年度末、中学校教員向けの民間セミナーに参加をする。
テーマは「新年度学級びらき」。中学校の学級びらきに関するあれやこれやのセミナーであった。
新年度当初の学級経営の重要性を「黄金の3日間」と呼んだのは、向山洋一氏である。かれこれ、20年程前のことだ。当時は、「学級崩壊」という言葉こそ生まれていなかったものの、小学校で、新卒の教師が受け持った学級が6月になると崩れるのは、新学期最初の3日間に学級経営のあれやこれやを怠ったからだという、向山氏の主張はたいへんな説得力を持つものだった。
この向山氏の主張に触発されて、小学校ならず中学校もこの「黄金の3日間」の重要性を認識して、学級担任は新学期の準備をしてきた。その後、小学校教師の野中信行氏がこの「黄金の3日間」の主張の発展として、「3・7・30の法則」を提案し、さらにこの提案を中学校向けに応用するものとして、中学校教師の堀裕嗣氏が、「3・7・30・90の法則」を提案し、現在に至っている。
今回、私の参加したセミナーも、こうした20年来にわたる「学級びらき」の重要性の議論を敷衍するかたちで、いくつかの新たな提案がなされていた。
今回、セミナーで私が感じたのは、この「学級びらき」に関する提案について、随分と洗煉されたなあということだ。「黄金の3日間」から始まった「学級びらき」の諸実践が、追試や改編するなかで、今日にまで現場でバージョンアップされたということなのだろう。学校現場は、20年前よりも、ずっとずっときめ細かい配慮のもと、新学期の準備については進められるようになったということだ。
しかし、こうして洗煉された提案に接するほど、私は、どうにも窮屈な気持ちになる。
それはなぜかといえば、つまるところこういう提案が「学級経営に失敗しないため」になされているということだからである。
それはそうである。
「黄金の3日間」から、そうした主張だった。教師が学級経営に失敗しないために、この3日間を綿密な準備のもと全力であたれ、という主張だったのだから。その後の「3・7・30の法則」も「3・7・30・90の法則」も、そうした主張を発展させたものであった。すなわち主張の根底には「失敗しないため」という「守り」の思想が貫かれている。ここでの「失敗」というのは「学級崩壊」ということだ。学級は機能しなくなり、教師は苦悩し、挙げ句の果てには休職や退職や自殺までに至ってしまうという地獄への道ということだ。こうした現実が現在の学校現場に存在しているからこそ、「失敗しないため」の「守り」の学級経営は何より優先される。「失敗」が地獄であればこそ、「失敗しないため」にしっかり「守り」の学級経営にあたれということだ。
そうした実感が伴っていることもあり、こうした「失敗しないため」の「学級びらき」については、どんどん議論が細かくなり、学級づくりは精緻なものへ、システマティックなものへとなっている、というのが現状であろう。
こうした現状を20年来の進歩と言ってしまえば格好がいいけど、私には、学校現場がどうにも強迫神経症的な症状を示している感じがするのだ。つまり、「失敗」をしないために、そしてその「失敗」というのは教師の人生を狂わすほどの強烈なものだけに、それを回避するために、細かく議論され、どんどん精緻になり、システマティックなものになり…と、何かを恐れながらまるで神経症的に「学級びらき」について議論しているように思えるのである。
堀裕嗣氏の近著『必ず成功する「学級開き」魔法の90日間システム』(明治図書、2012年)を開くと、最初の3日間には「生徒たちとの心理的距離を縮める」とある。
「心理的距離を縮める」。新学期、はじめて顔を合わせた生徒達との心理的距離を縮めるにはどうするべきか。何か、教師の失敗談でも話そうか。教師の自己紹介でギターを弾いて歌を歌おうか。グループエンカウンターをしようか。…、これらの例は、「学級びらき」で生徒たちとの心理的距離を縮めるために、これまでに提案されてきたものだ。しかし、堀氏の著書には、そんな提案は一切ない。あるのは、生徒に「安心感」を与えよという主張なのだ。その主張に沿って、入学式に「安心」して参加できるように、入場の歩き方の練習を紹介し、明日からも「安心」できるように、プリントの配布のやり方について提案をしている。これが「生徒たちとの心理的距離を縮める」という提案なのだ。
恐らく、「学級びらき」で、入学式の入場の練習や、生徒へのプリントの配布の仕方について提案したのは、堀氏が初めてに違いない。別に堀氏は、入学式の入場やプリントの配布が、「学級びらき」には重要なのだということをこの著書で主張しているのではない。そうでなく、こうした入学式の入場やプリント配布という些末な部分にまで、教師は細心の注意をはらって、最初の3日間を過ごせと言うことを主張しているのだ。
こうしたきめの細やかさ(著書には「最大限の丁寧さ」と表現されている)を求める主張は、20年来の学校現場で議論された「学級びらき」の集大成といえば格好がいいけれど、どうにも私には、学校現場が強迫神経症的な症状を示している感じがするのだ。だから、今回の堀氏の提案が、果たして、本当に生徒に「安心感」を与えるかどうかについては、今後も議論が必要であろうと考えている。
そして、こうしたきめの細かさが必要であるという主張は、やはり教師にとっては、相当なプレッシャーになっていくことだろう。それは「失敗してはいけない」という「守り」の思想に貫かれているゆえの宿命ともいえよう。
なんてことを考えた年度末でした。
テーマは「新年度学級びらき」。中学校の学級びらきに関するあれやこれやのセミナーであった。
新年度当初の学級経営の重要性を「黄金の3日間」と呼んだのは、向山洋一氏である。かれこれ、20年程前のことだ。当時は、「学級崩壊」という言葉こそ生まれていなかったものの、小学校で、新卒の教師が受け持った学級が6月になると崩れるのは、新学期最初の3日間に学級経営のあれやこれやを怠ったからだという、向山氏の主張はたいへんな説得力を持つものだった。
この向山氏の主張に触発されて、小学校ならず中学校もこの「黄金の3日間」の重要性を認識して、学級担任は新学期の準備をしてきた。その後、小学校教師の野中信行氏がこの「黄金の3日間」の主張の発展として、「3・7・30の法則」を提案し、さらにこの提案を中学校向けに応用するものとして、中学校教師の堀裕嗣氏が、「3・7・30・90の法則」を提案し、現在に至っている。
今回、私の参加したセミナーも、こうした20年来にわたる「学級びらき」の重要性の議論を敷衍するかたちで、いくつかの新たな提案がなされていた。
今回、セミナーで私が感じたのは、この「学級びらき」に関する提案について、随分と洗煉されたなあということだ。「黄金の3日間」から始まった「学級びらき」の諸実践が、追試や改編するなかで、今日にまで現場でバージョンアップされたということなのだろう。学校現場は、20年前よりも、ずっとずっときめ細かい配慮のもと、新学期の準備については進められるようになったということだ。
しかし、こうして洗煉された提案に接するほど、私は、どうにも窮屈な気持ちになる。
それはなぜかといえば、つまるところこういう提案が「学級経営に失敗しないため」になされているということだからである。
それはそうである。
「黄金の3日間」から、そうした主張だった。教師が学級経営に失敗しないために、この3日間を綿密な準備のもと全力であたれ、という主張だったのだから。その後の「3・7・30の法則」も「3・7・30・90の法則」も、そうした主張を発展させたものであった。すなわち主張の根底には「失敗しないため」という「守り」の思想が貫かれている。ここでの「失敗」というのは「学級崩壊」ということだ。学級は機能しなくなり、教師は苦悩し、挙げ句の果てには休職や退職や自殺までに至ってしまうという地獄への道ということだ。こうした現実が現在の学校現場に存在しているからこそ、「失敗しないため」の「守り」の学級経営は何より優先される。「失敗」が地獄であればこそ、「失敗しないため」にしっかり「守り」の学級経営にあたれということだ。
そうした実感が伴っていることもあり、こうした「失敗しないため」の「学級びらき」については、どんどん議論が細かくなり、学級づくりは精緻なものへ、システマティックなものへとなっている、というのが現状であろう。
こうした現状を20年来の進歩と言ってしまえば格好がいいけど、私には、学校現場がどうにも強迫神経症的な症状を示している感じがするのだ。つまり、「失敗」をしないために、そしてその「失敗」というのは教師の人生を狂わすほどの強烈なものだけに、それを回避するために、細かく議論され、どんどん精緻になり、システマティックなものになり…と、何かを恐れながらまるで神経症的に「学級びらき」について議論しているように思えるのである。
堀裕嗣氏の近著『必ず成功する「学級開き」魔法の90日間システム』(明治図書、2012年)を開くと、最初の3日間には「生徒たちとの心理的距離を縮める」とある。
「心理的距離を縮める」。新学期、はじめて顔を合わせた生徒達との心理的距離を縮めるにはどうするべきか。何か、教師の失敗談でも話そうか。教師の自己紹介でギターを弾いて歌を歌おうか。グループエンカウンターをしようか。…、これらの例は、「学級びらき」で生徒たちとの心理的距離を縮めるために、これまでに提案されてきたものだ。しかし、堀氏の著書には、そんな提案は一切ない。あるのは、生徒に「安心感」を与えよという主張なのだ。その主張に沿って、入学式に「安心」して参加できるように、入場の歩き方の練習を紹介し、明日からも「安心」できるように、プリントの配布のやり方について提案をしている。これが「生徒たちとの心理的距離を縮める」という提案なのだ。
恐らく、「学級びらき」で、入学式の入場の練習や、生徒へのプリントの配布の仕方について提案したのは、堀氏が初めてに違いない。別に堀氏は、入学式の入場やプリントの配布が、「学級びらき」には重要なのだということをこの著書で主張しているのではない。そうでなく、こうした入学式の入場やプリント配布という些末な部分にまで、教師は細心の注意をはらって、最初の3日間を過ごせと言うことを主張しているのだ。
こうしたきめの細やかさ(著書には「最大限の丁寧さ」と表現されている)を求める主張は、20年来の学校現場で議論された「学級びらき」の集大成といえば格好がいいけれど、どうにも私には、学校現場が強迫神経症的な症状を示している感じがするのだ。だから、今回の堀氏の提案が、果たして、本当に生徒に「安心感」を与えるかどうかについては、今後も議論が必要であろうと考えている。
そして、こうしたきめの細かさが必要であるという主張は、やはり教師にとっては、相当なプレッシャーになっていくことだろう。それは「失敗してはいけない」という「守り」の思想に貫かれているゆえの宿命ともいえよう。
なんてことを考えた年度末でした。