数年ぶりにKに会った。
奴とは、高校以来の友人。高校時代、私はトロンボーンを吹き、奴はクラリネットを吹いていた。
部活動が終われば、他の仲間とともに近くの喫茶店でバカ話をし(ここら辺りの話題については、近日中に詳しく書くことになる…)、ときには奴の下宿にも遊びにいったこともあった。
奴は、私とは違って頭の出来がよかったから、一年浪人の後、京大に進み、そのまま修士に進み、博士に進んだ。研究分野は、奴から何度も教えてもらったのだけど、私にはいまひとつわからなくて…、現代物理学の放射線の研究だったと思う。博士論文を書くためなのか、いつのまにか、広島大学に移っていた。もし、その研究がノーベル賞を受賞したら、研究グループの末席に名を連ねるだろうと冗談交じりにいっていた。
奴が京都にいたころに、2度ほど遊びにいった。2人で車中泊をしたり、ある日はモーテルに泊まりながら(呼び出した従業員のオバさんに、男2人だけど泊まっていいかと聞いたら、暴れないでくださいねと訳のわからないことを言われた)、九州までドライブしたこともあった。屋台でラーメンを食って帰った。
さて、そのKだが、10年前の師走に交通事故に遭う。
命は助かったが頭を強打してしまい、意識不明のまま年を越し、生死の境をさまよいながら何とか意識は回復。九死に一生を得るというのはまさにこのことで、死んでもおかしくはない事故だったようだ。だが、命は助かったものの脳に障害が残ってしまった。
身体が無事でも、脳がやられたら、身体は動いちゃくれない。
親元の病院に転院し、リハビリ中に会ったけど、見ちゃいられなかった。
奴の運命といってしまえばそれまでだが、それにしちゃあ酷だなあと、まざまざと思った。
けれど、10年の間に、リハビリの成果もあって、すこおしずつ機能が回復していったようだ。
スローモーな動きが、すこおしずつ速くなっていったようだ。
そうしたなか先日、数年ぶりに会ったのだった。
会ったときの第一印象は、ほとんど健常と変わらない。会話のテンポも遅いことは遅いが悪くない。本人によると、現在は精神安定薬を常用する程度で、あとは薬の服用はなし。病院には、この薬を処方しに行くだけ。ただ、耳の機能の回復がいまひとつで、日常会話には支障がないのだが、テレビの音の認識がダメだとのこと。
よくまあ、ここまで回復したものだと思う。
で、今何をやっているのかと聞いたら、何もやっていないという。引きこもりの生活なのだった。
私はてっきり、作業所で福祉的就労に従事しているのだろうと思ってたけど、リハビリ中には行っていたようだが、今は辞めたという。詳しくは聞かなかったけど、多分、つまらないのだろう。
今は、近くの大学図書館に行って読書の毎日。家では、テレビやDVDは楽しめないから、ネットサーフィンするくらいとのこと。
収入は、奴の障害者年金と、父親の年金。
今のところ、父親が元気なので問題はないが(母親は亡くなっている)、父親が亡くなった後は、奴は福祉支援を受けながら生きることになるのだろう。
それにしても、読書の毎日とはなあ。まさしく、ニートである。古風に言えば隠居生活だ。日によっては、父親以外とは会話をしないこともあるんだろう。
そんな奴と話をしながら、ずーっと考えていたのは、就労支援ということ。
何とか奴が働く術はないものかと考えていた。
今の奴ができる仕事というのは、せいぜい在宅就労。それにしても、ハードルは高いだろう。
だけど、私と同じ年のオッサンが、障害者手帳(4級か5級と言っていた。当事者にとって、あまり等級は重要ではないらしい)を持っているからといって、この先、死ぬまでの30年以上、隠居生活の人生を送るというのも酷なことだと思う。10年前までは、世界の最先端の研究室に在籍していた程の奴なのにである。私は、奴が実社会とつながる術はないかなあとずーっと考えていたのだった。
けど、読書生活も奴なりの知的好奇心が満たされて、本人にとっては悪くない毎日なようで、それが救いといえば救いかな。だから、私が、何とか働く方法はないものか、と繰り返し奴に問いたところで、余計なおせっかいなようだった。もともと温厚な奴だったし、それに事故後10年という時を経たこともあり、持って生まれた性格と10年の年月が、これが自分の運命として受け入れたということなのだろう。
それにしてもなあ、それが奴の運命としてもなあ、酷だなあ。と奴のことを考えると、ずーっと私は堂々巡りをしてしまうのでありました。
奴とは、高校以来の友人。高校時代、私はトロンボーンを吹き、奴はクラリネットを吹いていた。
部活動が終われば、他の仲間とともに近くの喫茶店でバカ話をし(ここら辺りの話題については、近日中に詳しく書くことになる…)、ときには奴の下宿にも遊びにいったこともあった。
奴は、私とは違って頭の出来がよかったから、一年浪人の後、京大に進み、そのまま修士に進み、博士に進んだ。研究分野は、奴から何度も教えてもらったのだけど、私にはいまひとつわからなくて…、現代物理学の放射線の研究だったと思う。博士論文を書くためなのか、いつのまにか、広島大学に移っていた。もし、その研究がノーベル賞を受賞したら、研究グループの末席に名を連ねるだろうと冗談交じりにいっていた。
奴が京都にいたころに、2度ほど遊びにいった。2人で車中泊をしたり、ある日はモーテルに泊まりながら(呼び出した従業員のオバさんに、男2人だけど泊まっていいかと聞いたら、暴れないでくださいねと訳のわからないことを言われた)、九州までドライブしたこともあった。屋台でラーメンを食って帰った。
さて、そのKだが、10年前の師走に交通事故に遭う。
命は助かったが頭を強打してしまい、意識不明のまま年を越し、生死の境をさまよいながら何とか意識は回復。九死に一生を得るというのはまさにこのことで、死んでもおかしくはない事故だったようだ。だが、命は助かったものの脳に障害が残ってしまった。
身体が無事でも、脳がやられたら、身体は動いちゃくれない。
親元の病院に転院し、リハビリ中に会ったけど、見ちゃいられなかった。
奴の運命といってしまえばそれまでだが、それにしちゃあ酷だなあと、まざまざと思った。
けれど、10年の間に、リハビリの成果もあって、すこおしずつ機能が回復していったようだ。
スローモーな動きが、すこおしずつ速くなっていったようだ。
そうしたなか先日、数年ぶりに会ったのだった。
会ったときの第一印象は、ほとんど健常と変わらない。会話のテンポも遅いことは遅いが悪くない。本人によると、現在は精神安定薬を常用する程度で、あとは薬の服用はなし。病院には、この薬を処方しに行くだけ。ただ、耳の機能の回復がいまひとつで、日常会話には支障がないのだが、テレビの音の認識がダメだとのこと。
よくまあ、ここまで回復したものだと思う。
で、今何をやっているのかと聞いたら、何もやっていないという。引きこもりの生活なのだった。
私はてっきり、作業所で福祉的就労に従事しているのだろうと思ってたけど、リハビリ中には行っていたようだが、今は辞めたという。詳しくは聞かなかったけど、多分、つまらないのだろう。
今は、近くの大学図書館に行って読書の毎日。家では、テレビやDVDは楽しめないから、ネットサーフィンするくらいとのこと。
収入は、奴の障害者年金と、父親の年金。
今のところ、父親が元気なので問題はないが(母親は亡くなっている)、父親が亡くなった後は、奴は福祉支援を受けながら生きることになるのだろう。
それにしても、読書の毎日とはなあ。まさしく、ニートである。古風に言えば隠居生活だ。日によっては、父親以外とは会話をしないこともあるんだろう。
そんな奴と話をしながら、ずーっと考えていたのは、就労支援ということ。
何とか奴が働く術はないものかと考えていた。
今の奴ができる仕事というのは、せいぜい在宅就労。それにしても、ハードルは高いだろう。
だけど、私と同じ年のオッサンが、障害者手帳(4級か5級と言っていた。当事者にとって、あまり等級は重要ではないらしい)を持っているからといって、この先、死ぬまでの30年以上、隠居生活の人生を送るというのも酷なことだと思う。10年前までは、世界の最先端の研究室に在籍していた程の奴なのにである。私は、奴が実社会とつながる術はないかなあとずーっと考えていたのだった。
けど、読書生活も奴なりの知的好奇心が満たされて、本人にとっては悪くない毎日なようで、それが救いといえば救いかな。だから、私が、何とか働く方法はないものか、と繰り返し奴に問いたところで、余計なおせっかいなようだった。もともと温厚な奴だったし、それに事故後10年という時を経たこともあり、持って生まれた性格と10年の年月が、これが自分の運命として受け入れたということなのだろう。
それにしてもなあ、それが奴の運命としてもなあ、酷だなあ。と奴のことを考えると、ずーっと私は堂々巡りをしてしまうのでありました。