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大化の改新・下

2006年01月24日 | 奈良・飛鳥時代

大化の改新・下

 中臣鎌足が目をつけたのは、中大兄皇子だった。 まだ10代の中大兄皇子に,君主を感じた鎌足は蘇我入鹿の打倒を持ちかけ、中大兄皇子も応じる。 そして、次に敵の有能な臣下で蘇我一族の2番目の有力者・蘇我入鹿の従兄弟に当たる蘇我倉山田石川麻呂に接触しし、中大兄皇子に石川麻呂・娘を嫁がせ,石川麻呂と中大兄皇子との関係を深めさせる。

 中大兄皇子・中臣鎌足は三韓(高句麗・百済・新羅)の使者が大極殿にて天皇に調(みつき-贈り物)を捧げる儀式の最中に蘇我入鹿暗殺を実行することにした。 中大兄皇子は蘇我石川麻呂に使者の書を読む役を与え,読み上げ始めるときを暗殺の時とする。

蘇我入鹿の暗殺(乙巳の変:いっしのへん)

 645年6月12日、飛鳥板蓋宮大極殿にて、蘇我石川麻呂は蘇我入鹿とともに宮廷に入る。 天皇の前に,古人大兄皇子,蘇我入鹿,蘇我石川麻呂が進み、続いて長槍を持った中大兄皇子(20歳),弓矢を持った中臣鎌足(32歳),2人の刺客(佐伯連子麻呂:さえきのむらじこまろ,葛城稚犬養連網田:かずらぎのわかいぬかいのむらじあみた)の4人が暗殺を実行する。  宮での事態を知った入鹿の父蝦夷は甘橿丘の邸宅にたてこもり、蘇我氏と関係の深い東漢氏(やまとのあやうじ)の兵達も集結したが、翌日中大兄皇子の使者巨瀬臣徳太の説得で武装解除し、蝦夷は,自害する。 これにより,4代,50年以上権力を握っていた蘇我氏は滅亡したのである。
 

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