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神社行幸

2011年09月16日 | 平安時代

 天皇自らが特定の神社の赴き、祈念するのが神社行幸であり、一代一度の行事として盛んになるのが一条天皇から後一条天皇の頃である。 1017年には後一条賀茂行幸で藤原実資が上卿として活躍している。 行幸して祈願をしたはじまりは将門・純友の乱平定を祈念して朱雀天皇が賀茂社に行幸したことといわれている。その後円融天皇が石清水神社に行幸し、翌年の賀茂行幸とあわせて両社行幸とよばれている。 一条天皇のときには藤原兼家が強行して先例を開いた春日行幸をはじめ大原野、松尾、北野の各社にも行幸の先例を作るなど、神社行幸制は整えられ、院政期には十社行幸の制が整った。 大鏡には後一条天皇春日行幸の様子が記されている。 「見物に集まった民衆が転輪聖王のように輝く天皇の輿を、仏を拝むようにしている。 京の民衆にとって天皇を見物できる場面となった」 

 ところで、伊勢神宮に対しては天皇は行幸できないが、そのかわりに公卿勅使の制ができた。 その例は奈良時代には多いが9世紀は少ない。後の公卿勅使の先例を開いたのは天慶乱平定祈願の940年の勅使派遣で、その次は一条天皇のときに2例あり、その後は江戸時代まで多くが続く。 一条天皇の初例は997年4月の参議源俊賢の派遣で、このときは伊勢を含めて4社に派遣された。 次は1005年12月で、内裏焼失で神鏡が焼損したことにより伊勢神宮に勅使を遣わすことになった。 当初予定されていたのは参議源経房であったが、急に蝕穢となって参議行成が派遣された。 

東三条院が石山寺に御幸し、道長がお供する様子

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