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菅原基経・阿衡紛議  『阿衡の任』に激怒は詔を書いた文章博士「橘広相」への失脚計画 収拾は「菅原道真」

2005年12月23日 | 平安時代

「阿衡の紛議」

  「阿衡の紛議(あこうのふんぎ) 」の話は「摂関政治」、当時の藤原氏の権力を確固たるものにした事件で、学問の神様「菅原道真」が出世するきっかけになった事件でもあります。

  887年に即位した「宇多天皇」は、自分を天皇に推薦してくれた「藤原基経」に感謝の意を表し、 「天皇に関する全ての事は太政大臣である藤原基経が関与する。これからは天皇が臣下に対して命令する際にも、臣下の要望を天皇に伝えるときも全て藤原基経に相談して決める。」という内容の詔(みことのり・天皇の命令)を出します。   これが「関白」の始まりです。

  ところが藤原基経は辞退します。慣例的な辞退のあと、2回目の詔が「藤原基経を『阿衡の任』とする。」という内容で発令されます。  「阿衡」とは古代中国の王朝「殷」の宰相の事を指す言葉なのですが、これを見た藤原基経は激怒します。 阿衡には、政治的な権限が無い意味があったからです。 そして、詔を書いた文章博士「橘広相」の処罰を求めます。 太政大臣である藤原基経の異例の事態に、朝廷はもちろん、政界を揺るがす大事件に発展します。

  じつは、藤原基経にはある意図がありました。 詔を書いた文章博士「橘広相」は藤原氏のライバルでもある名門「橘氏」の血を引く人です。 しかも橘広相の娘・橘義子は宇多天皇に嫁いでいて2人の子供まで生まれています。 斉世親王・敦慶親王です。 橘広相を失脚させようという意図が藤原基経にはあったのです。  そして翌年の888年6月に宇多天皇は「阿衡と言うのは本意ではなく間違いであった。」との内容の詔を出します。 しかし藤原基経の怒りは収まらず・・・、藤原氏の権力の強さが伺えます。

  この大事件の収拾のため「菅原道真」が立ち上がります。現在では「学問の神様」として天満宮に祀られている人物です。 菅原道真は上京し、藤原基経に手紙を送ります。その趣旨は・・・。

  古典から引用した「阿衡」には藤原基経に権限がないと言う意味で使ったのではないこと。  橘広相は宇多天皇の即位に力を尽くした人物で、嫁いだ娘は宇多天皇との間に2人の子供を産んでおり、その功績・血筋を裁くのは、これからの藤原氏の繁栄にとっても得策では無いこと。 

 藤原氏の将来を考えた手紙に、藤原基経は怒りを収め、橘広相の罪も問われず、政界を揺るがす大事件は一気に解決に向かいます。しかしながら、 これ以来、宇多天皇は藤原氏を疎ましく思うようになり、菅原道真に対する信頼感を強めて重く用いるようになって行きます。

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