ご挨拶
2014年12月7日をもって私の介護生活は終了しました。
介護中、このblogに毒吐きし、多くの介護仲間さんに助けられました。
過去記事を読むと穴があったら入りたい気分でもありますし、今とは考え方も違うところもあります
身勝手な独りよがりも多々ありますが、そんなあれこれも、介護中の方たちのデトックスに一役かえたらという思いから「介護録」として残しておくことにしました。
今後はユルユルと日常をつぶやきながら時に介護や認知症に対する思いを書いていこうと思います。
2014年12月7日をもって私の介護生活は終了しました。
介護中、このblogに毒吐きし、多くの介護仲間さんに助けられました。
過去記事を読むと穴があったら入りたい気分でもありますし、今とは考え方も違うところもあります
身勝手な独りよがりも多々ありますが、そんなあれこれも、介護中の方たちのデトックスに一役かえたらという思いから「介護録」として残しておくことにしました。
今後はユルユルと日常をつぶやきながら時に介護や認知症に対する思いを書いていこうと思います。
胃ろうは無駄な延命か否か?
と言う思考回路で向き合っている時には、
高齢者に胃ろうをするのは日本だけ…という話などが頭の中で回るばかり。
前回も書いたように「善か悪か」という感覚で。
結局、胃ろう選択だよね…ってところに着地した時の思考はシンプルで
機械につながれているわけでもないのだから外からの栄養を拒否すると、極端な話、餓死するのを見守るようなもの?
…いうところから始まった。
当然、餓死させることなどありえなく、胃ろう拒否なら鼻から…という話になり
だったら本人的には胃ろうのほうが楽なわけで。
それとも、外から栄養をすべて拒否して、リスク承知で口から栄養を取る?
結果、またすぐに誤嚥性肺炎になったり窒息したり……そんな不安と向かい合っていられるのか?と考えると、それは無理。
仮に母が、目も開けない、口もあけない、手足も動かさないというならば考え方は違っていたと思うけど…
胃ろうになったら全てがどうにかなるわけでもないし、必要ない状態になったと思えた時にやめれば、今、胃ろう選択することがイコール無駄な延命ではないんじゃないのか?
…と、自分を納得させてみるこの頃…。
もう一回つづく。