尾根筋の斜面に取り付くように建つ。本殿中央は一間社春日造で、主祭神天之水分大神を祀る。その左右は三間社流造でそれぞれ親子神を祀っている。合の間を含め桁行九間の連棟式本殿である。本殿の左右矩折に廻廊が取り付いた楼門と幣殿があり、拝殿とともに本殿前庭を囲む。(「重要文化財吉野水分神社拝殿幣殿修理工事報告書」奈良県教育委員会 1979、「重要文化財吉野水分神社楼門・廻廊修理工事報告書」奈良県教育委員会 1987)。同じ法隆寺大工の造営だが、拝殿が舞台造となっていることも含め、談山神社とよく似た配置である。
「大和名所図会」等では、吉野水分神社は「丹治村にあり」という。子守にある吉野水分神社 は「子守神祠大宮三座」と書かれ「回禄の後、豊臣秀頼公の再建。社壇美麗にして・・・」とある。この吉野水分神社混乱を、本居宣長は「玉かつま」で「丹治村と云ふ所に有る神社を、水分神社とするも、いみしきひがことなり」と断じる。「子守社」が「水分社」であるという。すなわち「この水分と申すを、中昔より訛りて、みこまり、みこもりなど申て・・・」と転訛を主張している。
続日本紀文武天皇二年(698)に「奉馬干芳野水分峰神祈雨也」とある。水分社の旧地は水分山、青根が峰と考えられ、その近くの「広野」と口伝があるそうである(宮坂敏和「吉野ーその歴史と伝承」名著出版 1990)。延喜式臨時祭に「吉野水分社一座」とあり、子守社ではない。
藤原道長「御堂関白記」寛弘四年(1007)「参上小守三所」とあるが、青根が峰ではなく、山上ケ峰であった。山上では参詣に不便である。より便の良い山下に、子守の地の水分社の地に遷座したとは考えられないであろうか。今本殿に安置されている「玉依姫像」の像内銘文には建長三年(1351)とある。
楼門
拝殿
本殿
(注)2019年6月撮影
「大和名所図会」等では、吉野水分神社は「丹治村にあり」という。子守にある吉野水分神社 は「子守神祠大宮三座」と書かれ「回禄の後、豊臣秀頼公の再建。社壇美麗にして・・・」とある。この吉野水分神社混乱を、本居宣長は「玉かつま」で「丹治村と云ふ所に有る神社を、水分神社とするも、いみしきひがことなり」と断じる。「子守社」が「水分社」であるという。すなわち「この水分と申すを、中昔より訛りて、みこまり、みこもりなど申て・・・」と転訛を主張している。
続日本紀文武天皇二年(698)に「奉馬干芳野水分峰神祈雨也」とある。水分社の旧地は水分山、青根が峰と考えられ、その近くの「広野」と口伝があるそうである(宮坂敏和「吉野ーその歴史と伝承」名著出版 1990)。延喜式臨時祭に「吉野水分社一座」とあり、子守社ではない。
藤原道長「御堂関白記」寛弘四年(1007)「参上小守三所」とあるが、青根が峰ではなく、山上ケ峰であった。山上では参詣に不便である。より便の良い山下に、子守の地の水分社の地に遷座したとは考えられないであろうか。今本殿に安置されている「玉依姫像」の像内銘文には建長三年(1351)とある。
楼門
拝殿
本殿
(注)2019年6月撮影