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とりあえず西洋絵画から始めて、現代日本作家まで

高倉 健

2008-07-28 | Talent

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高倉 健(たかくら けん、男性、1931年〈昭和6年〉2月16日 - )は、日本の俳優・歌手である。本名は小田 剛一(おだ ごういち)。愛称は健さん。

2006年度文化功労者。日本を代表する映画スターの一人で、半世紀にわたり活躍している。また、日本だけではなく中国でも人気がある。

代表作は映画『網走番外地』シリーズ、『日本侠客伝』シリーズ、『昭和残侠伝』シリーズ、『幸福の黄色いハンカチ』、『八甲田山』、『南極物語』、『鉄道員(ぽっぽや)』など。いずれも、邦画史に残る大ヒットを記録している。

身長180cm、体重71kg、血液型A型[1]。高倉プロモーション所属。


来歴 [編集] 幼少期から映画スターになるまで [編集]1931年(昭和6年)に福岡県中間市の裕福な一家に生まれる。父は旧海軍の軍人で、炭鉱夫の取りまとめ役などをしていた[2]。幼少期の高倉は、肺を病み、虚弱だった。終戦を迎えた中学生の時、アメリカ文化に触れ、中でもボクシングと英語に興味を持った[2]。学校に掛け合ってボクシング部を作り、夢中になって打ち込み、戦績は6勝1敗だった[2]。英語は小倉の米軍司令官の息子と友達になり、週末に遊びに行くなかで覚え、高校時代にはESS部を創設して英語力に磨きをかけた[2]。

福岡県立東筑高等学校全日制課程商業科を経て、貿易商を目指して明治大学商学部第二部商学科へ進学。在学中は相撲部のマネージャーを1年間務めていた。卒業後、思ったような就職先がなく一旦帰郷した。

1955年(昭和30年)に大学時代の知人のつてで、美空ひばりらが所属する新芸プロのマネージャーになるため、喫茶店で面接テストを受けた。その際、偶然その場にいた東映東京撮影所長で、プロデューサーのマキノ光雄にスカウトされ、東映の第2期ニューフェイスとして入社。同期に今井健二・丘さとみ・岡田敏子・五味龍太郎らがいる。当時、ニューフェイスは映画デビューまでに俳優座演技研究所で6か月、さらに東映の撮影所で6か月の修行期間(エキストラ出演など)を経ることが決められていた。

しかし翌1956年(昭和31年)、すぐに映画『電光空手打ち』の主役に抜擢され、華々しくデビュー。演技経験も皆無で、親族に有名人や映画関係者がいるわけでもない無名の新人であった高倉が、すぐに主役デビューすることは異例の大抜擢であった。元々俳優を目指していた訳ではないことから、初めて顔に化粧をした自分を鏡で見た時、情けなくて涙が止まらなかった。

その後、現代劇映画を中心に、東映東京の主演スターとして活躍を続けたが、まともな演技のトレーニングも受けたこともないまま、出演続けたことがコンプレックスになっていた。1960年代前半までの、時代劇映画中心の東映では大スターとはいえず、片岡千恵蔵や中村錦之助、美空ひばりの映画作品の助演も多かった。

 東映ヤクザ映画ブーム [編集]1963年(昭和38年)に出演した『人生劇場 飛車角』(鶴田浩二主演)が、ヤクザ映画ブームの起点となった。

1964年(昭和39年)から始まる『日本侠客伝』シリーズ、1965年(昭和40年)から始まる『網走番外地』シリーズ、『昭和残侠伝』シリーズに主演し、一躍、日本で最も集客力のあるスーパースターとなる。サラリーマン・職人から本業のヤクザ・当時の学生運動の闘士たちにも大人気となり、オールナイト興行にまでファンがあふれ、立ち見が出た。しかし「飲む・打つ・買う」の映画界にありながら、自らを厳しく律して酒を飲まず、筋力トレーニングを続けていた。その肉体美による刺青姿の立ち回りは圧巻で、他のスターとは一線を画した印象を示したことが、この大ヒット連発の一因であった[注釈 1]。たくましい体の背筋をピンと伸ばし、寡黙であり、言い訳をせずに筋を通すという高倉健のイメージは、この時期に確固たるものとなり、以後の役柄に現れている。一方でコーヒーと夜更かしが好きで、よく撮影に遅刻することがあり、監督を怒らせることもあった。この頃のイメージと風貌は、劇画『ゴルゴ13』の主人公・デューク東郷のモデルになったことでも知られ、同作の実写映画版への出演は、原作者のさいとう・たかをたっての要望であった[注釈 2]。

歌手としても、ドスの利いた渋いノドを聞かせ、人気を得るに至り、『網走番外地』は、のちに歌詞の一部が反社会的であるとの理由で一時は放送禁止歌になったが、ミリオンセラー(公称200万枚[3])の大ヒットとなる。『昭和残侠伝』シリーズの主題歌『唐獅子牡丹』も大ヒットとなり、今でもカラオケなどで歌い継がれている。

1970年(昭和45年)、来る日も来る日も同じようなストーリーのヤクザ映画に、休みなく出演し続けることに嫌気がさし、高倉プロを設立する。

1976年(昭和51年)、東映を退社し、独立した。それまで数本の外部作品(ハリウッド映画を含む)への出演もあったが、それらを除くともっぱら東映であり、多数のヤクザ映画に出演。今でもヤクザ映画のシンボル的存在となっている。

 独立、ジャンルを超えた映画俳優としての成功 [編集]1976年(昭和51年)、東映退社後初の作品『君よ憤怒の河を渉れ』(永田プロ/大映映画)にて、東映ヤクザ映画のイメージから脱却。翌1977年(昭和52年)には『八甲田山』、『幸福の黄色いハンカチ』の二作品に立て続けに主演し、第1回日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞と、第20回ブルーリボン賞の主演男優賞のダブル受賞に輝いた。これ以後も数々の作品に出演して、合計4度の日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞、2度のブルーリボン賞の主演男優賞に輝いている。また、前後してアメリカ映画や中国映画などに出演しており、1998年(平成10年)には紫綬褒章を受賞した。

独立以後も現在まで映画スターであり続けている一方で、テレビドラマへの出演は数えるほどしかない。その出演理由も「故郷にいる母親にテレビで毎週自分の顔を見て安心して欲しいから」というものである。CMの出演は多く、富士通のパソコンFMVのCMでは『幸福の黄色いハンカチ』で夫婦を演じた倍賞千恵子と再び夫婦の設定で出演し、コミカルな演技を見せ、2006年(平成18年)4月2日の『世界遺産』(TBS)で初めてナレーションを務めた。

 近況 [編集]2005年(平成17年)、『網走番外地』シリーズで高倉を育てた、恩師である石井輝男監督が死去。翌2006年(平成18年)8月、石井監督の生前の意思により、網走市内の潮見墓園に墓碑が建てられ、遺骨が納められた。“安らかに 石井輝男”と記されたこの墓碑の碑文は、高倉によってしたためられたものである。

2006年(平成18年)11月に行われた天皇、皇后両陛下主催の文化勲章受章者・文化功労者を招いたお茶会に出席して以来、公の場に姿を見せていなかったが2009年(平成21年)10月、同年8月に亡くなった女優の大原麗子の墓参りをしていたことが、2010年(平成22年)8月に伝えられた[4][5]。2011年(平成23年)8月、映画『あなたへ』で6年ぶりに銀幕復帰することが発表された。205本目の映画出演となる。
☆☆

 

暴力団の進化

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『えっ、高倉健が在日?』

 在日韓国人経済学者の朴一は、「『えっ、高倉健が在日?』あの人は日本人の代名詞みたいな人ですよね。高倉健と聞いたら日本人というイメージがあるんですが、もし高倉健が在日朝鮮人だとしたら、おそらくHタイプでしょう。私は本当かどうか知りませんよ。そういう噂はどこからとなく流れてきますよね。私も昔、大学へ入ったとき、『アラン・ドロンは在日朝鮮人よ』と先輩から聞きましたが。そういうのって好きですから、どこまでホンマかウソかわからないですが、そこら辺はあまり突っ込まないようにしましょう」と発言している[20]。(ちなみに、高倉健は、祖先は鎌倉時代の執権北条家に仕えた刈田式部大夫篤時と言われた北条篤時で、篤時の子孫が西国に移り、大内氏に仕えた後に北九州へ向かった。当地で北条の名を捨て「小松屋」の屋号で両替商を営み、後に筑前国藩主黒田家から名字帯刀を許されて小田姓を名乗るようになった[21]。江戸時代末期に『東路日記』を記した、筑前国の庄屋の内儀・小田宅子(おだいえこ)は先祖にあたる) ( Wikipedia )

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日本人の誇り

 

 

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