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菅原道真の祖・土師氏の氏寺・道明寺

2010年04月21日 | 平安時代

 慶頼王921-925は923年、醍醐天皇の皇太子だった父保明親王の死を受けて3歳で皇太孫に立てられますがその2年後、わずか5歳で死去すると、彼の母・藤原仁善子が藤原時平の娘だったために、時平が失脚させた菅原道真の祟りだと噂されたといいます。 藤原仁善子-946は、保明親王の御息所で本院御息所と呼ばれ、左大臣藤原時平の娘で、母は廉子女王(仁明天皇皇孫)、叔母にあたる藤原穏子(醍醐天皇中宮)の後押しによって東宮保明親王に入内しました。 保明親王903-923(朱雀天皇、村上天皇の同母兄)は醍醐天皇の第二皇子で、母は藤原時平の妹・藤原穏子にあたる。 醍醐天皇の皇太子となるが僅か21歳で死去したことから菅原道真の祟りとの風評も立ったという。 2歳で立太子、東宮となったのには叔父藤原時平の思惑があり、保明親王を即位させることで政治の実権を握ろうとしていたが、909年親王の即位を見ることなく時平が没し、親王も即位することなく21歳にて早世します。 このため第一王子の慶頼王が皇太子に立てられるが、2年後に死去したために、慶頼王の代わりに親王の弟、寛明親王(朱雀天皇)が皇太子となった。 寛明親王は母が藤原時平の妹・藤原穏子、妃が娘であったため時平と繋がりが深く、人々は親王と慶頼王の死去は時平が追いやった菅原道真の祟りとする風評が立ったのです。 これを怖れた醍醐天皇は菅原道真を右大臣に戻し正二位を追贈するとともに、道真追放の詔を破棄するのですが、台風・洪水・疫病と災厄は収まらず、930年6月内裏の清涼殿に落雷し複数の死者が出たことで醍醐天皇は病に臥し、3ヵ月後寛明親王に譲位した直後に崩御した。

 このように、大宰府で死んでからの道真はその怨霊が恐れられた。雷をあやつり怨敵の命を奪う火雷天神と考えられた。 一条天皇の頃、987年には北野にいます社を天満宮天神と呼んでいたことは菅原御伝記でわかる。 つまり北野天満宮のことである。 836年、続日本書紀には遣唐使のために天神を北野で祀るとあり、これは第15回の遣唐使が無事に使命を果たすようにと天神に祈ったものである。このとき長官の藤原朝臣常嗣以下メンバーは決まっていたが準備不足で出発は遅れた。 メンバーには菅原道真の叔父である菅原朝臣善主が判官として参加し、山城の豪族・山城宿禰氏益、僧・円仁がいた。 因みに第14回の遣唐使には藤原葛野麻呂(藤原朝臣常嗣の父)を長官として、城菅原道真の祖父・菅原朝臣清公、僧・最澄、空海が随行していた。 第15回目の遣唐使は困難を極め、これが後に道真が遣唐使を廃止する提言をおこなった理由となる。 こういうこともあって遣唐使の無事を祈願する祭事が北野で行われるようになった。 平安中期に北野の土地柄を源高明は西宮記に残している。 つまり太政大臣・藤原基経は五穀豊穣を祈って雷公を北野に祭ることをしている。 北野は雷が発生しやすく北野の南にある大内裏に落雷することもあった。義満の北山殿の七重の塔が焼け落ちたし、930年には清涼殿の柱に落雷し大納言・藤原清貫が胸を裂かれて死に、右中弁平希世も倒れた。 この事件に衝撃を受けた醍醐天皇は道真の怨霊を恐れて病に倒れやがて崩御した。

 菅原道真の曾祖父・古人は土師宿禰であり同族の土師宿禰道長とともに遠祖の野見宿禰の功績を申しでて菅原氏を名乗った。 これは781年のことで、桓武天皇即位の前で申し出が土地名菅原は承認された。 翌年、秋篠にいた道真の弟も同様の申し出を行い、秋篠氏を名乗った。 これ以外にも土師氏からは河内の志紀、和泉の百舌鳥がある。 百舌鳥に関しては孝徳天皇の死に際して、百舌鳥土師連土徳が殯宮を担当した。 桓武天皇の母であり光仁天皇の夫人・高野新笠の母は土師真妹で、和泉の土師氏つまり 百舌鳥に属していた。 因みに桓武天皇の外祖父は百済の武寧王の末裔・和乙継である。 桓武の母・高野新笠の陵は 大枝陵であるが、この大枝は土師真妹の死後正一位を追贈されたとき大枝朝臣真妹と名を変えてさらに大枝氏が生まれたことに由来する。 

道真の名・道明に由来する道明寺は土師氏の氏寺 

 

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