僧)にお願いして、町内を中心に高岩さんを霊地に八十八ヶ所巡りを設定した。空照さんは、八十八ヶ所霊場を祈願し行基洞で二十一日間業をしたという。」
 一夜大師は、空照像からわずかに登り(戻り)分岐口から右方向へ、わずかに登ると巨大な岩(びわの口と呼ばれる岩)が眼前に現れます。これが昭和6年に空照和尚が百日修業されたという洞窟で、見岳名の信者がセメント・砂を担ぎ上げ一日で完成させたという「一夜大師」が人知れず座されています。
ONE MORE THING
 この前(11月3日)、父と子供3人を連れて、島原半島の「温泉神社」を探して一周約100kmのドライブをしてきました。温泉山の末社として、半島には現在も12~15の温泉神社が名を残し現存しています。まだ全ては確認できていませんが当時の温泉山の繁栄が想像できます・・。
 地図については、インターネットのグーグルマップが便利で、これでおよその位置を確認しプリントして利用しています。

龍造寺隆信

2006-08-05 23:57:54 | 史跡名所
龍造寺隆信の墓、以下「隠れた雲仙史」より
 昭和六十二年頃、雲仙観光通りを考える会(当時の会長加藤元俊氏)が、満明寺の裏山、現ゲートボール場横に散らばっていた五輪塔の隆信墓石を集め、修復再建された。案内標札によると
 「龍造寺家は藤原鎌足の子孫が、鎮西八郎為朝に従って九州入りした武将を祖とする。隆信は五国二洲三十五万石の大守として、南の島津、東の大友、西の隆造寺と九州を三分割する雄藩にした。
 天正十二年島原地方を所領していた有馬晴信を佐賀の龍造寺隆信が攻め、島原市北門に鹿児島の島津氏の援軍を受けた有馬氏が迎え討ち、此の地で龍造寺軍は敗退し龍造寺隆信は戦死しました。墓は高来の峰、温泉山のこの地である。」 とある。
 世話人の雲仙古湯、酒井店主の話によると、古湯有志により墓再建の話が出た頃、小浜商工会が、「地区起こしの資金配分」を企画、この資金を古湯地区が、寺の馬場、新湯地区に呼びかけ、三地区の資金を拠出、修復再建したとのことである。開眼供養の時は、龍造寺家の子孫、長崎戸石の澤田祐造も参列されたとのことある。尚、隆信の墓碑は、各地に建立されてある。
 渋江鉄郎著「島原一揆」によると、佐賀の願行寺、高伝寺、龍泰寺に遺骨が埋葬され、高来町の湯江和銅寺、島原の護国寺には供養碑が建立されてあるとのことである。
ONE MORE THING
 歴史に、もし・・・はないが、もし龍造寺が攻めてこなかったら・・、当時の島原藩主の「有馬晴信」は龍造寺からの脅威のためイエズス会より食料と武器・弾薬の援助をうけるためキリシタン改宗を決心し、口之津で洗礼を受け、天正八年(1580)キリシタン大名となってしまった。(アー・・・!)
 その結果、明治政府の愚かしい排仏毀釈にも等しい領内の寺社破壊が決行された。(同様に大村領でも修験道の山として知られる多良岳でもキリシタン大名の大村純忠によって寺社仏閣の破壊が行われた。)
 このことは、あの有名なフロイスの「日本史」に「温泉と呼ばれ、日本では盛んな巡礼をもって知られる豪華な神殿・・そこには大いなる硫黄の鉱山がある。神殿や僧院、および神仏像は、晴信改宗後に破壊されていた。」さらに、その破壊された寺社の資材によって教会などが造られたという・・。
 いつも温泉山の歴史を話すとき、小生はつい・・もし・・と言ってしまうのです。そして・・・・なかったら温泉山は今頃きっと凄かったでしょうにと!
 

温泉山知恩堂

2006-07-31 19:09:19 | 史跡名所
温泉山知恩堂、雲仙回峰行と、その修業堂を紹介していますが、ここ知恩堂も、行基洞と同じく、圧倒されそうな巨岩群が林立し、そこの岩をくぐり抜けたところにあります。このくぐりを、胎内めぐりと云って、仏の胎内に入り、身を清め、心の安心を願うものと云われています。
 高岩山にも、その跡があり、各地の霊場にも見受けられ、特に奈良の大仏の胎内めぐりは有名です。
 場所は、札ノ原小地獄バス停から、歩いて十分位の所で人里離れた深山幽谷の世界が広がりささやかな庵があります。
 今の知恩堂は、中興の祖である豊田カヨ尼僧で、霊感によって開山されたとも云われ、当時、目のくらむような絶壁の途中の畳三枚ぐらいの広さに、むしろ作りで雨露をしのぎ、修行されたとのことです。
 自分に厳しく、身体の極限までの、筆舌に絶する荒行で、遂に霊感を授けられ、衆生済度に尽くされたと云われています。昭和四十四年、八十八才で逝去。しかし、カヨ尼僧の徳を慕って、今でも各地から参詣者が後を絶えません。
 現在、毎月、一日、十五日、と、カヨ尼僧の命日の二十四日は、近くに住まいの尼僧の縁類の方が、お祭りをされています。

温泉山坊主岩(展望岩)

2006-07-30 23:53:22 | 史跡名所
 坊主岩、坊主谷、有名な山伏修験の各地の霊山と同じように、温泉山にも、その一つである回峰修行の跡が残っています。回峰修行とは、各峰にある修業堂を巡り、それぞれ異なった厳しい修法をするものです。
 温泉岳の山容は、仏像の蓮台のように、八葉のハスの華を表しているといわれています。そして、この修行のなかに、恐怖の「のぞき」と呼ばれる所があります。そこは、目の眩むような絶壁の先端に、先達の山伏が修行僧の身体を縄でしばり、上半身を突き出し、谷底をのぞかせながら、谷に向けて、大声で自分を「懺悔」させるものだったそうです。 
 温泉山では、その場所を坊主岩、坊主谷と呼ばれ、昔、途中の道に「天竺」(インド)と書いた立札があったそうですが・・・。昔地図には、展望岩と書いてあります。
 場所は絹笠山の裏側にあたり、目の眩むような深い谷のすぐ下に、上山領があり、千々石湾、遠く大村湾、太良岳が一望にみえる景色のよいところです。
 絹笠山登山道から登る途中にあったそうですが、現在その道は残念ですが全くわかりません。(胎内めぐり、座禅石、坊主岩、坊主谷、回峰修行跡と探るほどに、この霊場温泉岳の全盛の当時が偲ばれてならない。)

温泉山満明寺石碑

2006-07-29 00:48:36 | 史跡名所
 温泉山石書法華塔碑銘、満明寺境内入口の手洗い石の傍に、左肩が欠損した平らな石碑が建っています。(保存状態が悪く、文字の判別が現在困難になっている)
「伊勢渡海郡恵純謹建 皇和文化十年(一八一三)十一月」とある。
 碑文を要約すると、渡海目標の山で「日本山」と呼び、天皇勅願による僧行基開山の由緒ある霊山と称えたものである。このことから、伊勢、熊野の僧との深い交流が察しられています。一方、伊勢、熊野の僧と雲仙の僧とが、一緒に唐に渡海していたことを刻んだ碑が、大阪、泉南市の林昌寺という寺に残っています。
 「渡海行人、肥前国之住温泉山祐海上人 永録八年(一五六四)ニ月二十八日」
 渡海碑が現存するこの林昌寺は、真言宗御室派で、聖武天皇の勅願寺として、僧行基が開創、旧山号を温泉山と呼び、雲仙の祐海上人が、中興の祖と伝えられており、満明寺と相通じていることがわかります。
 加津佐の岩戸山も、当時、海辺の修行道場として、補陀落(観音菩薩)渡海信仰の地と云われています。
ONE MORE THING
 子供がどんどん減っている、田舎程激しく複式学級が増え小学校・中学校の統廃合が加速的に進んでいる・・・。それに反して医療が進み老人が増えている。
 この結果、あと10年後・20年後日本はどうなっているのでしょう?
さらに若い世代は・・・仕事でバイトを毎年夏の忙しい期間使っているとホント情けない学生が多い。無気力・無関心・他人とまともにコミュニケーションがとれない学生が増えている。積極的に他人と話をしないで逃げている。電話にも出ない・・、仕事についても、他人に無関心で、みんながバタバタ仕事をしていても、気にもとめずさっさと自分一人だけ帰ってしまう。

温泉山高岩山 一夜大師

2006-07-28 22:44:45 | 史跡名所
 高岩山山中の一夜大師、前述の「空照像」から更に、細いけもの道を五十米ほど登ると、巨岩群が現れ、その中の石窟の一つに、大師座像が建立されています。特にこの入口付近は、険しく、木や枝等を伝って、よじ登るほどの道となっています。
入口に、「西有家四国奥の院一夜大師」と書いた立札と、奥の院岩大師御詠歌
 ”ふみしめて のぼる御山の岩大師 慈悲の利益を残します”
 の立札があります。
 空照という修業僧が、百日修行をしたところといわれ、当時、有家町見岳名の信者の人たちが、セメント、砂など空照師を中心に、険しい道を石窟まで担ぎあげ、一夜のうちに、弘法大師像を完成させたといわれています。
 このことから、一夜大師の名がついています。
 周囲の山容からみて、この巨石群石窟は満明寺全盛時代の、回峰修行跡の一つと考えられ山伏修験の流れをくみ、回峰修行をしたものと思われます。
ONE MORE THING
 土曜日の授業の復活を!先生の労働時間が問題なら、生徒がいない「春休み・夏休み・冬休み」は休めばいい、自己満足としか思えない無意味な研修とかなんとか止めればいい。
 子供がいて子供と接してこそ先生の役目でしょう。子供がいない学校へ行ってなんになるのか?(昔の先生は良かった・・・、今の学校は事故が怖くて何もしない、何もできない。)教育委員会は無くせば良いのに!
 土曜日を復活すると・・子供も無理な授業計画でなくなり、共働きの親も助かるのに。

温泉山 空照像

2006-07-27 20:54:27 | 史跡名所
 高岩山山中の空照像、残念ながら現在たどり着く事ができません。温泉山の最後の修験僧と言われています。1994年11月6日の「雲仙公園ビジターセンター」主催の「雲仙歴史散策ツアー」で西久海氏を講師に、当時その場所まで案内されて行ったのですが・・・。(宝原園地から高岩山への登山道の途中から道無き道を植林の中へ進んで行きました。)
 何度か、この話に興味を持たれた方とも、小生も1度挑戦したのですが、山中で迷子となり、辿り着けませんでした。
ONE MORE THING
 小学生の学力低下と二極化(できる子と・・・・)。土曜日が完全休み、わけのわからん「綜合学習」とか「ふれあい学習」とか、中学生では、さらに不思議な「社会体験学習」(5日間も旅館とかで毎日朝から夕方まで働く・・?)とかで授業数が減っています。
 親が教育熱心・お金に余裕があるところは、塾などに行き授業にもついていけるが、そうでない家庭の子、例えば共働き自宅でゲーム三昧の子供は・・・。
 その後基礎学力がないまま、中学へ高校へ進学すると・・・? 

温泉山四面神伝説

2006-07-26 21:02:37 | 史跡名所
 温泉四面社伝説、十三世紀の蒙古襲撃のとき元軍に「一身三面」の勇士があらわれ幕府軍を強力な力で攻撃してところ、幕府軍に「一身四面」の勇士が忽然と現れ、元軍の「一身三面」の敵を撃破した。
 その「一身四面」の勇士に尋ねると「自分は、肥前温泉山の神」であると言ったという・・・。当時蒙古襲来のおり、日本全国の主要な神社仏閣では、異国降伏の祈祷が行われていたらしく、温泉山でも、その祈祷が行われていたという。
ONE MORE THING
 先日、雲仙の昔話を聞く会があり、驚きの話を聞きました。それは昭和30年頃まで、温泉神社で「雨乞い」の儀式が行われていたといいます。当時交通機関もなく、島原半島のあちこちから大勢の人々が温泉山へ登られ、その儀式に参加?していたそうです。それで雨が降っていたそうです・・・。
 それで、この会を継続させ「雲仙史探会」再結成することとなりました。事務局は小生が担当となりましたので興味がある方はご連絡下さい。

千々石町の「温泉神社」

2006-07-25 01:01:35 | 史跡名所
 千々石町にある「温泉神社」です。満明寺一乗院・温泉四面社を中心に島原半島全体が修験道であった頃、半島周辺にも多くの「温泉神社」がありました。
 そのうち、千々石温泉神社・有家温泉神社・山田温泉神社(現吾妻)・伊佐早温泉神社(現諌早)の四ヶ所が勧請されたそうです。そして、この配置が金剛界マンダラの中央に「大日如来」東方に「阿シュク如来」南方に「宝生如来」西方に「阿弥陀如来」北方に「釈迦如来」になると言われています。現在も島原半島の周辺には16ヶ所の「温泉神社」が現存しています。
ONE MORE THING
 子供たちのゲームの世界(バーチャルリアリティ)が進化し、恐ろしい気がします。相手を倒し殺人して進んでいくゲーム。リセットすると主人公の自分も相手も簡単に生き返る。小さな頃からゲームに、熱中してきた高校生や大学生は「死」についても感覚が麻痺してしまうのではないかと?しかも核家族化で、おじいちゃんやおばあちゃんといった身内の死の悲しみ・体験がわからない世代。

温泉山 温泉神社

2006-07-22 00:04:41 | 史跡名所
 温泉山四面宮。明治3年3月の神仏分離まで温泉神社も満明寺一乗院が支配する修験道でした。温泉神が「温泉四面宮」「四面大明神」「四面菩薩」と呼ばれ、島原半島全体が修験道の聖地でした。(左下石版に四面社と・・・)
 江戸時代の百科事典的「和漢三才図会」には、「日本山大乗院満明密寺と号す、文武天皇の大宝元年、行基三千八百坊を建立す。塔十九基有り」と記されて当時の温泉山が修験道の聖山として繁栄していたことを・・。
 日本山と呼ばれ(凄い!)かつては西の高野山と・・その後になぜ今は、・・・これから温泉山ストーリーは続きます。
ONE MORE THING
 空海さんが、大学を辞めてからの約7年間と唐から奇跡的に帰ってこられてから太宰府に2年程おられたとき、温泉山へ来られなかったのかと・・? 
 行基菩薩の跡を辿られて記録もあり、太宰府でも温泉山の事も聴かれ・・そして・・。という事で、空海さん関係の書籍を読み続けています。アマゾンで検索すると、膨大な空海さんについての書籍があり、LIFEWORKとして今後も読み続けるつもりです。