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15-1942/7/29 ポートモレスビーへの陸路攻略開始

2014年07月20日 | 太平洋戦争

 オーストラリアが基地の中心をラバウルからラエに移動させていた一方で、日本軍はラエ基地を侵攻し、ここを拠点にポートモレスビー攻略を開始したのが1942年5月のことである。これはポートモレスビー作戦ともスタンレー作戦とも呼ばれた。ポートモレスビー駐留の主流航空機部隊はアメリカとイギリスで、日本側は小隊長率いる3機編成で空中戦を繰り広げる戦いは連日続いた。日本側の勇士は台南航空隊ともラバウル航空隊とも云われ、当時の日本航空隊の中では最も会戦機会が多かったといわれている。ポートモレスビー戦で、坂井三郎・西澤廣義・笹井醇一(実は大西瀧治郎の甥にあたる)などは鍛えられて撃墜王となった。このときの格闘戦では零戦に敵はなかった。ドッグファイトといわれる巴戦では3度の旋回までに敵機は零戦に撃ち落されていたという。ドイツのメッサーシュミットを圧倒したイギリス空軍のスピットファイアーも零戦の敵ではなかった。スピットファイアの仕様を零戦21型と比較すると、翼面積同じ、機銃同じ 自重量2300/1750kg 出力1470/940Hp 降下制限速度780/630km/hという風に決して劣ってはいない。つまりラバウル航空隊の技量が上回っていたといえる。

 勢いに乗ってニューギニアの占領を目指して南岸に位置する唯一の港町・ポートモレスビーに輸送船6隻の陸軍部隊を送り込もうとした。空母や巡洋艦に随伴しての侵攻であっただけに成功するかに見えたが、米海軍は2隻の大型空母を中心に激しく迎撃し、珊瑚海海戦が勃発した。1942年5月8日米空母レキシントン、ヨークタウンからF4F戦闘機、SBD爆撃機、TBD雷撃機など92機が発進すると日本側空母・祥鳳は沈没(太平洋戦争初の日本空母沈没)、第四艦隊司令部井上成美中将らに激震が走った。結果は空母・翔鶴も大破し、艦載機81機を失ったが、米軍も空母・レキシントンは沈没、空母ヨークタウンも中破、艦載機66機を失っている。そして日本軍はポートモレスビーへの上陸は断念し船団は引き返した。そしてこの二ヵ月後にポートモレスビーへの陸路攻略を開始した。 

 1942年7月になると海軍の陸上戦闘部隊と陸軍の海南支隊はニューギニア東のミルン湾、や北方のブナ上陸を目指し、再びポートモレスビー占領を目指した。ところがミルン湾では米豪航空部隊の猛攻撃を受けて撤退。一方のブナ上陸後は標高4000mのスタンレー山脈を超えて侵攻したが、支援・輸送手段もなく、何ら戦果を得られないまま追い返され、1942年の終わりには全滅する部隊もあったという。これらの敗北分析をすることもなく、大本営は3度目の侵攻に第18軍を投入した。しかし海軍は800kmはなれたガダルカナル戦で全力投球しており、陸軍・海軍は実質的には別々に戦うこととなる。大幅に増強された第18軍は兵力10万人以上、戦闘機280機、これにより米豪軍を激破できると考えた。しかしその思惑ははずれ、1943年3月の大規模輸送計画は連合軍の猛攻により失敗、B-25の爆撃によって輸送船8隻すべてが撃沈されたのである。これをダンピールの悲劇という。このような杜撰な作戦によって戦力を欠いていく日本に対して米豪は増強を重ね、兵力45万人、航空機1000機となっていた。これによりマッカーサー司令官の指揮のもと、カートホイール作戦が実施された。ニューギニア北部の日本軍を東から次々と殲滅していく作戦である。すでにソロモンの制空権を失った日本軍には海上輸送路は絶たれ、日本兵は海岸から森林に逃れて、飢餓、風土病と闘いながら14万人が死亡した。この構図はガダルカナル戦での敗北とまったく同じで、物資輸送路を絶たれた日本兵のほとんどは戦わずして餓死していったのである。ニューギニア戦線での司令官・安達二十三は終戦後責任を取って自決したのであるが、当然である。

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