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村上海賊の娘-17 1576年7月13日最終章 

2014年06月09日 | 戦国時代

 1576年7月12日、それは木津川河口の戦いがいよいよ始まる前夜である。三木合戦が始まる20ヶ月ほど前の時期で、黒田官兵衛が長男の松寿丸(後の黒田長政)を人質として織田信長の元に送った頃である。乃美宗勝と来島の村上吉継は岩屋城の本丸から明石海峡を隔てて大蔵谷城を望んでいる。大蔵谷城は英賀城城主三木通秋の支城で、通秋は一向宗に帰依していた。つまり本願寺方の支城であり、瀬戸内から航行してきた門徒がすんなりと明石海峡を通れたのは、このおかげである。宗勝の主、小早川隆景は本願寺に兵糧を送る旨、通秋に伝えるとともに密命を与えた毛利家の人間を大蔵谷城に入れている。何故か、陸路を辿って謙信出陣の報が大蔵谷城に届けば狼煙をあげて岩屋城に知らせる段取りである。しかし黒田官兵衛は500の兵で毛利・三木軍5,000の兵を退けているから、上杉謙信が動き出したかどうかは知るすべはなくなった。これを英賀合戦という。毛利水軍と村上水軍が岩屋を出発して木津川の戦いに望む条件は、ある意味上杉謙信との挟み撃ちが成立する場合であり、条件が成立しない場合には、兵糧を大坂本願寺に届ける目的はあきらめて、引き返すこととなる。これが小早川隆景と村上武吉の考えである。

 この頃、村上能島では村上武吉の娘・景が大坂本願寺の門徒の行く末を案じている。もちろん1000艘もの水軍が兵糧を運んでいったことを知っているが、父・武吉の思惑は理解していなかった。武吉が言った 「景よ、心配するな。我が水軍は無事帰ってくる。戦などありゃせんのよ。小早川隆景は聡い男よ。軍勢は岩屋からそのまま帰ってくる。」 我が息子、元吉や景親にも明かさなかった胸のうちを娘に披露したのである。だがそれは武吉の不覚であった。娘の性根を見誤っていた。 「えっ!父上、どういうことじゃ!」 景は顔色を変え、声を震わせて詰め寄ったのである。かくして景は能島村上水軍の勇者として関船を出船させ、大坂本願寺へ向かうこととなる。

 7月13日、計画通り毛利と村上の水軍は兵糧移送をあきらめて本拠地へ引き返し始めていた。ところが、景はひとり大坂本願寺を救うために木津川河口へ向かっている。さて、それを知った1000艘の水軍はどうなったか。ここからは史実の通りであるが、景に促されて木津方面に出陣したというところは架空である。史実では、毛利・村上水軍が織田側の眞鍋水軍、沼野水軍に対して破壊的ダメージを与えて快勝した。毛利方の水軍が使用した焙烙玉と雑賀衆が使用した焙烙火矢が有効であった。小説・村上海賊の娘では、焙烙玉に加えて景が活躍するのである。その描写については、村上海賊の娘・下巻に約300ページに渡って詳述されているので参照されたい。和田竜氏に申し訳ないので、景の働きについては当ブログではあえて紹介はしない。景が率いて村上水軍が勝利したこの戦いを第一次木津川口の戦いという。従って第二次木津川口の戦いというのがあるわけで、1578年12月4日に勃発した。このときには織田信長側が勝利している。前回の毛利水軍・村上水軍が使用した焙烙火矢対策を九鬼嘉隆に命じて、大筒・大鉄砲を装備し、焙烙火矢が効かない鉄甲船6隻を建造させたのである。この詳細については別の機会に紹介する。ところで、1578年12月4日といえば、三木合戦が始まって半年経過、有岡城の戦いが始まる4ヶ月前である。つまり織田信長は、荒木村重の謀反により大打撃を被ったと伝えられているが、荒木村重、大坂本願寺、雑賀衆、別所長治、毛利氏、村上水軍と戦いながら、播磨制圧を実現していったのであるから、はやりすごい人物である。 完

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