『可愛いくて凄い女』という映画を知っていますでしょうか。1966年の東映東京作品で、緑魔子の主演作。
僕は一応は映画ライターなのに、つい最近(2023年の晩秋)までタイトルさえ頭に入っていなかった。ラピュタ阿佐ヶ谷のちらしを見て、初めて気になった。70年代の人気刑事ドラマ「Gメン’75」(今のところ東映チャンネルでの再放送を150話まで見ている)の好エピソードをよく手掛けている小西通雄が監督だからだ。同時に、小西の活動がテレビドラマの演出中心になる以前を全く知らないことにも改めて気付かされた。
うまく時間の都合がついて、数ヶ月振りにラピュタ阿佐ヶ谷に出かけ、見たらドンピシャに相性がよかった。見終わった直後はスカッと爽やか。帰りの電車のなかで反芻しているうち、だんだんジーンとしてきた。
感想はできるだけSNSにあげるようにしているが、これは明らかに長くなりそうなので、ブログに書いておく。
まず、『可愛いくて凄い女』という映画の良さを吟味するために、前後の文脈を確認しておこう。緑魔子は当時、すでに単独主演作を持つスターだったってところから。
『現代日本映画人名事典 女優篇』(2011 キネマ旬報社)の記述を、さらにざっとまとめると、以下のようになる。
緑魔子。本名・小島良子(旧姓)。NHK演技研究所に通っている時に東映の渡辺祐介監督に抜擢され、いきなり『二匹の牝犬』(1964)の大きな役でデビュー。風俗嬢を堂々と演じて注目され、同年の『牝』で早くも主演。梅宮辰夫主演の『ひも』『かも』(1965)でも、チンピラに騙される家出娘をヴィヴィッドに演じて人気を博す。
タイトルから大よそ察せられる通り、緑魔子はデビュー以来、当時の東映のメインだった任侠映画の併映作である悪女もの、不良娘ものや〈夜の青春〉シリーズの中心女優だった。
むしろ彼女のように、演技の訓練をまだ本格的に積んでいなくてもキャメラの前で存在感を出す術が分かり、ロケの場面で街を歩けばリアリティを持ったまま埋没しない、突出した個性の演者が出現したから、「都会の吹き溜まりドラマ」(前述書)がプログラム・ピクチャーの路線として定着した面も大きいだろう。
(ちなみに、68年にフリーになった緑のあとを東映で引き継ぐかたちになったのは大原麗子だ)
とはいえ、あいにく僕は上記の映画をほぼ見ていない。『現代日本映画人名事典 女優篇』の緑魔子の項は僕が担当しているのだが、旧版の山根貞男氏、山口猛氏の原稿をほぼ活かし、後半の追記の部分だけ書かせてもらうかたちになった。それで署名は(山根・山口・若木)になっている。
ただ、当時の代表作と目される『非行少女ヨーコ』(1966)は見ていて。新宿のジャズ喫茶に仲間とたむろし、国外に旅立つ日を夢想しながら睡眠薬遊びをやめられない女の子のけだるい寂しさ、心細さに、お説教はせずに辛抱強く付き合うような映画だった。
(『非行少女ヨーコ』は降旗康男の監督デビュー作でもある。最初から、負ける側がじっと動けずにいる姿に気がいく映画作家だった。フェミニンな感性が社会にもっと根付く時代が訪れたら、降旗康男を読み直すムードがきっと生まれるでしょう。今から予見しておきます)
捨てられた子犬のように身をすくませ、大きな目ばかりキョロキョロさせた家出娘―。そんな緑魔子のイメージは、フリーになり、年齢を重ねるほどかえって強くなっていった気がする。
そんな認識だったものだから、『非行少女ヨーコ』と同じ年に主演している『可愛いくて凄い女』には驚いた。
緑魔子が明るいのだ。
緑が演じているのは、千枝子という名からチェリーと仲間内で呼ばれているスリ。園佳也子、浦辺粂子が演じる年上の同業と組み、「ハコ」(電車)をもっぱらの仕事場にしている。
場末の食堂でメシをかき込みながら、今日はどこで稼ごうかと女三人がワイワイ相談し合う冒頭から、もう楽しそう。緑魔子・園佳也子・浦辺粂子のトリオというのが、またかなり通好みの奇観だ。
チェリーは三人のなかで一番年下だがリーダー格で、率先して危ない橋を渡る。やくざ相手でも、威勢のいい啖呵を切ってひるまない。自分に仕事を教えてくれたハコ師の男(天知茂)にはすっかり惚れていて、ハコ師に叱られる時だけはシュンとなってしまうが、それでもめげずに「私を愛して!」と積極的にデートに誘う。
トラブルがこじれて、「一番安全な場所」=刑務所に逃げ込むために自首した後は、ケロッとした笑顔で女囚生活を楽しむ。
緑魔子が都会の不良少女を演じた時代は、長いつけまつげやマスカラなどのメイクが濃い時代なので、僕はずっと彼女の外見にはキツい印象を持っていた。だから服役中の、すっぴんな雰囲気が、童女のようにかわいくてびっくり。違う芸名で、健康的な役柄を演じる道を歩いたとしても十分に存在感を示せる人だったんだと分かる。
緑魔子の陽の部分をこれだけ引き出せている、というだけでも、小西通雄は大した映画監督だ。
『日本映画作品大事典』(2021 岩波書店)によると、東映東京の助監督として付いたのは、今井正、佐伯清、小沢茂弘、村山新治ら。相当な叩き上げ。
しかし映画批評の側からは、これまでほぼ注目されてこなかった。シャープな構図の画面や大胆な編集など強い個性で通を唸らせる、というタイプでは全くないからだ。ハッキリ言えば、娯楽映画、プログラム・ピクチャーが定期的に作られていた時代の、標準的な映画監督のひとり。
その、当時の標準というもののレベルの高さを、改めて思う。
60年代は、日本映画の長い過渡期だった。撮影所のスタジオに建てられたセットで大半の場面の撮影を済ませていては、現代風俗の変化のスピードからズレてしまう。ヨーロッパなど世界の映画の潮流にも合わせ、どんどんロケの場面が増えていくが、まだまだカメラは大きく、たくさんの照明が必要だ。
そんな時期に、スタジオの場面とロケの場面を組み合わせて違和感を出さないこと、全体を調和させることが、映画監督に求められる標準的な技量だった。(具体的な例をあげると、登場人物が外を歩いてきてマンションに入るまでがロケで、部屋に戻ってからがスタジオのセットになるのに見ていて気付くことがよくあるでしょう? あれです)
『可愛いくて凄い女』が、その組み合わせに突出した上手さを感じさせる映画だとは言わない。むしろ、ここはロケ、ここはスタジオ、とハッキリ識別しやすい、不器用なほうの部類だと思う。ただ、それにも関わらず見ていて水をさされた感じがしない。
高級なインテリアや人形に囲まれたマンションの部屋や、ハコ師を誘うナイトクラブはチェリーにとって楽しい世界で、屋外や電車のなかはチェリーにとっては気の張る仕事場、と脚本が求める意味合いと現場が噛み合っているのもあるだろう。
僕が小西通雄の名前を初めて意識したのは、数年前に東映チャンネルで見たドラマ「爆走!ドーベルマン刑事」(1980)。
映画でもドラマでも、激しくカットを畳みかけるカーチェイスを見ていると、途中でどっちの車が追いかけてどっちの車が逃げているほうなのか、サッパリ分からなくなってしまうことが僕はよくある。
でも、これは割と迷わずに見れるな……と気付く回があり、それが小西通雄の名前が監督クレジットで出た回だった。やはり、全体の空間把握に長じているんだと思う。
さて、『可愛いくて凄い女』の、カラッと明るい緑魔子が見られるという意外さに話を戻したいが、その明るさに、そんなに野心的な企画の狙いがあったわけでもなさそうだ。
当時の東映の悪女もの、不良娘ものは、あくまで大人気だった任侠映画のモノクロ併映作。『可愛いくて凄い女』も、封切の時は『日本侠客伝 雷門の血斗』のB面。
観客の支持を一番の根拠とするプログラム・ピクチャーの性質上(今で言えばキー局の連続ドラマと同じで)、任侠映画の人気で興行成績が良い間は方向性の大きな変更はしにくいが、毎度あんまり同じ内容で飽きられ、A面の足を引っ張ってもいけない。たまには魔子が男を出し抜く、気っぷのいい役をやる話もいいかな……位のことだったろうと想像される。
逆に言えば、その制限内でならば思い切り試していいのである。
その結果として、チェリーは、〈日本映画における女性像の変化〉という視点からも興味深いヒロインになったと僕は見立てておきたい。
戦前、よく時代劇が作られた時代。つまり、社会が女性の自立を許すなど考えもしなかった、選挙権さえ与えなかった時代に、映画のなかで男にも遠慮せず対等な口をきける独身女性といえば、芸妓や茶屋を切りまわす主人などの、いわゆる玄人。同様によく登場したのが、巾着切=女スリだった。
なぜ日本映画では伊藤大輔や山中貞雄が活躍した頃から、やくざ者の話が多く作られてきたか。
共同体からはぐれ、一般社会の良識から外れた世界に生きている者達を主人公にしたほうが、あらかじめの自由度が高くなるからだ。この方法論から生まれた価値観は、実際の反社会勢力の犯罪行為を容認するのとは別物として定着している。
これは、言うまでもない『男はつらいよ』シリーズを経て、現在の『日本統一』シリーズや『ONE PIECE』シリーズ(彼らの世界では自由な旅を生きる者はあくまで「海賊」ですけど)のロングラン人気まで含めた、日本映画の背骨を把握するための基本的なキモのひとつだと僕は考えている。
つまり、女性も、カタギの衆から外れた世界に生きることになれば、男性と対等に仕事をし、腕を競える存在として描ける、という暗黙のルールが戦前から出来ていた。
このルールは、戦後も続いた。経済的にも社会的にも精神的にも男性に依存しない、独立した女性が主人公となり、日本の映画やドラマに登場しても奇異に映らなくなったのは、いつからだろう。これは別の検討が必要になる。
ともかく、『可愛いくて凄い女』のチェリーは、時代劇の巾着切の延長であり、現代版として生きている。
でも、そのために無理に男勝りになったりはしない。ハコ師の前では、チェリーのほうから進んでメロメロになる。好きな男の人に「危ない仕事はやるなと言ったろッ」と叱られちゃうのって、たまらなくハッピーだったりするから。
それにチェリーは警察の尾行をまくため、すぐに髪型や服装を変えてみせる変装の達人でもあるのだが、もともとファッションが大好き、おしゃれも稼業のうちだもん、とあっけらかんと楽しんでいる節がある。
言ってみればチェリーは、『新版大岡政談』の櫛巻お藤(伏見直江)と縁つづきであり、「コンフィデンスマンJP」のダー子(長澤まさみ)の年のはなれたおねえさんだ。
まだ悪女の枠でしか描いてもらえない時代の制約のなかで生きているものの、男社会から独立しておしゃれやライフスタイルを楽しみ、自分の欲望を明るく肯定するチェリーはとても魅力的。
だが、現実にはチェリーが仲間とやっていることは、れっきとした犯罪だ。それを許してもらうには、映画を見る人との間に契約が必要になる。
どんな契約か。共同体から外れ、自由な世界で生きていることで得られている活力を、自分だけのために使って観客をシラけさせないことだ。
日本映画は、劇映画がよく作られるようになった頃から、アメリカ映画=ハリウッドのピューリタニズムを取り込んだストーリーの作り方の影響下にある。いかに悪者として登場しても、途中で善性に目覚め、罪をあがなう姿勢を見せれば許されるし、逆に愛してももらえるパターンがその典型だ。
昔の劇映画は、娯楽映画と芸術映画の線引きがハッキリしていた。その違いは何かを僕なりに規定するとしたら、ピューリタニズム肯定の法則に素直に従うかどうか、になる。
悪者だけど内面には善良さを持ち、悪者と闘う側に回った者が共同体社会に許される姿を、よかった、と歓迎できるのが娯楽映画。だから自ずと軽快でテンポのよいものが多い。
いや、そうやって悪者を鷹揚に許してみせる社会のほうが、もっとタチの悪い欺瞞や隠ぺいを抱えているのではないか? と警戒を抱く姿勢から出発しているのが芸術映画。だから自ずと難渋でシリアスなものが多い。
現在は、〈社会の欺瞞を骨太に問う一大アクション〉〈悲惨な現実を温かいユーモアでくるんだ家族ドラマ〉みたいなクロスオーバーがどんどん進んでいるので、娯楽映画と芸術映画の線引きは難しくなった。
ただ、娯楽映画=現状肯定、芸術映画=現状への疑義、という基本的性格の違いは、今で言うエンタテインメント系とアート系にも大体は当てはまると思う。
そういう次第で、娯楽映画においてはアウトローであればあるほど、利他的な行動や自己犠牲的精神の発露のお手本を、見る人に示す必要が出てくる。
僕が『可愛いくて凄い女』をとても好きになっているのは、ピューリタニズム肯定・現状肯定に素直に従うこと=娯楽映画に徹することに、一切の迷いがなく、澄み切っているのがいっそ気持ち良いからだ。それで緑魔子だけでなく、映画全体も明るい。
もしも海外の本格的な映画研究ラボに「日本の企業量産型娯楽映画の典型を200本リストアップしてくれ」と請われた場合は、『可愛いくて凄い女』を混ぜ込むのも有意義でありましょう、という感じ。
チェリーはマンションの隣人である若い奥さんに、盗品をいわくつきの輸入品だと偽ってはちゃっかり高めに売りつけている。大きな会社の御曹司のお嫁さんなんだから、少し位はむしってもいいでしょと思っている。
ところがその奥さんは、刑事からチェリーの正体を聞かされても、知らん顔を通す。理屈ではない。仲良くしてくれるし自分も心を許している人が、真からの悪人だとは思えない、という皮膚感覚だけ。
これにチェリーはコロッと参る。カタギの奥さんに貸しができた、と考える。そして、旦那が美人局に騙されたトラブルから奥さんの身にも危険が及ぶと、奔走し、逆に自分のほうがよっぽど損をする窮地に進んで立つことになる。
この展開が、どうにも僕は嬉しいのだ。添え物の娯楽映画の小悪党が、高貴な魂のありかたを、芸術映画や芸術祭参加作品よりもずっと無頓着に、ドサッと放り投げるように見せてくれる瞬間が。
映画では、ナイーブなテーマや精神性は、それにふさわしいジャンルよりも、少し違うジャンルでのほうがよりまっすぐに描ける場合がある。
任侠映画における、男達の利他的な行動や自己犠牲的精神の発露には、なにしろそここそが見どころなので勢い、どうだ、とばかりに情緒が前に出て、かえって顕示欲が強くなってしまう皮肉が少しある。男はどうしても、友や仲間のために犠牲になったりしたら、その分の勲章が欲しくなる。
しかし、女性が任侠道などの観念は介さず、友達が困っているんだもん、見過ごせないじゃないのさ! 以上の説明は必要なく行動する姿は、もっとアッサリしている。アッサリしていると、男達のドラマ以上に侠気の精神とは何かが強く伝わり、男達のドラマ以上にかっこよくなる。
ここで、シスターフッドという最近の言葉を使っていいのかどうかは僕には分からない。
でも少なくとも、『可愛いくて凄い女』におけるチェリーの、友達や仲間のために身体を張るのは当たり前であって、あまり後先は考えない行動のしかたは、東映では数年後の『女番長(スケバン)』シリーズや『ずべ公番長』シリーズのロールモデルになり、現在まで続くレディースもののドラマや漫画にも受け継がれていると思う。
僕は最近では、ファーストサマーウイカが元ヤンのシングルママに扮したBSテレ東のドラマ「私(あたい)のエレガンス」(2022)が好きだった。ヒロインは毎回おしとやかな女性をめざすものの、後輩をひどい目に合わせた男がいると、レディース時代に戻ってガツンと懲らしめる。そのたび、おしとやかへの道はふりだしに戻ってしまう。このパターンが見ていて妙に嬉しかった。
『可愛いくて凄い女』の脚本は、舟橋和郎と池田雄一。
舟橋和郎の最初の代表作は、『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』(1950)。『可愛いくて凄い女』の前後は『兵隊やくざ』シリーズもよく書いている。
タイトルだけ並べるとジャンルがバラバラな印象を受ける脚本家は、何でも器用に書いた人、という風にどうしても軽く思われがちだが、太い芯が内面にしっかりあるからどんなジャンル、題材でも書けた、というのが実際のはずだと僕は思っている。
『可愛いくて凄い女』のチェリーの、女性として独立した姿は、日本の男―戦争の時とマインドは大して変わらない組織にいることで安心しているような男―に頼っても仕方ないわよ、というメッセージと同質なのだ。
『きけ、わだつみの声』の、ギリギリと歯ぎしりしながら地団太を踏むような軍国社会への怒りと、チェリーの楽しいおしゃれや、男でも一匹狼を通すハコ師にならば魅かれてしまう選択は、同じ筆から生まれている。
池田雄一のほうは当時まだ新進。後の「Gメン’75」で、監督の小西通雄とよく組むことになる。
『可愛いくて凄い女』は、チェリーをなんとか現行犯で捕まえたい刑事(大坂志郎)に、憎まれ役以上の人間味、苦労人の哀愁が出ていて、そこもまた魅力なのだが、思えば「Gメン’75」初期の、池田・小西コンビのエピソードにも味わいは引き継がれている。
ファンの間では評価がすこぶる高い第17話「死刑実験室」の、時効が迫るなか、クロだと確信した男を追い詰める刑事の重苦しい焦り。
第32話「死んだはずの女」の、過去の自分の捜査に重大なミスがあったのではないか、と考えるほど募っていく刑事の不安。
第37話「チリ紙交換殺人事件」の、潜入捜査で警察を憎む若者に近づいて信用させ、事件を解決する代わりに若者の好意を裏切る刑事の断念。
犯人も刑事も人の子である。悪者を追い詰め、捕まえるサスペンスとアクションはしっかりやるが、逮捕しても残る苦い後味を大事にしたい。
そういう姿勢は、初期「Gメン’75」の全体に基本テーゼとしてあるのだが、こうして池田・小西コンビの印象的なエピソードを思い出していくと、『可愛いくて凄い女』のチェリーと刑事との間の腐れ縁的ムードの余韻がますます美味しい。
長くなったついでに、もう少しこの映画の脚本で感心したことを言うと、チェリーとハコ師の出自は一切語られず、回想も、覗わせるようなセリフもない思い切りに感心した。
これは、語らなくても当時の観客にはおおよその察しは付いたろうから、語るまでもないと判断した、ということでもある。
ハコ師は少年時代に終戦を迎えた世代。一体、どれだけの辛酸をなめて生きてきたか。
チェリーは一体どれだけ貧しい環境から逃げ出してきたか。
そういった背景に対してだ。
「女に惚れた時は、手が後ろに回る時」
ハコ師はニヒルにそう言って、チェリーの求愛を受け入れない。
しかし、チェリーをまるで妹か愛弟子のように心配し怒り、情婦のように抱く。まるっきり矛盾しているのだが、そこがまた面白い。惚れてしまうことだけが、ダメなのだ。チェリーとカタギのように、まっとうに一緒になる夢を見たら、裏稼業の腕が鈍くなってしまうのを恐れている。
ここまで書いてこなかったが、こんなにいい俳優だったんだ……と改めて感心するほど、ここでの天知茂は色っぽい。厳しい表情なのに地の温かさが滲み出てしまっているところが。それでずいぶん、ハコ師の語られない心情が表現されている。
引き締まった娯楽映画ほどよく、「女に惚れた時は、手が後ろに回る時」といったセリフ、つまり禁欲的に自分の心を抑えるセリフを前半のうちに登場人物に言わせる。伏線よりももっとストレート。
さあさあ、娯楽映画のストーリー、約束事に慣れたお客さんならさっそくご承知の通り、このセリフがクライマックスにどう崩れるのかが見どころになりますよ、と堂々と予告してしまうわけだ。それが興ざめにならないように話を運んでいき、忘れた頃にズドンと持ってくるのが娯楽映画の作り手の腕の見せどころ。
娯楽映画と芸術映画の垣根がかなり溶解した今、いかにして予想外の展開に見る者を導くか、を多くの現代映画はがんばっている。
それはそれで素晴らしい。一方で、「俺はお前には惚れない」とヒロインにクールに告げる男が現れたら、どうせ後半か終盤に白旗をあげるものと見る人みんなが呑み込んで、さて、その瞬間がいつどんな風に決まるかを待つ、というものも楽しい。
「単なる娯楽映画」というのは、大衆芸術に対してはホメ言葉なのだ。
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