楠木正儀は、南朝の有力武将楠木正成の三男、楠木正行・正時の弟であり、生涯京都奪還のために戦いを繰り広げたが、勝算の無い戦いは避ける慎重派であったという。 1348年、四條畷の戦いにおいて兄楠木正行・正時が高師直(八幡太郎義家の庶子・高階惟章が源義国とともに下野国に住し以来、高氏として足利氏の執事を勤めている)の軍に敗れて討死すると、楠木氏の家督を継ぎ、南朝の先鋒武将となる。 北朝の高師泰(師直の兄)の軍と河内国石川で戦っている。 1350年の室町幕府の内紛では南朝の勢力挽回に努め、南北両朝合一に向けての活動を行う。1352年には北畠顕信らとともに足利義詮を逐して京都を奪還するが、すぐに京都を追われる。 正平16年/康安元年(1361年)、室町幕府の政争(康安の政変)で失脚し南朝に降った元幕府執事の細川清氏らとともに、三度目の京都奪還に成功するが、翌月には撤退している。 一方で南北朝合体・和睦を呼びかけているが将軍・義詮は拒否に徹している。
後村上天皇が没した後は、北朝に強硬姿勢だった長慶天皇が即位したために、和睦派・正儀は南朝内で孤立する。 これにより1369年に正儀は細川頼之を介して将軍・足利義満の北朝方に投降する。 しかし、細川頼之の幕府内での権力に陰りが見えると、1378年義満から河内国守護職を罷免され、今度は北朝内で孤立することとなる。1382年に再び南朝に帰参、参議となった翌年に長慶天皇が、和睦派の後亀山天皇に譲位した後も1385年の二王山での合戦などに明け暮れ、1389年に死去。
後村上天皇第一皇子で南朝派・長慶天皇の陵
後村上天皇第二皇子で南北朝和睦派・後亀山天皇の陵
三条治子(西御方)
足利尊氏1305-1358 ┣治仁王1370-1417
┣足利頼子 源資子 ┣貞成親王1372-1456
赤橋登子┃ ┣栄仁親王(伏見宮)1351-1416
三条秀子┃ ┣興信法親王 藤原資子
藤原公子1232-1304 ┣興仁親王( 3崇光天皇 ) 三条厳子┣101称光天皇
┣貴子内親王 西園寺寧子 ┣弥仁親王( 4後光厳天皇 ) ┣100後小松天皇1377-1433
┣姈子内親王 ┣量仁親王(1光厳天皇)1313-1364 ┣緒仁親王(5後円融天皇) 1359-1393
┃ 藤原経子┣豊仁親王(2光明天皇)1321-1380 ┣熈永親王
89後深草天皇 ┣胤仁親王(93後伏見天皇)1288-1336 ┣尭仁法親王
┣熈仁親王(92伏見天皇)1265-1317 ┃ 藤原仲子1339-1427
┃ ┃┣尊園親王1298-1356 ┣尊道親王1332-1403
┃ ┃三善衡子 正親町実明女
┃ ┗━━━━┓
藤原愔子1246-1329 ┣富仁親王(95花園天皇)1297-1348
藤原(洞院)季子 ┣直仁親王1335-1398
藤原(正親町)実子
(持明院統:足利氏が京都に擁立 北朝)
(大覚寺統:吉野朝廷 南朝)
平時仲女
┣慈道親王1282-1341
┃藤原嬉子1252-1318(今出河院) 不明
┃ ┣- 姈子内親王(1270-1307)後深草皇女(遊義門院) ┣海門承朝
90亀山天皇1249-1305┣- 阿野廉子1301-1359 藤原勝子 ┣世泰親王
┣世仁親王(後宇多天皇)1267-1324 ┣成良親王 ┣98長慶天皇1343-1394
洞院(藤原)佶子┃┣邦治親王(後二条天皇)1285-1308┣恒良親王 ┣99後亀山天皇1347-1424
1245-1272 ┃堀河(源)基子┃┣- ┣義良親王(後村上)1328-1368
(京極院) ┃(西華門院) ┃藤原(徳大寺)忻子 ┣祥子内親王
┃ ┣邦良親王1300-1326┃
┃ ┣邦省親王1302-1375┃
┃ 藤原(五辻)宗子 ┃
┣尊治親王 (96後醍醐天皇) 1288-1339
┃ ┃ ┃┃┣恒性皇子
藤原忠子 ┣懽子内親王1315-1362 ┃┃┣護良親王1308-1335
┃(光厳上皇妃、宣政門院) ┃┃源師親娘
┏西園寺禧子1303-13333(礼成門院 後醍醐中宮) ┃┣尊良親王1310-1337
┣左大臣公衡1264-1315 ┃┣宗良親王1311-1385
┣太政大臣兼季1281-1339 ┃二条為子
┣西園寺金章子1271-1342伏見天皇中宮)藤原実俊┣世良親王-1330
┣西園寺瑛子1273-1336(亀山天皇後宮) ┃┣静尊法親王?-?
西園寺実兼1249-1322 ┗遊義院一条局