うざね博士のブログ

緑の仕事を営むかたわら、赤裸々、かつ言いたい放題のうざね博士の日記。ユニークなH・Pも開設。

今度の大地震のその日は・・・

2011年03月15日 18時50分31秒 | 東日本大震災のこと

今度の大地震について、わたし自身のその日の行動や感想を書きたい。

 3月11日の午後2時46分は江東区内の会社にいた。ラーメン構造で鉄骨造りの一階の事務所で4月に予定されている現場の準備作業で資料整理に当たっていた。そこで、いきなり、ゆさゆさと大きな横揺れが始まり、危険を感じて前面の路上に飛び出す。わたしは、なんどか数分刻みで出たり入ったり繰り返す。3時7分には突き上げる縦揺れがあり横揺れがある。道路(区道)から見ていたら、貨物線越しの遠方の40階建てと思われるタワー状のマンションがローリングしている、多分1,5mくらいは左右に振れている。ベランダには入居者の姿は見えない。歩道の電柱はぎしぎし音を立てて揺れ、電線はバシャッバシャッと波打っている。事務所内の停車中のライトバンは前後に音を発し飛び出しそうだ。社の人たちもあっけにとられて苦笑いをしているが、所在なさげだ。わたしは落下物の危険を避けるように空中をみながら、かろうじて隣地の野天の駐車場に立ち尽くす。車は何事もないように通過するが、歩行者はびっくりしている。卒業式帰りの女子学生は泣きそうな顔でかがんでいる。耳鳴りとか加齢化によって、自分の三半規管の機能に自信を持てなくなっていたわたしには、ほとんど船酔いの境地であった。心許ない体の揺れに不安をおぼえるのだ。それに、もともとわたしは地震に過剰に反応する気味があるらしい。よく言えば敏感でもある。なぜかというと、それは小さい頃の、田舎の経験によってである。1960年に起きた、 「三陸チリ地震津波」 が起きた頃の世の騒ぎをおぼえているからである。チリという地球の反対側から津波が押し寄せる恐怖がどんなものであったことか、当時、わたしは小学校の低学年であった。同じ時代に、愛知県では伊勢湾台風もあった頃。それは、50年前の話である。

 わたしは落ち着きもなく、電気機器の電源を落としたりドアを開け放しにしておいてから、事務所を出たり入ったりし、テレビやラジオが身近になかったので、インターネットで地震の規模や地理などを調査検索し情報を集めた。わが田舎である、岩手県の三陸沖で地震と津波が発生したとのことである。そのうちに、やがて、都内の電車などの交通機関も途絶えた。高速道路も閉鎖した。夕方にやっと家族と連絡をとり無事と無事故を確認した。即、勝手に会社に泊まると決め、明日帰ることになると伝えた。わたしはどちらかといえば長い間にわたり遠距離通勤だ、その場合の対応は慣れている。それから隣のコンビニでパンと、普段はめったに食べないカップ麺をもとめる。

 その日、わたしの郷里にも連絡をとるが、とうとう電話は通じずじまい。わが山峡の町は県境に位置する。今回の一番近い被災地は宮城県の南三陸町だが、地震そのものでなくこれは津波による被害だ。そこからひと山越えたところなので、災害があるとすれば土砂崩れなはずだ。大まかな土地勘とともに、わたしはその地形を思いうかべて、なんとなく大丈夫そう、との感触を得る。しかし、最大の被災地の気仙沼にしても、今は、車で30分の距離だ。のちほど、無事を確認する。

 夜の8時台に最寄りの地下鉄の駅に行くと、半ばシャッターが下りていて閉鎖状態である。釜屋掘通りと明治通りの道は、都心と反対方面へは無数の車で渋滞し、歩道は帰宅する人であふれている。ときおり、救急車がサイレンと大きなスピーカーを鳴らし通り過ぎていく。そんな状況が連綿と続いている。町の飲食店はにぎわいざわめいている。その光景は、まるで、お祭りが終わった直後の夜のようだ。

 孤独は馴れている方だが、その夜はぽつねんとわたしひとり。わたしは寝るのに椅子では落ち着かず。床に古い図面の束を敷き、手近かにある他人の作業着を大量にかぶり横になる。窮屈そのものだが、文句を言うのはわたしらしくない。さいわい、電気の暖房のエアコンは効いている。それから、一時間ごとに襲う大揺れにわたしはヒヤヒヤ、辟易しながらも眠れず、2,3時間ほどのうたたねの後、早朝の4時に目が覚める。

 7時15分、朝帰りのため、会社を出発、動き始めた電車でそれぞれの駅で30分以上待たされ、地元の駅より三つ目の手前の駅で下車し、家内にメール連絡し迎えに来てもらい、帰宅する。時刻は10時45分。不機嫌なわたしは、家で心細くしていて心配していた家内に当り散らす。

 地震規模は震度5強、マグニチュードは空前絶後の値を示し、始めは7.9、それから8.2 、8,8、そして未曾有の9.0に変更になった。名称は “東北地方・太平洋沖地震” から、 “東北・関東大震災”、 “東日本大震災” と変わりつつある。被害の程度は、過去にも江戸時代から頻発したが明治以降の3度の 「三陸チリ地震津波」を 、簡単にクリアする大災害になった。規模は最終的に神戸の 「阪神淡路大震災」 の7000人近い死者数を軽く超えて、30000人はいくに違いない。三陸の風光明媚な天然の良港であるリアス式海岸は、各町ごとに孤絶されたエリアになってしまった。過疎ではあるが、今まで営々と整備してきた地域住民にとって、木造の住まいや海藻や魚介類の養殖の栽培漁業、沿岸漁業のなりわいの問題があり、地震発生後は、まずは津波防潮堤建設、港湾整備などのインフラ整備の問題が立ちふさがる。その対価としていくら公共的な費用の補助があったにせよ、いづれ個人や自治体が長期間の借金を世負うことになる。昔から地震、雷、火事、親父、と言い古されているが、こんどの天災はおどろおどろしくさまざまで悲惨な事実群とにまみれていて酸鼻な大事件である。わたしの想像でも、この世のものと思えない最悪の事態の出来だ。

 なんだか、わたし自身に、震災前と震災後という意識上の区切り方が定着しそうである。被災地へのアクセスが悪すぎて、今回の場合は都市化された神戸と異なりボランティア活動への一般参加は無理であるが、これまで生きてきたわたしの人生観上、なんだか、今後はそうなるように思う。だが、いまだに、被災地も関東でも余震はつづく。今度災害に遭われた方々へは、死者へのご冥福をお祈りしたい、今後、生存者の皆さんは自殺したり絶望せず、復旧への意志をかき立てて生き抜いていってもらいたいものだ。    

コメント (2)
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