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芹沢蓮さん 天神橋北詰スタジオにて

2014年06月25日 | 芹沢蓮 芹沢恋夢 鈴果 優まお せら

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黒田官兵衛39 宇喜多直家が秀吉に頼んだこと

2014年06月25日 | 戦国時代

 1582年2月1日宇喜多直家は53歳で病死した。織田信長が隆盛を誇った真っ只中のことである。この時に直家は10歳の次男・秀家の将来を羽柴秀吉に託している。宇喜多秀家1572-1655は備前の大名・宇喜多直家1529-1582の嫡子として生まれた。直家は戦国大名の中でも権謀術数の達人で、始めは毛利家に味方をしていたが織田信長の勢力が強まるに連れて織田家に乗り換えることとした。当時の織田軍中国方面司令官は羽柴秀吉である。秀吉とともに毛利戦を演じていたが病に倒れ宇喜多家の行く末を秀吉に託したのである。当時10歳の嫡男・秀家に、織田信長は難色を示したが秀吉が後見をするという条件で信長を説得する。秀家の母は備前一の美女といわれた女性で円融院1549-といい、一時は秀吉の側室であったという説もあるが定かではない。(大河・黒田官兵衛では秀吉と秀家の母との閨を描いていた) 秀吉には秀次、秀秋などの養子が何人かいたが、優秀なのは秀家のみであったということもあって秀家を特にかわいがったという。秀吉には養女もたくさんいて、そのうち最もかわいがっていた前田利家4女・豪姫を秀家の妻としている。秀吉の晩年には、秀家を五大老の一人に抜擢するほど頼りにしていた。残りの五大老は徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝といったそうそうたるメンバーである。秀吉の死後1600年に起こった関ヶ原の戦いでは、宇喜多秀家は石田三成側の西軍についた。西軍の中核である宇喜多秀家勢の奮闘により始めは西軍の優勢状態が続いた。とこるが、多くの武将が日和見状況の中、西軍から東軍に寝返った小早川秀秋の軍勢が宇喜多秀家勢に襲い掛かったのである。これをみた日和見勢も西軍に襲い掛かったことから、この合戦は一気に勝敗がきまった。宇喜多秀家は小早川秀秋に対して激怒し、単騎敵陣に突っ込もうとしたが家来に制止されて落ちたという。小早川秀秋は秀吉の甥であり、一時秀吉の養子になっていた男である。養子でもない自分が秀頼のために家康を討つべく戦っているのに、秀秋が裏切るとは何事だ!という怒りである。 

 関ヶ原の戦いに敗れた宇喜田秀家は領国、岡山城は取り上げられ大名としての宇喜多家は滅び、新しく岡山城の城主となったのは皮肉にも小早川秀秋であった。宇喜多秀家は薩摩の島津家を頼って潜伏していたが、徳川の天下が確立すると、秀家を匿いきれなくなり、島津の当主・家久は秀家夫人・豪姫の実家である前田家の当主・利長と相談して自訴助命嘆願をすることとなった。これにより秀家は息子とともに八丈島に流罪となり、最愛の夫人・豪姫とは二度と再会することなく在島50年の永木に渡る生涯を終えたという。さて、一方の豪姫はというと備前岡山城より娘と一部の家臣とともに兄の前田利長のもとへ戻され化粧料1500石を与えられる。他家へ嫁ぐことなく金沢西町に移り住み、賂を秀家に送り続け余生を送った。次女の伏見宮貞清親王室は金沢に帰ってから生まれた子であり、秀家が関ヶ原の戦後、各地を逃亡していたときに身篭っている。 

宇喜多興家-1536浦上氏家臣
 ┃中山信正1510-1559浦上氏家臣
 ┃ ┗娘
 
┃  ┣-
 
┗宇喜多直家1529-1582
  
┣三浦桃寿丸?-1584
  ┣容光院?-1591
  ┃ ┣
  ┃ 吉川広家1561-1625
  ┃吉川元春┛
  ┣宇喜多秀家1572-1655(八丈島に配流)
  ┃ ┣秀高1598-1641(八丈島に配流)
  ┃ ┣秀継1599-1657(八丈島に配流)
  ┃ ┣娘
  ┃ ┃┣邦尚親王1615-1654
  ┃ ┃伏見宮貞清親王1596-1664(伏見宮10代当主)
   ┃豪姫1574-1634(前田利家の4女) 
   ┣忠家1533-1609
   ┣春家?
  円融院1549-?(三浦氏) 

関ヶ原の戦いの宇喜田秀家陣跡

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