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憂太郎の教育Blog

教育に関する出来事を綴っています

Kに会う

2010-03-05 21:33:09 | その他
 数年ぶりにKに会った。
 奴とは、高校以来の友人。高校時代、私はトロンボーンを吹き、奴はクラリネットを吹いていた。
 部活動が終われば、他の仲間とともに近くの喫茶店でバカ話をし(ここら辺りの話題については、近日中に詳しく書くことになる…)、ときには奴の下宿にも遊びにいったこともあった。
 奴は、私とは違って頭の出来がよかったから、一年浪人の後、京大に進み、そのまま修士に進み、博士に進んだ。研究分野は、奴から何度も教えてもらったのだけど、私にはいまひとつわからなくて…、現代物理学の放射線の研究だったと思う。博士論文を書くためなのか、いつのまにか、広島大学に移っていた。もし、その研究がノーベル賞を受賞したら、研究グループの末席に名を連ねるだろうと冗談交じりにいっていた。
 奴が京都にいたころに、2度ほど遊びにいった。2人で車中泊をしたり、ある日はモーテルに泊まりながら(呼び出した従業員のオバさんに、男2人だけど泊まっていいかと聞いたら、暴れないでくださいねと訳のわからないことを言われた)、九州までドライブしたこともあった。屋台でラーメンを食って帰った。
 さて、そのKだが、10年前の師走に交通事故に遭う。
 命は助かったが頭を強打してしまい、意識不明のまま年を越し、生死の境をさまよいながら何とか意識は回復。九死に一生を得るというのはまさにこのことで、死んでもおかしくはない事故だったようだ。だが、命は助かったものの脳に障害が残ってしまった。
 身体が無事でも、脳がやられたら、身体は動いちゃくれない。
 親元の病院に転院し、リハビリ中に会ったけど、見ちゃいられなかった。
 奴の運命といってしまえばそれまでだが、それにしちゃあ酷だなあと、まざまざと思った。
 けれど、10年の間に、リハビリの成果もあって、すこおしずつ機能が回復していったようだ。
 スローモーな動きが、すこおしずつ速くなっていったようだ。
 そうしたなか先日、数年ぶりに会ったのだった。
 会ったときの第一印象は、ほとんど健常と変わらない。会話のテンポも遅いことは遅いが悪くない。本人によると、現在は精神安定薬を常用する程度で、あとは薬の服用はなし。病院には、この薬を処方しに行くだけ。ただ、耳の機能の回復がいまひとつで、日常会話には支障がないのだが、テレビの音の認識がダメだとのこと。
 よくまあ、ここまで回復したものだと思う。
 で、今何をやっているのかと聞いたら、何もやっていないという。引きこもりの生活なのだった。
 私はてっきり、作業所で福祉的就労に従事しているのだろうと思ってたけど、リハビリ中には行っていたようだが、今は辞めたという。詳しくは聞かなかったけど、多分、つまらないのだろう。
 今は、近くの大学図書館に行って読書の毎日。家では、テレビやDVDは楽しめないから、ネットサーフィンするくらいとのこと。
 収入は、奴の障害者年金と、父親の年金。
 今のところ、父親が元気なので問題はないが(母親は亡くなっている)、父親が亡くなった後は、奴は福祉支援を受けながら生きることになるのだろう。
 それにしても、読書の毎日とはなあ。まさしく、ニートである。古風に言えば隠居生活だ。日によっては、父親以外とは会話をしないこともあるんだろう。
 そんな奴と話をしながら、ずーっと考えていたのは、就労支援ということ。
 何とか奴が働く術はないものかと考えていた。
 今の奴ができる仕事というのは、せいぜい在宅就労。それにしても、ハードルは高いだろう。
 だけど、私と同じ年のオッサンが、障害者手帳(4級か5級と言っていた。当事者にとって、あまり等級は重要ではないらしい)を持っているからといって、この先、死ぬまでの30年以上、隠居生活の人生を送るというのも酷なことだと思う。10年前までは、世界の最先端の研究室に在籍していた程の奴なのにである。私は、奴が実社会とつながる術はないかなあとずーっと考えていたのだった。
 けど、読書生活も奴なりの知的好奇心が満たされて、本人にとっては悪くない毎日なようで、それが救いといえば救いかな。だから、私が、何とか働く方法はないものか、と繰り返し奴に問いたところで、余計なおせっかいなようだった。もともと温厚な奴だったし、それに事故後10年という時を経たこともあり、持って生まれた性格と10年の年月が、これが自分の運命として受け入れたということなのだろう。
 それにしてもなあ、それが奴の運命としてもなあ、酷だなあ。と奴のことを考えると、ずーっと私は堂々巡りをしてしまうのでありました。

年が明けました

2010-01-05 22:36:04 | その他
 年が明けました。
 2010年の始まりである。
 このBlogも4年目に突入した。
 まだまだ書きたいことはいっぱいあるので、今年もまた誰に請われることなく、勝手気ままに週に1回の更新を重ねていくことと思う。
 今年の正月は、ダラダラ過ごしているうちに終わってしまった。買いためた本を読みあさったり、ちょっとした書きものをしたりと、いろいろと計画を立てていたのだが、何も手を付けないまま仕事はじめとなってしまった。多分、今年は、例年以上にダラダラの年になるのだろうと思う。
 こういう年頭のBlogで、多くの方は今年の抱負などを書き連ねるのでしょうが、私の場合は、このような場でおおやけにするような、たいそうな抱負もありませんし、それにそんな大仰な抱負を持ったところでそのように一年を過ごすことなんてできっこありませんので、毎年のことながらソロソロと始動していこうと思います。
 そういうわけで、今年もよろしくお願いします。

今年もおしまい

2009-12-30 23:45:51 | その他
 2009年も終わりである。
 このBlogもはやいもので、丸3年が終わろうとしている。
 週1回の細々とした更新ながら、今年も、こうやって定期的に書き連ねられることができた。
 おかげさまで読んでいただいている方も固定しているようで、閲覧数も大きな変動もなく推移している。それでも、検索に引っかかって、こちらに流れてくる方もいらっしゃるようで、ご新規さんもほんのわずかながら増えてきている。
 ちなみに、このBlogが検索かけて引っかかる検索ワードはなんだかおかわりだろうか。
 特別支援や発達障害や教育書のタイトルなどで引っかかるのは、それはそうなのだけれど、私にとってとても意外なワードは次の2つ。
 ひとつは、「手品師 道徳」。これ、昔の道徳教材なのだけど、まだ、読み物教材としてあるんだね。おそらく小学校の先生が、道徳授業を作るときに先行実践を探しているうちに、こちらにたどりつくのでしょう。けど、授業案はのせていないから、参考にならんだろうけれどね。
 もうひとつは「教師は5者たれ」。これ、2年前にこのテーマでお喋りをしたのだけれど、ほとんど毎日じゃないかというくらい、検索されている。これは、実に意外ですね。つまり、毎日のように、この国のどこかで、「教師は5者たれ」について知りたい人がいるんだね。2年前からこれで検索かけたら、このBlogが上位でヒットするのだから、おもしろいねえ。

 1年間ありがとうございました。
 来年もこれまでと同じように、教育についてダラダラと書き連ねることでしょう。
 それでは皆様、よいお年を。


回顧2009年~その3

2009-12-25 15:46:37 | その他
 <体重が増えた>

 特別支援学校に転勤して、体重が増えた。
 実は、私は、20代の頃より、ほぼ20年間、体重に変化がないのが隠れた自慢であった。
 体調や季節によって、せいぜい2kg前後をいったりきたりすることがあるだけで、なんなら、学生の頃に買った服なんて着ようと思えばすぐ着ることができた。
 その私が、今年の夏より、これまでの体重から+2kgになって現在にいたっている。
 で、その事態に気が付いたのは、夏に去年まで着ていたスーツを着ようとしたとき。見事にウエストが入らないのだった。この驚愕の事態は、秋になり冬になった現在にいたってなお、改善されないまま、私は、スーツ着用の際は非常に苦しい思いをすることになっているのである。
 さて、この体重並びに腹回りの膨張。原因を究明するに、様々な要因が幾重にも輻輳していることは論を俟たないところであるが、だけど、やっぱり、こいつがいちばんの原因と思うのはこれだ。
 それは、ジャージでの勤務。
 私は、こいつが、主要因だと思う。
 ジャージというのは、実に恐ろしい衣類である。20年間、結婚にも、ストレスにも、加齢にも動じなかった私の腹回りを、ほんの数ヶ月で恐らくは3cm程度膨張させたのである。
 さて、この先、ジャージ勤務を続けることで、どれだけ私の体型を変化せしめるのか予断を許さない状況である。

回顧2009年~その2

2009-12-18 00:39:21 | その他
<もう社会科論は書けない>
 今年の秋に、とある出版社から社会科教育に関する雑誌原稿の依頼がきた。
 私に原稿の依頼なんて久しぶりだね。へえ、それに社会科教育についてなんだあ。ああ、そうか、この出版社は、私が社会科教師から特別支援担当になったことを知らねえんだなあ、と合点がいった。
 私が社会科教師だったのは3年前まで。そのあと、2年間特別支援を担当して、現在にいたる。
 今でも、いくつかの社会科教育の研究団体には所属しているが、もう実践を発表できる場もないし、社会科教育に関する切実感もない。
 そんな私に原稿依頼。ほんの数秒、私は依頼を受けるべき立場にあるのか自問する。が、本来私は、これまでどんな原稿の依頼も断らないという主義を通している。ときには、ばかばかしい言葉狩りに閉口しながらも左翼系の出版社の原稿だって、依頼に添うかたちで書いたこともあった。なので、今回も特別支援学校に勤務しているのもかかわらず、へっちゃらな気分で社会科教育についての原稿依頼を受けたのだった。
 3年間社会科教育から離れていたけれど、まあ、なんとかなるだろうと、高を括っていたわけなのだ。が、これが大間違い。いざ書こうとしても、書けない。ここで、私は自分の認識の甘さに気が付いたのだった。
 私の場合、雑誌原稿の依頼というのは、ごくごくタマにしかやってこないので、わりと楽しんで原稿を書く。新卒の頃よりよりダラダラと原稿書きをしているが、これまで書けなくて苦しむなんてことはなかった。それに、締め切り間近になってから一気呵成に書くなんてこともしない。ゆっくりと、1ヶ月くらいかけて筆が進むのを楽しみながら書くという、とてもお気楽なもの。
 今回もそんな感じで、ジワジワと楽しみながらいこうかなあと思っていたら、違った。
 やはり、3年間のブランクを甘く見てはいけなかった。このブランクをフォローするのに膨大な時間がかかった。
 たとえば、社会科教育に関する議論Aのことを書こうにも、ここ3年間の社会科教育界での議論Aの動向は知らないわけで、そいつを書くためには3年間の議論Aの動向をフォローするか、いっそのこと書かないか、のどちらかになる。次に議論Bも、議論Cも、という調子で3年間の動向をフォローしないと議論が進展してくれず、そういうわけで、一向に原稿が進んでくれないのである。そもそも、雑誌原稿は鮮度が重要みたいなところがあるから、現在の社会科教育内でのトレンドを知らないということが致命的なわけで、それでもなんとか議論になるように書くわけだけど、動向を肌で感じていない分、どうしても自分の主張に自信が持てないのだった。
 そういうわけで、今回、書き上げた原稿は、何とまあ地に足がついていない、どうにもしっくりこないものになってしまった。
 今回の経験で、私は、もう社会科教師じゃあなくなったんだなと、つくづく思ったのだった。
 社会科教育には、大学時代から、それこそ15年以上にわたって携わってきてわけだけど、今回、そいつとの訣別をはっきりと実感したのだった。少し、寂しい気分になった。
 今回の原稿が、私の社会科教育に関する論考の最後になるでしょうね。
 というか、この先、特別支援学校の教師に社会科教育に関する原稿依頼なんて来るわけがないでしょうに。
 

回顧2009年~その1

2009-12-11 23:40:43 | その他
 今年も残りわずかとなりました。
 あとどれくらい今年の間にこのBlogを更新できるかわかりませんが、これから先は、私の身の回りに起こったことがらを中心に今年を振り返ることにしましょう。
 私的回顧2009年です。

<異動になりました>
 今年の私のいちばんの出来事は、何と言っても異動になったこと。
 4月より、13年間やってきた中学校教員から特別支援学校教員になった。
 自分では、異動というよりも転職に近いと思っている。
 そんな今回の異動。職種が変ったということもさることながら、今回の異動は、自分で自分の人生の岐路を選んだと実感できるものだった。まさしく、人生のエポックを自分の意思で決めたのだ。
 自分で自分の人生の岐路を選んだというのは、こういうことだ。
 私の地域で公立学校教員の異動対象者になるのは、6年勤務が基本だ。私は、まだ先の勤務校では5年目だったから、本来でいうと異動の対象者ではなかったのだ。つまり、自分から異動を希望しなければ、転勤になることはなかったのだった。
 しかし、私は自らの意志で転勤を希望し、その希望どおりに転勤になったというのが、今回の私の異動なのだ。つまりは、自分の意思で職種を変えたわけで、自分が希望しなければ、先の勤務校で引き続き勤務をしていたのだ。
 こうやって書くと、当たり前のことのように思えるが、自分で自分の人生の岐路を選ぶという経験は、そうそう人生のなかであるものではない。そして、今回、この歳になってこういう経験をして痛切に思ったのは、私の意志によって、他者の人生の歯車も変えていってしまうということだった。
 それを特に実感したのは、夏の吹奏楽コンクールの時だった。
 私は、先の勤務校では吹奏楽部の顧問をしていた。もし、私が転勤の希望を出さなければ、間違いなく私は引き続き、吹奏楽部の顧問を担当して、今夏の吹奏楽コンクールの指揮台に上がっていた。つまり、転勤希望を出さなければ、私の人生は、去年と変らない日常だったに違いないのだ。
 けれど、現実には、私は客席にいて、指揮台には別の指導者がいた。この方は、いわゆる外部指導者という、教員ではない人。
 もし、私が転勤の希望を出さなければ、この人は、間違いなく中学校の吹奏楽の指導には当たっていなかったわけで、私の意志によって、人生の歯車がちょいと変ってしまったわけなのだ。他にも、今回異動して初めて吹奏楽の顧問に当たられている教員もいるわけで、この人も、人生の歯車がちょいと変ってしまったに違いない。そして、それを変えたのは、はからずも私の意志によることが大きいのだ。私は自分の人生の岐路を自分で選ぶというのは、結果、他者の人生の歯車をも変えてしまうという、ずいぶんと大それたことなんだなあと、痛切に思ったのである。
 これがもし、6年間きちんと勤め上げて転勤になったのであれば、それは私の意志ではなく、別の力が歯車を押しているわけだから、まあ、人生とはそういうもんだよなんていう感じで、私はたいした思いを持たなかったろう。しかし今回は、違った。私は大それたことをやってしまったのでした。
 これが、今年のいちばんの出来事かな。

Blogの話題2題

2009-08-28 00:43:58 | その他
<製本してみました>
 これまでのこのBlogに書き溜めた駄文を、本にしてみました。
 オンデマンド出版とかいうんですね。
 ものは試しとネットで発注したら、すぐに製本されて納品されてきました。
 ディスプレイ上の横のものが、紙媒体の縦のものになったわけですが、そんなに違和感はありませんでした。
 早速、ここ2年間に自分が書いたのを読み直してみました。
 感想はというと…、2年前の私の方が、ちゃんと考えて書いているなあという感じ。初期の頃の方が断然いい。
 人によっては、過去に自分が書いたものなんて恥ずかしくて読めたものではない、というように思う人もいるらしいですが、私の場合は逆でした。読み直してみて、昔の自分(といってもたかが2年前ですが)が誇らしく思えます。それに比べて、今の私ときたら…という感じでしょうか。
 Blogへのコメントも、初期の方が批判的なのが多くて、やはり刺激的な内容だったのでしょうね。今じゃあ、批判もなくなりましたね。せいぜい、中学校に勤務していた頃の生徒からコメントをもらうくらいです(それも、最近は無くなりましたが)。
 それはともかく、週1回更新している以上は、やはりもう少し深く考えなくちゃあならんなあと、昔のを読み直しながらあらためて思うのでありました。


<知り合いのBlogをみつけた>
 つい先日、かなり近しい人のBlogを見つけました。
 中学校の国語教師のBlogなのですが、一読、その人だとすぐにわかりました。
 みると、もう4年以上つづっていて、全然知らなかったことに驚きでした。
 けれど、こうやって同業者の人のBlogを読んで思うのは、勤務校のことや生徒の様子を気取らない筆致で書いて、果たして平気なのかなあ、ということです。赤裸々とまでは言いませんが、それでもネット性善説に立ってネット上に他者のプライバシーを掲載している訳でありまして、同業者として大丈夫かなあと心配してしまいます。そのうえ、自分の家庭のことや自分の心情をもつづってあるわけです。
 私は、ただただ、すげえなあと思うのでありました。
 けれど、こういう、実にほのぼのとしたBlogは学校の先生に多いのも事実であります。
 私のような、身の回りの皆さんのことに触れるのを恐れるあまり、自分の実践を語らないでいる教師のBlogの方が少数でしょう(だから、あんたのBlogは評論家のようだといういらぬ誤解を受けるのでありますが…)。
 だけどね。ネット空間上にパーソナルをさらしてしまうと、もう現状については絶対的に肯定した内容でしかBlogに書けないわけで、それは実に不自由なことに違いないわけです。
 そんな不自由な状態で、発信するなんて私には絶対無理だなあと思います。
 ただ、そういう不自由な思考空間に身をおくからこそ、書く意義があるのかも知れませんが…。私には、到底、無理なことでありますが。 

蔵出し~その1

2009-08-12 22:44:53 | その他
 終戦記念日を前に、私が社会科教師だった頃に書いた雑誌原稿を上げてみようと思う。先の戦争に関するもので、数年前に掲載されたものだから、今頃上げたところで出版社にも迷惑はかからないだろう。
 題して「蔵出し」。
 原稿のタイトルは「中学校歴史の学習用語と指導のポイント“近現代の日本と世界”の重要用語と指導のポイント」といういかにも、教育専門誌らしい原稿なのですが、要は「先の戦争」を授業でどうやってとりあげたらいいか、その提案であります。では、どうぞ。
            ☆    ☆    ☆

<「太平洋戦争」のとらえ方>
 太平洋戦争(大東亜戦争)を私たちは,どうとらえたらよいのだろう。戦後五〇年以上過ぎてなお,私たちは先の戦争について,国民共通の物語を紡げないでいる。善悪の価値判断はもとより,肯定論・否定論を含め,さまざまな思想・立場から,先の戦争について論じられ,論点は輻輳している。戦争の呼称すら統一できていない現状からも,今後,国民が共通の歴史認識としてあの戦争をとらえるには,膨大な時間がかかることが予想されよう。
 本稿では,“近現代の日本と世界”の重要用語のなかから,国民の共通の了解を得るには,まだしばらくの時間と議論が必要であろう「太平洋戦争(大東亜戦争)」を取り上げ,現時点での指導のポイントを提案したい。

<日米開戦の原因>
 なぜ,日本はアメリカと戦争をしたのだろうか

 この発問の解答は,開戦の直接原因から遠因まで,多岐にわたる。
 まず,開戦の直接原因がハル・ノートの要求であったことは論をまたない。
 では,開戦に至るまでの日米関係はというと,ハル・ノートの前には,ABCD包囲網があり,日中戦争におけるアメリカ側の中国支援も,日米関係悪化の大きな要因であった。
 さらに,その日米関係悪化の遠因を探るならば,中国利権における日米の対立,あるいは日米両国の太平洋の覇権争い,アメリカの人種偏見などをあげることができよう。
 ただ,関係が悪化している状態と戦争状態とには,ずいぶんと大きな開きがあるのも事実である。そもそも戦争状態になるには,なにより相手に戦意がなければ起こりえないのである。
 つまり,当時アメリカには明らかに日本に対し戦意があったのである。

<アメリカの戦意>
 アメリカは,日本との戦争をファシズムに対するデモクラシーの正義の戦争とした。これが,開戦当時から現在にいたるまでの先の戦争におけるアメリカ側の公式見解のようなものである。
 しかし,それはアメリカが,自国の戦闘行為を正当づける口実に過ぎないことを,現在の私たちは知っている。
 当時アメリカがわが国をずっと仮想敵国にしていたことは,オレンジ計画からも明らかである。では,なぜ日本を敵国とみなしていたのかと考えるならば,わが国の存在はアメリカが太平洋・中国の利権を獲得する際の障壁であったためである。当時のアメリカはとことん覇権主義だったのである。
 また,人種偏見も,日本を敵国にすることへの踏み台となった。F・ルーズベルトが,日本人が狂暴なのは頭蓋骨の形態にあると信じていたという逸話が示す通り,当時は世界のあちこちで無邪気な優生学信仰があった。自民族至上主義(エスノセントリズム)は,当時としてはごくごく普通の感覚であった。アメリカにとって,有色人種国家であるわが国は,開戦前から叩くに足る国であり,実際開戦後は,東京大空襲や原爆投下が示す通り,まさに有色人種であるからこその非人道的行為をわが国は受け続けたのであった。

<指導のポイント>
 戦争は相手に戦意がなければ起こらない。
 わが国が大国ロシアに辛勝した日露戦争後,アメリカは,日本と戦争する計画を立て,日本を挑発し,結果,アメリカの計画どおり事は運んだ。
 なぜ,アメリカは日本と戦争をしたのだろうか
「太平洋戦争(大東亜戦争)」について指導する際のポイントとして,わが国ではなく,アメリカの立場でこの戦争をとらえることを提案する。
 そのようにとらえるなら,当時,わが国のおかれていた状況が,世界史的な視点から客観的にみえてくる。つまり,アメリカとわが国の覇権のぶつかりあい,当時としては当たり前だった人種偏見,それらが世界史の一つの事象として浮かんでくる。
 すくなくとも,日本の覇権主義・軍国主義による「侵略性」という観点だけで,先の戦争の原因をとらえようとする,偏狭で単純な単眼的思考を排除することができる。

(2001年10月『社会科教育』明治図書)


2008年の終わりである

2008-12-31 00:00:34 | その他
 2008年の終わりである。
 昨年の1月よりはじめたこのBlogも丸2年になろうとしている。
 はじめた頃は,リンクもほとんど貼ることもなく人知れず開設していたこともあって,気ままにお喋りしていたのであるが,最近は閲覧数もそこそこになって過激なことは言えなくなってきてしまった。
 今では,あるワードで検索すると,トップでヒットするまでになってしまっていて,自分でも驚いている次第である。
 そんなこのBlogも2009年は3年目に突入である。これからも週1回のペースで更新していきます。
 来年もよろしくお願いします。



生徒のケータイHPを見つけた顛末

2007-11-21 23:20:03 | その他
 前回,生徒のケータイHPを読んだことを書いたが,その後,私にとって衝撃的な事実が発覚した。
 それは,このBlogの存在を知っている生徒がいたということだ。これには,びっくりした。今年は,まだ30日以上残っているが,私にとって今年の一番の重大事になるだろう。
 実に不覚であった。こんな,人知れずひっそりと開設しているBlogを,ウチの生徒が見つけるわけもあるまいと高を括っていたのが間違いであった。
 前回,中学生はネット上の空間認識の捉えが弱いだの,随分とまあ知ったようなことを書いたのだが,ネット上の空間認識が弱かったのは,この私であった。まったくもって,恥ずかしい限りである。
 しかし,君たち(おそらく女子2名),よく私だとわかったね。私の名前で普通に検索しても,ここにはたどり着けないはずなんだけどね。それに,万が一たどり着いたとしても,関心のある中身じゃあないだろうし,折々の私情も吐露していないから,通り過ぎるだろうとも思っていたのだが…。まあ,とにかく,このBlogを読んで,書いているのが私だと確信したところがすごいよ。
 いや,少し前に,明らかに中学生とわかる,不思議なコメントが寄せられたのだ。変だなと思いつつサックリ削除したんだけど,そのとき気づけばよかったね。
 そういうわけで,これまで掲載したなかで,ウチの学校の話題にかかわる内容のものは,前回のを除いて速やかに消去しました。ネット上の発信は,慎重にしなくてはいけないということを,今回改めて認識した次第でありました。