3ヶ月以上ぶりにブログを更新します。
まず、前回にもザッと書いているお話をさせてください。
今夏(2023年の夏)、映画を通じた知人のハラスメントが問題になった。発端のことがあった当時は一緒の活動をしていて、よく顔を合わせる関係だったのだが、あくまで当人達の恋愛問題と受け止めて、ちゃんと当人に糺すことはなかった。そこに責任を感じて、映画ライターとしての活動をしばらく自粛するとSNSでお知らせし、たまに原稿をくれるところにもお伝えした。知らぬ顔するのがイヤだった。
これが、傍目には奇矯な行動にしか見えなかったらしく。スベッたかスベらなかったかで言うと、まあ、大スベリしたんですね。冬季五輪のリンクですかっていうぐらいにツルッツルに、周囲から引かれた。
もっともな話で、別に考えてみるまでもなく、もともと売れない映画ライターが自粛宣言したところで誰もリアクションしようはないのだ。
そういうわけで、ひとり相撲を取ってひとりで負けるのは、貴重な経験になったと前向きに捉えつつ、ヌルッとこのブログも再開させていただきます。
ただ、この自粛期間の間に、映画評のなかの不用意な言葉に対して、僕のアンテナは厳しくなった。
映画マスコミには、世の中のコンセンサスの変化とズレてる人が少なくないと分かった、が率直な印象。女性を「オバハン」と書く人がまだいたり、作者の尖った創意をホメるために「頭がおかしい」という言葉を使う人がまだいたり。
そういう表現がまかり通ることと映画界のハラスメントは、いずれは無関係でなくなる。
注意する役目は、誰かがやらないといけないと思っている。で、誰がやるかと言ったら、言い出しっぺがやるしかない。嫌われ役を人に押し付けることはできない。
これからもちょいちょい、「すぐ映画に☆や点数を付けたり、ベストテンを選びたがる人と、クラスや職場の女子の顔ランキングを作りたがる男子との間の心根の違いが分からない」など、イヤ~な発言をしていくと思いますので、よろしくお願いします。
もちろん、僕がやってしまった場合は、ぜひコテンパンに叩いてほしい。
さてさて、まくらが長くなった。
見応え、読み応えのある新作の映画を見たので、感想を書きたくなった。見た日がいったんの公開最終日の前日になってしまったので、せめて最終日の上映には間に合うよう、ノー準備、ノータイムで一気に書いてみる。書いたところで宣伝のお手伝いになるかどうかは微妙なんですが。
『曖昧な楽園』
2023
制作・配給 曖昧な楽園製作委員会
監督・脚本 小辻陽平
https://aimainarakuen.studio.site/
(※監督名の「辻」は、どうも点がひとつの漢字が正しいようなのだが、ここでは「辻」で勘弁ください)
基本、新作映画は前情報を予習せずに見る場合が多い。この映画も予告編映像を一度も開かずにいたので、若い男性が集合住宅の敷地に入っていく冒頭の、雨あがりのジメッとした空気と、その若い男性が建物に入っていくのを後ろから追っていくカメラの、ヌメヌメと流れるような動きに、オオーッ、来たな東アジア基準、と、こちらの見るギアがいきなり上がった。こぢんまりしたものはそれなりに見るし、器が大きそうなら、なるたけ合わせる。
2010年代以降に映画を作り出した人達には、意識があらかじめ日本映画離れしているというか、東アジアの先鋭的な作家の作品からより多くの影響を受けている場合が目立つ。
僕が最初にそれを感じたのはたぶん、たかはしそうたが一時、動画で限定公開していた短編「あなたが響く」(2016)を見た時だと思う。
もう、いきなり『恐怖分子』(1986-1996公開)マナー、硬く冷たい画面の気配を撮ることをストーリーより優先している感じで、エドワード・ヤンを台湾ニューウェイブ云々の歴史的文脈でなく、自分達の今を撮るのにぴったりの参照例として捉えていることに、遅まきながら感心させられたのだった。
(その後の、たかはしそうた氏の映画は見てなくてゴメンナサイ。今年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で会った時は、ちゃんと謝りましたよ……)
『曖昧な楽園』も、どうもそのセンである。日本で一番映画を見てない映画ライターの僕でさえ、あちこちに偏在する水、湿り気のサインにツァイ・ミンリャンを濃厚に感じ、セミの鳴き声もただのセミの鳴き声とは考えていない、クマゼミとヒグラシの違いなどをちゃんと尊重して録っている(と思わせてくれる)細やかな厚みに、アピチャッポン・ウィーラセタクンみたいと感じる。
ところが、どんどん映画は、そういう作家の影響を窺えば捉えられるものではなくなってくる。
いや、むしろ、監督の小辻陽平は最後まで、がっつりツァイ・ミンリャン、がっつりアピチャッポン、がっつり他の映画作家……を貫いたのかもしれない。貫いたうえで、キャストやメインスタッフとの共同作業から新しく生まれてくるのがどんなものか、見たかったのかもしれない。僕が後半からはすっかり映画の中に取り込まれ、東アジア基準どうこうを忘れたのは、きっとそういうことだろう。
ちなみに、これから公開される高野徹の『マリの話』も、序盤のエピソードはほとんど高野が敬愛しているらしいホン・サンスの模写なのがユニーク。
それを監督がやりきって満足した後に残された登場人物達は、さて中盤以降、どんな顔をしてどんな態度で生きていきましょうか……となる。監督の高野のほうがそのようすを興味津々に追う、という倒錯的なおかしみが醸し出されていて、この映画も魅力があります。
『曖昧な楽園』も、おそらく、制作途中の変更や練り直しを生産的に捉えていった印象を受ける。見始めた時とおしまいでは、世界が別の地平に移動している。
さっそくインタビューなどをじっくり読みたいと思い、公式サイトなどを開いたが……検討の結果、いったん閉じた。
この映画に関しては、誤読してみたい、と思った。
非常に理知的に、伏せるところは伏せ、彼岸と此岸の行き来を明瞭に描いている映画である。よくよく考えた上で、ここは謎にしておく、ここは整合性がとれないようにしておく、と思い切っている。
それならこっちも想念を勝手に走らせて、わざと開けてある隙間を埋め、監督やスタッフに「ぜんぜん違いますよ」と言われるぐらいのほうが、出来上がった映画に対して礼を尽くすことになるんでないかな、と。
『曖昧な楽園』を見て、一番、ウーンと僕が唸ったのは、彼岸と此岸の行き来のフラットさが、人間とはほとんど意味のないものだ、と思わせるところにまで達していて、なおかつそれがニヒリズムに陥っていないことだ。僕のモノサシでは、これは離れ業の芸当に近い。
前半の主人公・タツヤ(奥津裕也)は、生に希望を求めているから、単調な生活が苦しい。母(矢島康美)が生きて傍にいるから、ことさらに話を無視し続け、やがて爆発的に当たり散らす。
後半のペアの主人公・クラゲ(リー正敏)とアメ(内藤春)は、どうも久しぶりに再会してからよく遊ぶようになり、昏睡状態を続ける老人(トムキラン)の部屋に出入りし、世話をする。
(※タツヤは達也と漢字で書き、アメは雨らしいのだが、ここではテキストに頼らず感想を書いてみているので、音で聞いたのみという前提でカタカナにしています)
クラゲは確か「生きてることと死んでることの違いが分からない」みたいなことをつぶやき、アメは「みんなそんなもんじゃないの」と答える。いかにもブーたれた女の子の超いい加減な答えっぽいので、僕はまずおかしかったのだが、どうしてどうして、この映画のキモに近い言葉だと分かってくる。
ひんぱんに出てくる水のサインは、人間の営みや心理等の暗喩として機能しているわけではない。水がそのまま、命として撮られ、顕れている。
人間もまた、言ってしまえば半分以上が水で出来た、ただの皮袋である。なまじ脳みそが自分らしさみたいな知恵をつけてくるもんだから、自分のことを必要以上に価値のあるものと考えてしまう。
タツヤのようには生に対して執着を強く持てないクラゲとアメは、その時点で、半分は死んでいる。だから、ひとりきりの老人が電気の通っていない部屋で昏睡状態を続けているという、超現実的な空間に“秘密基地”として出入りすることができる。
この部屋には、より良く現実を生きるための「べき」や「べからず」が存在しない(つまり固有の宗教も存在しない)。出入りすることができたらもう、生きているのが苦しいとか、死ぬのが怖いとか、考える必要はない。老人の世話をしながら、2人の間に笑顔が増えてくる。あ、だからタイトルに楽園とあるのか、と今さら気付く。
ではタツヤはどうか。現実に打ち倒されかけている彼に楽園はないのか。
唐突な話になるが、僕らは基本、人間の平等を良い考え方の大前提としている。
一方でそれは、資本主義経済の発達が要請した面もある、と僕は考えている。
というのも今、『資本論』(1867)の岩波文庫での第1巻(向坂逸郎訳)を、ウンウン言いながら少しずつ読んでいるところで。カール・マルクスが「経済のキモの部分は、実はアリストテレスがとっくの昔に掴んでいるのだが、アリストテレスは労働力の分析はしなかったし、その発想がなかった。なぜなら彼の生きた社会は奴隷社会だったからだ」(大意)と喝破しているのに、最近、衝撃を受けたばかりなのだ。
人間の労働力が商品の価値のなかに自ずと組み込まれたものとして経済を考える場合、人間はみな等しい、という概念がないと(ひとりひとりの身分や家柄によって日当や時給が全部違ったりすると)、大きな社会的生産は出来なくなる。
19世紀以降、人間は平等になったおかげで、一律の労働力のコマにもなれるようになったわけだ。
つまり、資本主義経済を大是とした現在の自由主義陣営の国家では、国民はみんな、皮肉な楽園に生きている。タツヤの陰気な仏頂面は、その自画像だと言える。
もう一つ言うと、身体の悪い母親の介助が、タツヤの大きな心理的負担になっている。親の面倒は子どもが見るのが当然、という価値観が母と息子を縛り、一緒に視野狭窄に向かってしまっているさまを描いていることでは、『曖昧な楽園』の前半の章はかなり社会的リアリズムの貌を持っている。
そのタツヤと母親が、クラゲとアメのストーリーになってからは出てこない。
代わりに、先述したようにクラゲとアメは、どちらにとっても家族ではない、超現実的な老人の世話を丁寧に、楽しそうにする。花瓶の水を替えて、花にそっと新鮮な水を吸わせてあげるのと同じ手つきで。
ここには、介護をファンタジックに描く危うさが、あることはある。
ただ、その抽象的なようすには自ずと、親の面倒は子どもが見るもの、と人を縛る道徳観をほぐすところがあるとも言える。
今日(12月7日)、介護職から離職する人が働き始める人を上回る離職超過が、昨年初めて起きていた、と厚労省の調査結果が報道された。
介護はかなり大変な仕事なのに、いつまでたっても正当に評価しない社会の壁がある。繰り返すが、親の面倒は子どもが見るもの、という道徳観と、人をケアする仕事への静かな軽視はつながっている。
だから、僕のなかではこういう解釈もある。
クラゲとアメは実は存在していない。全てタツヤの夢なのだ。デリヘル嬢と出会い直し(だからアメとデリヘル嬢はヘアスタイルが似ている)、本当は母にもこうして接してあげたいという願望を超現実的な老人に投影しているのだ……と。
クラゲとアメの、老人の最期とどう付き合うかを巡る話以降は、ここでは具体的に書かないようにします。
でも、いよいよ彼岸と此岸の行き来が具体的になってからのほうが、逆に絵のつなぎ、ストーリーの連なりが滑らかになってくるのには、ハーッと感心させられた。
『曖昧な楽園』は、序盤は特に非連続的というか、この場面から次の場面となる時の時間のつながりが妙にいびつなのだ。しかしその編集は粗いわけでは決してなく、かなり狙って、精緻に乱していることは、タツヤの母親やアメの着ている服の違いでちゃんと時間経過、日替わりを示していることから分かる。(女性はおしゃれで、男はいつも同じ服、というのも隠れポイント)
現実の日常のほうが、昨日とおとついの違いも曖昧になる停滞のなかにあり、彼岸と接する1日のほうが濃密だったりする。
「みんなそんなもんじゃないの」と、それこそ平等に説かれることで、生きていくのが少しラクになる、と感じる観客はいるんじゃないか、いや、いるだろうなーと思う。
ああ、さっき僕は、『曖昧な楽園』は、後半からは他の映画作家の影響などを考えさせない独自の世界に入るといったことを書いたが、正確には少し違う。
めっちゃイングマル・ベルイマン……! とジ~ンとするところはあった。具体的には見てのお楽しみということで。
それに、おそらく監督と俳優がよく相談し合ったことで生まれている活き活きした場面には、藤田敏八、神代辰巳、長谷川和彦、柳町光男といった名前を思い出させるところがある。
戦後の撮影所システムが疲弊して終り、ロケーションが多くなり、原田芳雄、萩原健一、桃井かおり、伊佐山ひろ子等といった規格外の俳優のほうが画面の収まりがよくなる日本映画史上の大転換が1970年代に起きた時、アドリブ、即興を活かした演出を率先したもののほうが、現在でもクラシックとして残るようになった。
端的な例を言えば、『青春の殺人者』(1976)の冒頭の、水谷豊と原田美枝子がボクシングごっこをしてじゃれ合う場面。ここは、撮影の合間に、監督の長谷川和彦が何かをして遊んでくれと2人に求め、それを撮ったものだそうだ(確かDVD特典の監督インタビューで知った話)。
『曖昧な楽園』のなかで一番ぎこちなくて、一番かわいらしい場面は、クラゲとアメが夜中のリビンクでラジオをつけて向き合う場面。
踊ろうかどうしようか、呼吸が合うようで合わないような。リー正敏と内藤春はここまで、カメラの前で息ひとつするところまでクラゲとアメになっていたのに、ついつい、リー正敏と内藤春に戻りかけてしまう。『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(1984)のほぼ同じ場面のようなオフビートになりきれないくすぐったさ。
で、そこがいいんじゃん、と監督は楽しそうに受け止めている。締める必要がある場所は他にあるんだから、と全体をコントロールできている。
俳優の主体性に任せた即興演出、というと大変かっこよく聞こえて、シナリオ通りに撮るより高尚に聞こえがちだが、それだけ、監督の裁量は必要だ。
芝居を付ける技量の足りない演出家が「今回は俳優に自由に動いてもらいます」と澄ました顔で言い出したら、けっこう赤信号なのである。
その点、小辻陽平という人は、スケールがある人なんだろうなあ、と感じている。
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