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2009年02月26日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

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英雄・源義経が自害した理由

2009年02月25日 | 平家物語

 義経は時代の変革期に登場し、時代を急速に変えた。後から歴史を振り返ったときにそのような人物を人は英雄と呼ぶ。 兄の頼朝もその一人である。 義経にある特徴は仇敵である平家からも愛されたところにある。 義経は言わずと知れた天才的な武将であるが、その軍略はどこで身に着けたのであろうか。 義経が幼少の頃育った鞍馬山は兵法修行にはふさわしい。 鬼一法眼という修行武芸者に習ったというのも信憑性はある。しかしそれが可能なのは剣術であって、大勢を相手に軍を動かす兵法ではない。 義経の幼年期のことはよくわかっていない。 父は源氏の棟梁・源義朝、母は随一の美女といわれた常盤御前である。 義経が幼い頃、平治の乱により父・義朝が平清盛に破れ、逃走中に殺害されたことで、母とともに清盛の捕虜となった。 しがし常盤の類稀なる美貌により、兄 頼朝と義経は出家を条件に助命され、常盤は清盛の女となった。 その後どのように軍略を身に着けたのか。  義経伝では元服の年齢まで鞍馬寺にとどまったことになっており、僧になることを嫌った義経は金売り吉次の勧めで寺を抜け出し奥州藤原氏のもとに身を寄せたことになっている。 しかしその詳細は不明である。 義経はかなり若い時期に寺を飛び出し諸国を放浪し、身分の低い者に仕えるなどして苦労したことが、腰越状にもでてくる。 幼少に鞍馬を出た後様々な人と出会い、馬術・軍略を身に着けたのかもしれない。

 

 

 義経が生まれたのは1959年、死んだのは1189年であるから31年間の短い生涯であったが、その中で歴史の頂点に君臨したのは26歳から27歳にかけてのほんの短い期間にすぎない。 元服後に奥州藤原氏・ 秀衝の保護下にはいり、22歳のときに、頼朝の挙兵をきき、弁慶、伊勢三郎、佐藤忠信ら家臣を引き連れて兄の下へはせ参じた。 しかし兄からは家来としての扱いを受け不遇の時代を過ごす。 しかし兄は義経が軍事の天才であることを見抜き、当時異才を放っていた木曾義仲の追討のために義経を差し向けた。 義経は義仲軍の主力を宇治川で破り、入京して後白河法皇を確保している。 義経の進撃で追い込まれた義仲は近江で敗北し、京は頼朝軍の支配下となった。 ここで 頼朝は義経を平家追討司令官に任命した。 義経にとっての初戦は一の谷の戦いである。 都落ちした平家は平徳子が生んだ安徳天皇と三種の神器を奉じて九州大宰府まで引いた。 西日本の制海権を持つ平家は軍勢を建て直して讃岐の屋島に本拠を置き、一の谷まで進出してくるのである。 源氏の本軍は 頼朝の弟である範頼が指揮し、義経は少数精鋭の別働隊を任され、それを意のままに動かすことができたことが幸いした。 平家は福原を本拠として海上の水軍で身を固めている。 福原の両翼は平知盛・重衝、忠度らの軍勢が固めていた。 しかし一の谷という天然の要塞は守りは薄く、義経はこの弱点を逆手にとったのである。 鵯越の逆落としである。 この奇襲攻撃によって平家は大混乱に陥り、万全の備えを崩していく。 平清盛亡き後、浮き足だつ軍勢を立て直す器量をもつ者はおらず、平家は総崩れとなり平敦盛、忠度、経正ら10人の平家一門は討ち取られ、平重衝も生け捕られた。

 

 平家は完全に福原を放棄して屋島まで撤退せざるを得なかった。 勲功の第一は義経である。 次の屋島を攻略するまでの間、範頼は吉備、安芸を攻めて拠点を確保し、義経は京都の守護を命じられていた。 京都守護は軍略が生かされるというよりも政治的な手腕が問われる任務であり、義経の得意とするところではなかった。 このとき、後白河法皇は義経を検非違使兼左衛門尉に任官したのであるが、頼朝の戦略は鎌倉に朝廷とは独立した軍事政権を築くことにあり、それを確保するには配下が安易に朝廷と接触してはならないところにある。 ところが、義経はそれを犯してしまった。 その背景には、京都の治安を守るには何らかの役職に就いたほうがいい、ということと、何かと範頼が優遇されていたところにある。 義経が後に 頼朝の敵になっていく事の発端はここにあった。 範頼軍がようやく大宰府を押さえ、伊予の河野水軍が源氏に味方することにより屋島攻略が可能となり、再び義経の出番がやってきたのである。 

 

 義経の戦略はその速さにある。紀伊の熊野水軍、伊予の河野水軍の協力が得られると、少数の精鋭を率いて海を渡ることを決めた。 ところが 頼朝から軍目付として派遣されていた梶原景時は、船には逆櫓をつけるべきでそれまで出撃するべきではないと慎重論を唱えた。 しかし義経はそれを一蹴した。早い出撃で敵の不意を突くべきというのである。 義経は嵐の中、騎馬武者を連れて海を渡り、上陸すると海岸沿いに浅瀬を馬で渡り屋島の裏側に回り安徳天皇のいた御所に火を放った。 大混乱に陥った平家は、安徳帝を守るために避難をしいられる。 地元屋島の豪族で平家方の阿波重能が伊予国に出陣していて手薄であったことも平家にとっては不運であった。 平家は海上に逃れ、義経の手勢が思いのほか少ないことに気づくと、しばらく様子を見、阿波重能の帰還を待つつことで、陸上の源氏を海上の平家に膠着状態が続いた。  そんな中、平家の船に着飾った一人の女性が竿先に日の丸の扇を掲げた。 「扇の的」である。 これは余興のひとつであったが、源氏に対する挑発でもある。 これに応じなければ源氏の志気は下がり、平家は勢いに乗る可能性がある。 日和見している多くの武将が平家に味方するであろう。 義経は弓の那須与一を指名した。 南無八幡と武神に祈った矢は見事に扇の的を射抜き海に落ちた。 それはまさに平家の運命を象徴していたのである。

 

 この頃、源氏の本陣は平家よりも先に到着し、天は義経に味方した。 平家はついに屋島をあきらめそのまま最後の拠点である彦島へ向かった。 壇ノ浦のある海峡である。 一の谷から屋島までの約1年に比べ、屋島から壇ノ浦まではわずかに一ヶ月。 平家は追い詰められていた。 九州大宰府は源氏に奪われ山陽道も押さえられ、屋島を捨てたことで四国も失った。平家に残されたのは要塞彦島のみとなったが、海戦の素人・義経に対して平家はプロである。 山猿の源氏にとっては最も苦手な海戦であったが、義経はあっけなく完全勝利するのである。 その秘密は常識を超えた発想にあった。 船を操る舵取りを狙うことによって平家方の船は身動きできなくなったのである。 平家随一の勇者といわれる平教経は総大将の義経と刺し違えようと、極端な接近戦を挑んできた。 義経は別の船に飛び移って逃げたのである。 いわゆる八艘飛びである。 結果源氏の大勝利に終わったのであるが、兄 頼朝は喜ぶどころか激怒したという。  何故 頼朝はそこまで激怒したのか。 頼朝は軍事指揮官である以上に武士の新政権を樹立しようとしている政治家である。義経は三種の神器である玉、鏡は奪い取ったが、剣は奪うことができなかった。 平清盛の妻・時子・二位尼が剣と玉を身につけ幼い安徳天皇を抱いて入水したのである。 玉は木箱とともに浮き上がったが剣は海中深く沈んでしまったのである。 義経には三種の神器の意味の重さを理解することができなかった。 義経が兄 頼朝に嫌われたのは、軍監として同行していた梶原景時が讒言したからであるということになっているが、頼朝本人が、義経の力量を評価しなかったからにほかならない。 根っからの武将・義経には後白河法皇の勧めで検非違使になったことの軽率さや、剣を失ったことの政治的意味がわからないのである。 これは後の腰越状文から簡単に読み取れるのである。 

 1185年4月、義経は捕虜の敵将・平宗盛らを連れて京に凱旋し、民衆の歓声に迎えられた。清盛は後白河を幽閉し、若い高倉天皇を無理やり退位させ安徳天皇を即位させ、福原遷都を強行し、南都の焼き討ちをおこなうなど、民衆の平家に対する反感は最高潮に達していたからである。 法王は手柄を立てた武士たちに官職を与えようといって来た。 頼朝の承諾なしでは決して受けてはならないのに、多くの武士はそれを受けてしまい、頼朝を裏切る結果となった。 兄の許しを受けずに判官になっていた義経が武士の心を迷わせたのである。 当然 頼朝の怒りは義経に向けられ、義経を司令官の地位からはずした。 義経は事態の悪化を悟り、鎌倉の頼朝の下へ 腰越状 といわれる弁明の書を出したのである。 敵の総大将・平宗盛を護送して義経は鎌倉へ向かっていた。 義経は 頼朝から大勝利に対する賞賛を受けるのが望みであったが、それどころか鎌倉へ入ることさえ許されず、ここで初めて義経は愕然とするのである。 頼朝の側近である大江広元を頼って兄へのとりなしを願った書状が鎌倉の手前の腰越で書かれたから腰越状という。 この仕打ちに義経は激怒し、追い討ちをかけるように所領の没収が沙汰され、土佐坊昌俊という刺客に狙われたことから、義経の決意は固まった。 義経か後白河法皇に頼朝追討の院宣をを求めたのである。 

 院宣を錦の御旗にして再起すべく精鋭200人とともに摂津・大物浦に集結した一行は九州に向けて出向した。 しかし神に見放されていた義経を襲ったのは嵐であった。ほとんどの精鋭を失った義経は身篭った静とも分かれることとなる。 安宅での監視の目をくぐり抜けた義経は後に藤原秀衝の庇護を受ける。 安宅での関所破りは能の安宅、歌舞伎の勧進帳として後世に伝えられた。 義経一向は東大寺の大仏復興のために寄附を募る山伏となって安宅の関を通ろうというのである。 しかし関守の富樫左衛門は一行を見咎めて、趣意書である勧進帳を持っているだろうと迫る。 そんなものを持つはずもない弁慶は白紙の巻物を取り出し、朗々と読み上げると、一応は疑いが晴れる。 次に富樫は強力が義経殿に似ていると言い出したから、弁慶は義経を打ちのめすことにより難を逃れたという。 実は富樫左衛門は義経を見抜いており、弁慶の忠義に免じて見逃すという情けの人として描かれており、真実の程はわからない。 こうして一行は鎌倉の追っ手を逃れて奥州藤原氏のもとにたどり着いた。  ところがここでも義経には不運が待ち構えていた。 最大の庇護者である藤原秀衝が亡くなってしまうのである。 そもそも秀衝は平家に替わって中央政権を握る源氏が誕生したときのことを考え、義経をかばった。 しかし義経は頼朝と対立した今となっては大きな誤算となった。 もともと奥州藤原氏は源氏とは仇同士であり友好の絆であるはずの義経が源氏との対立を深めるとは想定外であったのである。  だが、それでも秀衝は義経を受け入れた。奥州軍の大将としてこの軍事の天才を生かそうと考えたからである。 ところがその秀衝が死んだ。 秀衝の後を継いだ泰衝は父・秀衝の遺言を無視し、500の手勢に義経のいる高館を襲わせたのである。 義経には弁慶などわずかな武者しかおらず、ひとたまりもなかった。 義経は妻・河越重頼の娘と 4歳の娘とともに自害した。 その後、奥州藤原氏は頼朝軍にあっけなく破れ、滅ぼされたのである。 

 時代を変えるために最大の功績を挙げた義経および廻りの者は誰一人として幸福になることはなかった。 これにより判官びいきという日本始まって以来の感情が生まれる。 日本人の根本的宗教である怨霊信仰の変化したものであり、報われずに遺恨を残してなくなった者には祟りを怖れて鎮魂しなければならないという形をとるのである。 さて、来月実は安宅の関に行こうと思っています。 思えばもちろん色々と調べ、そのうち再度、義経について書いてみたくなったというわけです。  

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2009年02月24日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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蛸薬師・永福寺

2009年02月24日 | 平安時代

 誠心院のすぐ南には浄瑠璃山・林秀院・永福寺があり蛸薬師として親しまれている。この寺はもともと二条室町にあったが秀吉の土居造後に寺町通に移された。 蛸薬師の坊門前を東西に走るのは蛸薬師通で、もちろん蛸薬師堂にちなんだものである。 1181年安徳天皇の御世、室町に一人の富者・林秀が比叡山の根本中堂の薬師如来を深く信仰しており、比叡山までの月参りを長年にわたって行っていた。 老年になったある日、薬師如来様の仏前で、「私も、年老いて年来の月参りも出来なくなります。 どうか薬師如来様のお姿を一体お与え下さい。」と祈願すると、夢枕に薬師如来が現れ、お告げになられます。 「昔、伝教大師(最澄)が、私の姿を石に彫り、比叡山に埋めている。これを持ち帰るがよい。」 林秀は大喜びし、翌日薬師如来様の示された所を掘ると、瑞光赫々とした立派な石の御尊像を得る事が出来ました。 この尊像を持ち帰り、六間四面のお堂を建立し永福寺と名付けたのです。 後深草天皇の御世、1249~1256年頃に善光と言う僧がこの寺に住しておりました。ある時、母が病気になり寺に迎えて看病していたが、一向に病はよくならず、母は、「子供の頃から好物だった蛸を食すれば病が治るかもしれない。」と善光に告げます。 善光は僧侶の身で、蛸を買いに行くことを躊躇しておりましたが、買って帰るのを見た町の人々は僧侶が生魚を買った事に不審を抱き、善光のあとをつけて寺の門前で、彼を責めます。 一心に薬師如来様に祈り「この蛸は、私の母の病気がよくなるようにと買ったものです。どうぞ、この難を助け下さい。」 箱を開けると蛸はたちまち八足を変じて八軸の経巻となり霊光を四方に照らしました。これを見た人々は皆合掌し、南無薬師如来と称えると不思議なことに、この経巻が再び蛸になり、門前にあった池(今の御池)に入り、瑠璃光を放って善光の母を照らすと、病気はたちまち回復したという。 それ以来、蛸薬師堂の蛸薬師如来様と称されるようになり、この地で病気平癒を祈れば、身体の病だけでなく心の病もたちまち回復し、子を望めば生じ、財を願えば叶うと云われるようになります。 1441年には、後花園院の天聴に達し勅願寺となっています。

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石山本願寺址碑

2009年02月23日 | 戦国時代

 法界寺のある日野は山科の南、親鸞上人縁の地である。 親鸞の父は日野有範で藤原北家の流れをくみ、後醍醐天皇のときに過激な行動で命を落とした公卿を数多く輩出し足利義政の室・日野富子も名を残している。 親鸞の後、浄土真宗は叡山から弾圧を受けて振るわなかったが、室町後期に現れた本願寺八世・蓮如により一気に宗勢は振るった。 この場合の本願寺は京都市東山の大谷にある親鸞の廟である。 大谷にある親鸞の廟である本願寺は再び旧仏教の攻撃をうけ、本拠地になったのが山科本願寺である。 山科本願寺とはいうものの普通の寺ではなく、周囲に塀や土居を配した寺内町であった。 信徒に加え様々な職人が集まり宿舎もでき、阿弥陀堂や御影堂を核とした宗教都市といっていい。 蓮如が近江、北陸、東海などの信徒の協力で山科に堂を建立して寺内町建設に踏み出したのは1478年のことである。  蓮如はこのとき、海老名五郎左衛門から土地の寄進を受け、山科に堂を建立し山科本願寺を建立した。 海老名は後に西宗寺の開祖になったという。 このようにして信徒の強力な結束もあって山科本願寺の城ともいわれたが、やがてこのような信徒の結束が町を失う原因となる。  1499年蓮如が85歳で亡くなったあと、子の実如が山科本願寺のあとを継いだ。が孫の証如のとき1532年に細川晴元、六角定頼、京の法華宗により山科本願寺は完全に焼き払われ、以降大坂の石山本願寺に拠点を移すが、織田信長と石山合戦を続けることとなる。 因みに石山本願寺の跡地に建立されたのが大阪城である。

大阪城梅林園横にある石山本願寺址碑

 

 

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2009年02月23日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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2009年02月22日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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京都・疎水

2009年02月22日 | 国内旅行散策

 疎水関係の構築物の中には今尚本来の役割を果たしているところもあれば、遺跡となって産業考古学の対象となっているところもある。京都美術館、動物園の南側に歯疎水の本流が流れている。 もともと船の通う運河であった。 動物園の南東で疎水は急に広くなり、ここが南禅寺舟溜りだった。 この舟溜りで疎水は南南東へと向きを変え、疎水に沿ってインクラインの遺構が保存されている。 疎水の目的は、琵琶湖の水を京都へ運ぶことと、小型船による物資の運搬であった。 しかし琵琶湖から西へと掘削されたトンネルや運河は蹴上げ舟溜りと南禅寺舟溜りの間は勾配がきつく、それを解決するのがインクラインだった。 物資ごと船をレールに車輪のついた台車に乗せて動かすことで勾配差を埋めた。 台車を引く動力には最初は水力であったが、そのうちに電力にかわった。 蹴上では本流とは分かれた疎水の分線が北へ向かい、南禅寺の法堂の南側では水道橋となって今も水を流している。橋脚はアーチ型になっていて水路閣とよばれる明治の建造である。 この分線はさらに北方へ伸び哲学の道沿いに流れ堀川へと運ばれていた。 この疎水工事は日本の歴史史上初めての壮大な構想であったが、事業の推進は大学を卒業したばかりの若者に託され、 疎水の水力を利用した蹴上発電所によって京都市電も活躍したのである。

 

 実はこの水路閣のすぐ南側には後嵯峨天皇の皇后・西園寺姞子が眠る粟田山陵があります。西園寺姞子(1225-1292)の父は太政大臣・西園寺実氏、母は四条貞子(四条天皇の乳母)で、18才で後嵯峨天皇(23才)に入内し、女御宣下を受け、中宮となる。19才のときに久仁親王(後深草天皇)を生み生後2ヵ月で立太子をさせています。 

 

                     藤原立子(東一条院)
             修明門院藤原重子 ┣85仲恭天皇  
憲仁親王80代高倉天皇1161-1181   ┣84順徳天皇 
  ┃ ┣高成親王(82代後鳥羽天皇)1180-1239          平棟子           
  ┃ ┣守貞親王(後高倉院)1179-1223 ┣83土御門天皇       ┣宗尊親王    
  ┃ ┃  ┣86後堀河天皇1212-1234 ┃  ┣88後嵯峨天皇1220-1272 
  ┃ ┃  ┃ ┣87四条天皇    ┃  源通子           ┣89後深草天皇
  ┃ ┃  ┃ 藤原竴子       ┃         四条貞子┣90亀山天皇
  ┃ ┃藤原陳子(北白河院) 承明門院源在子     ┣西園寺姞子1225-1292
  ┃ ┃平頼盛娘┛          藤原基頼1040-1122   ┣西園寺公基1220-1275右大臣      
  ┃藤原殖子(七条院)     ┗藤原通基1090-1148┣西園寺公相1223-1267太政大臣

  ┣言仁親王トキヒト(81代安徳天皇)  ┣持明院基家  ┃┣実兼1249-1322      
徳子1155-1214(建礼門院)      ┣娘┣棟子   ┃┗西園寺嬉子1252-1318亀山中宮 

                               娘┃┃┗後堀川 ┣西園寺公子(後深草中宮)  
 
         藤原実季1035-1092 源師隆┛┃┣娘   ┏西園寺実氏1194-1269
           ┣藤原公実1053-1107   ┃┃┣-  ┃   
 
         睦子 ┣公子1087-     ┃┃平資盛┃1161-1185   
 
 
             ┣璋子(鳥羽中宮)1101-┃┗娘   ┃   
 
        ┣実能(徳大寺)1096- ┃ ┣西園寺公経1171-1244 
         ┣西園寺通季1090-1128┣藤原実宗    ┣清水谷実有 
 
 
      藤原光子1060-1121┣藤原公通1117-1173
┣洞院実雄1219-1273  
 
           藤原忠教娘            ┣四辻実藤
                           平親宗娘

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2009年02月22日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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2009年02月21日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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2009年02月21日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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禅林寺・永観堂

2009年02月21日 | 平安時代

 南禅寺の隣には紅葉の名所として人気のある聖衆来迎山禅林寺があり、その寺を盛んにした中興の僧侶の名に因んで永観堂と呼ばれている。 聖衆来迎とは阿弥陀仏たちが浄土へ人を迎えにきてくれるという意味で、この寺には鎌倉時代の山越阿弥陀図が伝えられている。 この地はもともと藤原関雄の邸宅であったが9世紀中ごろに寺になったといわれている。 三代実録の863年の条に山城国愛宕郡の一道場を定額として禅林寺ということを律師眞紹が願い出ている。 その中で、河内国観心山寺をつくりはじめたが、山深いところで不便なため、故従五位下の藤原朝臣関雄の東山の家を買い、寺家とし一堂を造って五仏を安置したいことが述べられている。 因みに関雄が東山の邸宅で詠んだ歌は古今集に収められていて、この地が次第に紅葉の名所として知られるようになった。 観心山寺は現在、観心寺として河内長野市にあり、平安時代の如意輪観音菩薩像は優れた密教彫刻として知られている。 この寺については883年の河内国観心寺縁起資財帳という詳細の財産目録があり、眞紹がいうほど不便な地ではなく、多くの伽藍ができ仏像や経典の多いことがわかる。 河内の錦部には百済から渡来した錦部氏がいたが、山背国愛宕郡にも錦部郷があって錦部氏の文脈が住んでいた。 しかし郷の範囲が狭かったらしく愛宕や八坂郷にくらべると場所が特定しにくい。 禅林寺と観心寺の関係から見て、禅林寺の所在地が錦部郷にあったと思われる。

 藤原関雄805-853は藤原北家・藤原真楯の曾孫、内麻呂の孫。真夏の五男にあたり(母は不明)、834年、淳和天皇に見込まれて出仕し、835年勘解由判官となる。 少判事・刑部少輔などを経て、従五位下治部少輔兼斎院長官に至るが、病のため退官し、東山に籠居した。 世の人々から東山進士と呼ばれた。 琴に秀で、淳和天皇から秘譜を賜わったといい、書にも堪能で、古今集に歌二首を残している。 

奥山の岩垣もみぢ散りぬべし照る日のひかり見る時なくて

山奥の岩垣紅葉は、美しく色づきながら、光をあびることなく、散ってしまうのでしょうね。我が身もまた同様に・・・。という古今集に納められたこの歌は、主流の北家ではありながら、藤原永手(真楯の弟)が君臨する一方で、わが系統が衰えていく様子を憂いたのでしょうか。

紅葉シーズンの永観堂

 

河内国・観心寺の寺縁起資財帳という詳細の財産目録によると、眞紹がいうほど不便な地ではなく・・となっていますが、実際に行ってみるとまさに山深いところでありました。

 

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愛器Gibson

2009年02月21日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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2009年02月21日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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