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憂太郎の教育Blog

教育に関する出来事を綴っています

「教師は五者たれ」ではやっていけない

2007-05-04 09:31:57 | 学級経営論
 医者で作家の南木佳士氏のエッセイ集『急な青空』(文藝春秋,2003年)にこんなくだりがある。

「…まっとうな勤務医であるということは実に多様でハードな役割を背負わされていることなのだと分かった。/隠された重病を見落とさない細心の観察者。患者さんに苦痛を与えない習熟した技術を持つ検査屋。心身の回復のみを考えて大量の抗癌剤を投与する修理屋。そして,生身の人間である患者さんの,死への不安をともに分かち合うカウンセラー。/一人で何役こなせばいいのだろう。しかも,相手にしているのは常にかけがえのない人命だからどの役も気も抜けない。」
(「フォークダンスの記憶」南木佳士『急な青空』所収)

 氏は,芥川賞も受賞した作家であり,現在も臨床を行う内科医でもあるのだが,数年前より心身に不調をきたし「うつ病」となった。このエッセイ集は,「うつ」も回復傾向にあり,執筆も臨床も行っている時期のものだ。医師のハードさをいくつかの役割で説明をしている。
 このくだりを読んで,では,おなじく先生である中学教師の場合はどうかなとのんびり考えてみた。
 まずは,観察者のくだり。教師も,生徒のちょっとした心の変化も見逃さない観察者には違いない。次に,医者なら検査屋であろうが,教師なら生徒にストンと落ちる生徒指導のできる技能をもった技術屋といえるだろう。その次,抗癌剤の投与による修理屋にはなれないが,生徒の人間関係の修復や学級経営上の関係性の修復をはかる役割はもつだろう。最後に教師もカウンセラーの役割をになうのは周知の通り。
 そうやって考えると教師も医師同様にいろんな役割をになっている。医師のように生命を相手にはしていないだけ楽かもしれないが,生身の人間を相手にしているのであるから,気の抜けないのは事実である。
 教師の場合は,このほかにも,教科においては専門家であり,授業研究をする研究者であり,金銭処理をする経理屋であり(私は,26歳のときに係として350万の金が動く会計簿を持たされていた。また,当時は学校名義の通帳を3つ持っていた。事務職員でなくても,こういうことはたまにある),広報業務として学級通信ほか各種文書を書き,校内美化で掃除をして…,まあ,細かいことはさておき,雑多な仕事に追われていて,授業のない空いた時間はいつもパソコンに向かっている。どうして,こんなに仕事があるのだろうというのが,一般的な教師の日常である。
 そのうえ最近は,保護者からの苦情も多くなってきてその対応に追われ(早く現場に「お客様相談窓口」業務担当をつくって,学級担任にクレーム処理をさせないようにするべきだと思う),法的措置をとられた場合の事例研究にも余念がないという状況だ。
 こういう,いつもなにかしら忙しい状況が現場の日常になることによって,教師は多忙感にさいなまれるようになる。そうして,何かのきっかけによって(たとえば,学級経営上のつまずき,保護者のクレーム,同僚との人間関係上のトラブルなど)教師もまた「うつ」傾向になってしまうのであろう。
 ところで,教師の役割について言葉に「教師は五者たれ」というのがある。これ,恐らく師範学校や士官学校の時代から言われているような古い言葉だと思うのだけど,今でも耳にする言葉だ。私も,新卒教師の研修などで,何度か耳にしている。初出を知りたいのであるが,あまりに古くてわからないのでしょうね。
 で,五者というのは次の五つ。すなわち,学者,医者,役者,易者,最後に芸者である。
 専門的な知見を持てということで学者。2つめは,先ほどの話題の続きのようだが,生徒の心身を健康にするので医者。3つめは,生徒の前では,いろんな役柄を演じてみせるから役者。4つめは,生徒の将来について的確なアドバイスをする易者。最後の芸者というのは,着物を着てお酒の相手をする芸者さんではなくて,芸達者という意味の芸者。この最後を,お酒の相手の芸者さんと勘違いして,芸者のように生徒にサービスせよなんて解説する人がいるが,それじゃあ色っぽいでしょうに。
 これが五者。教師は,勉強だけ教えるんじゃなくて,子どもに対してこの五つの役割もになっているんだよ,と若い教師に説諭するわけだ。けど,こういう昔からの言葉をきくたびに,私は,やっぱり昔の教師はのんびりしていたんだろうなあと,牧歌的状況を空想してしまう。
 今日び,この五つだけじゃあ現場は到底つとまらないでしょう。最近だったら,この五者に加えて,会計士や広報官やカウンセラーや,ハウスクリーナーや,苦情窓口担当や法律家や…,なんだかんだ考えると,すぐに十者や十五者くらいにはなりそうである。つまり,教師の役割が,昔よりもずっと多様化しているということだ。
 そして,そういう状況のなかで,教師の役割すべてを完璧にこなそうなどと思う教師が「うつ」になったりするのだろう。
 それど,こんなに役割を担わされたって,完璧にできる人間なんていないと思うほうが正しい。日本全国の教師は,頑張って仕事している振りして,手を抜くところは抜いているのだ。そうじゃなかったら,全国の教師みんなパンクしてしまう。
 全国的にこの連休明けからしんどくなる教師は増える傾向にある。6月に入ると,休職者や最悪自殺する教師も出てくるようになるという。同じ教師として,しんどくなっている教師になんとか乗りきって欲しいと切に思う。
 なんでもかんでもこなそうと思ってはいけないのだ。それは,そもそも発想として間違っていると考えるべきだ。多忙感にさいなまれているのは,みんな同じだ。みんなそこそこ手を抜いているのだ。頑張って仕事するのは素敵だけれど,それで「うつ」になったら何にもならないのである。


普通の学級経営を目指せ

2007-04-13 07:46:40 | 学級経営論
 新学期がはじまって1週間が過ぎた。
 学級担任をもった教師にとっては,1年間でいちばん忙しい1週間だったといっていいだろう。
 今後,学級担任を持つことはないんじゃないかなあと思われる特別支援担当の私にとって,日本全国の学級担任の皆さんに,忙しいうちが華なんだよとエールを送ろう。
 それはともかく,新学期。学級開き。
 心身ともに張り切って学級経営にあたる教師も多いことだろう。
 どんなにキャリアを積んだって,やっぱり4月は新鮮な気持ちで仕事にあたるのだろうと思う。
 ウチの職員室も同様。20代の教員と転勤してきた教員は,張り切っているのがはっきりとわかる。30代以降の古参教員は,そんなに目立ちはしないが,やはり3月とは違うはつらつさがある。
 こういう姿を見るにつけ,学校現場というのは,たとえ2週間前まで学級が崩壊していて教師もグッタリしていても,4月は心機一転できるわけで,いいことだなあと思う。けれど,これを持続していくのは難しい。やっぱり,そのうちグッタリする教師も多い。
 4月,張り切ることは結構なことだが,中にはちょっと無理しているんじゃないかなあ,と他人事ながら心配になる教師がいる。そういう無理をしてしまう教師というのは,やはり20代に多い。
 無理をしている原因としては,2つある。
 1つは,仕事のペースがわからないということ。これは仕方のないことだ。けど,新卒ならいざしらず,いくら若いといったって,前年度の1年間をしっかり振り返って自分の仕事を冷静に考えられる教師は,ペースをつかむのがはやい。
 もう1つは,自分流の学級経営をやりたいという願望が強い場合。自分なりのイロを出そうなんて考えてしまう場合だ。こういう教師は,学級開きや授業開きをとても張り切る。なかには,学級開きにギターを持ってきて歌を歌ったりする教師もいるだろう。それはそれで否定はしない。ただ,そのテンションで1年間やっていけるのかということだ。こういうところに,学級が崩れている原因があるということに気づくことが大切だ。無理をするということは,それだけリスクを負うことなのだ。
 そこで,私は,次の提案をする。
すなわち,「普通の学級経営を目指せ」という提案だ。
 目立つ必要は全くない。担任のイロを出すなんてもってのほか。当たり前に,テンションを上げずに普通にやっていくのである。今年こそは,いい学級経営をやっていきたいという願いがあるなら,なおさらだ。1年は長いのだ。無理をしちゃいけない。1年間を見据えるのだ。打ち上げ花火はいらないのだ。
 というようなことを,私は,ここ数年来ずーっと思っていたのだが,私と同じようなことを考えている教師がほかにもいるようで,中学校国語教師である石川晋氏の教育ブログ<すぽんじのこころで教育を考える>に次のような主張があった。
 短い主張だから全部載せてしまおう。


「ブラウン管ランナー」という言葉があった。世界選手権やオリンピックの陸上競技(マラソンなど)で、最初にあり得ないスピードで飛び出し、ブラウン管を占領(笑)した後、ずるずると後退して、姿が見えなくなっていく選手を揶揄する言葉だ。今思えば、私も新卒からの数年間、ずっと「ブラウン管ランナー」だった。4月、スタートダッシュは素晴らしい。しかし、6月ぐらいにはずるずると先頭集団から後退していく…学級も授業もだ。最初に無用に力を使うので、後退も激しい。たしかに、私たちの仕事の素晴らしい点は、4月1日にリセットできることだ。新しい仲間、新しい教室、新しい生徒…気持ちも新鮮になって、頑張れる。でも、結局教師に求められているものは通年で働ける力だ。仕事はアベレージでするものなのだ。ブラウン管ランナーにならないようにしたい。

<すぽんじのこころで教育を考える>より
http://suponji.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_9407.html


 石川氏のいうアベレージで仕事をするというのは,いいネーミングだ。私の「普通の学級経営を目指せ」よりも,ずっといい。このアベレージというのは,私が主張していることと同じことだ。
 石川氏が,近年になってブラウン管ランナーを卒業したというのは,やはり仕事のペースをつかんだことが大きいのだろうと思う。
 さて,日本全国の学級担任の皆さんのスタートダッシュはどうだったろうか。
 あり得ないスピードで飛びだした人は要注意だ。ブラウン管ランナーにならないことを願う。
 少々出遅れても大丈夫。学級経営はアベレージでするものだ。1年間を見据えて経営する。その際のコンセプトは「普通の学級経営」だ。
 別にスーパー学級経営をしようなんてリスクを背負うことはないのだ。
 1年間,生徒と楽しく過ごせれば,それでもう十分ではないか。無理せず,1年間のんびり走って欲しいと思う。
 


私の学級の「いじめ」はこんな感じである

2007-03-09 23:37:11 | 学級経営論
 私の学級の「いじめ」は,こんな感じである。
 と書くと,まるでM(モンダイ)教師のブログのようになってしまうが,慌てないでくださいね。落ち着いて読んでいただければと思います。
 えー,もとい。私の学級の「いじめ」は,こんな感じである。
「いじめ」を受けている生徒をA君としておこう。私の見立てでは,A君は典型的なADHD児。注意欠陥多動の生徒。ただ,ADHDかどうかの判定する権限は教師にはないので,ADHD的傾向を持つ生徒としか私にはいえない。
 さて,このA君。席換えのときは,いつも注意が必要となる。
 隣りの女子が嫌がるのである。
 教育書などを読むと,机を離すのは「いじめ」につながるのだそうである。教師は,この「いじめ」のサインを見逃してはならないそうである。
そこで,私は,席換えのときには,次のように言う。
「となりの生徒と机を離してはいけません。それは,いじめにつながります」
 A君は,よくくしゃみをする。彼は,大きな声で「ハックショーン」とやる。そして,口を押さえてくしゃみをすることができない。私は,彼が大きな声で「ハックショーン」とやるたびに,口を押さえなさいと言う。彼の前の生徒がいい迷惑である。隣りの女子生徒も露骨に嫌な顔をする。そして,少し机を離す。するとA君は,「先生,○○さんが,机を離してきます」と大声で言う。先生,隣りの女子に注意をして下さい,と言わんばかりの得意げな表情である。
 私は,隣の女子生徒に「机をつけなさい」と笑顔でいう。そして,笑顔のまま,A君に「どうして,机を離されるかわかるかい?」と聞く。すると,A君は,離される原因はいつものことだと気づいて,得意げな表情が一転,困った顔をしてこちらを見る。私は,その表情を確認してから,笑顔のままで,「口を押さえるんだよ」と言う。
 隣りの女子生徒は,私が見ているときには机をつけるが,目が離れるとすぐに離す。席換えのたびに,この繰り返しである。こうして,そろそろ1年が終わろうとしている。そういうわけで,この机を離す一件より,私は「いじめ」のサインを知りながら,手立てを講じないM教師ということがいえるだろう。
 昨年は,「いじめ」の事件が相次いだから,私の学校でも,学級や学年や校内で入れ替わり立ち代り,あの手この手で「いじめ」防止についての指導が行われた。「いじめ」防止の指導をおこなうたびに,A君は私に「僕はいじめられています」と訴えてくる。私は,もちろんA君から話を聞く。A君は「B君に蹴られました」と言う。私は,B君を呼んで事情を聞く。するとB君は「けど,Aも蹴り返してきた」と言うので,「先に蹴る君が悪い。暴力はいけない」と指導をする。そして,A君には「蹴り返す前に,先生に言いなさい」と指導する。
 ある時には,「女子が僕のことキモイって言ってきます」と訴えてきた。そこで,どういうときに「キモイ」と言われたのかを思い出させた。「ウヒョー」と叫びながら飛び上がったときに,言われたというので,「そういう行為は,中学校ではやってはいけないんだよ」と指導する。
 わが国の「いじめ」の定義は,いじめられた生徒が「いじめ」だと思ったら,「いじめ」になるというから,私の指導は完全にモンダイ教師のそれにあたる。現在,教師の「いじめられている生徒にもモンダイがある」という言説は完全にタブーなった。いじめられている生徒にモンダイがあってはならないのである。なので,私の指導はわが国の教育現場では完全にモンダイなのだ。
 A君は,授業中思ったことを大声で言う。いわゆる不規則発言をする。
 1学期は,言う前に考えさせるような指導を講じたが,そんな指導はADHDには無理に決まっていた。そこらあたりが,私の指導力不足なところなのだが,それはともかく,2学期からは「A君,お口にチャックをしようか」と言うようにした。すると,A君は,喜んで口にチャックをするまねをする。そして,何か言いたくなったら,チャックを開く動作をして,私に話しかけてくる。
 普段は,これで不規則発言を何とかおさめたが,学級がザワザワと落ち着かない雰囲気になると,彼の多動は止まらない。ADHDの本領発揮といった感じになる。もう,じっとしていることができなくなるのだ。そして,ザワザワに負けないばかりの大声を出して,私に話しかけてくる。
 こういうときには,「A君,お口を閉じないと,おかわり禁止にするよ」と言う。実は,A君は,たいへん食欲が旺盛で,給食をガツガツ食べる。配膳のとき,盛りが少ないと係の生徒に大声で「多くして~」と言ってきかないので,すべての配膳が終わってから,私が,A君やそのほかの男子生徒に,多く盛り付けてやることにした。そういうルールにしてから,A君がどういう行動をとるかというと,係生徒に盛り付けられたご飯やおかずを必ず私に見せにきて「先生,これ」と言うのだ。つまり,先生,あとで多く盛って下さいというお願いに来るのである。そのお願いが「先生,これ」と言って盛り付けを見せる行為なのだ。私は「後でね」と言って席につかせる。そして,「いただきます」の後に,給食を盛り付けてやる。これが,彼との日課になった。本当にこれが毎日あるのだ。彼にとっては,自分の給食の盛り付けが少ないことを,私にアピールをしないとじっと座っていられないのだ。
 このように,彼にとって給食はとても重要なので,私の「おかわり禁止」は効く。けれど,これは完全に教師の行き過ぎた指導である。それに,他の生徒には,そういう指導をしていないのだから,これは完全に差別である。教師が「いじめ」を先導していると言われても申し開きはできない。そのうえ,他の生徒までも,A君が授業中に不規則発言をすると「先生,A君おかわり禁止にしましょう」などとはやしたてる。もうこれは,いじめを先導した教師に,生徒がいじめに加担している図である。私の学級は,わが国の教育現場において許されざることが,平気でまかり通っているのだ。
 この「おかわり禁止」の指導は,2学期に思いついて,実際何回かA君をおかわり禁止にさせた。そして,この「おかわり禁止」宣告により,私がA君の給食をあらかじめ多く盛ってやるルールがはじまったのだった。
 3学期に入って,私の「おかわり禁止」宣告はない。A君は,とりあえず私の授業では静かにできるようになったようだ。
 これが,私の学級の実態である。
 世間一般に言われている「いじめ」は,間違いなく私の学級に存在している。
 そして,「いじめ」のアンケートを学級でやれば,A君は,また自分は学級でいじめられていると私に訴えてくるだろう。
 そんなA君は,今日も誰よりも大きな声で「桑原先生,さようなら」とあいさつをして,私が「A君,さようなら」と言うと,満面の笑顔を私にくれて帰っていくのであった。