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飛鳥寺

2009年10月24日 | 奈良・飛鳥時代

 時代は1400年前に遡る。飛鳥の地に、古墳に代わって本格的な仏教寺院が建立された。当時の法興寺は現在の飛鳥寺の20倍もの広さで壮麗な寺だったらしい。その後寺は寂れて江戸時代の後期に堂宇が再建され、現在は日本最古の仏像・釈迦如来坐像が残るのみになっている。 この像の作者は法隆寺の釈迦三尊像を製作したことでも有名な鞍作鳥である。しかしながら像のほどんどの部分は修復され、鳥がつくったのは左耳、指の一部のみであるという。 日本最古の仏像がある飛鳥は畝傍山、耳成山、天香具山に囲まれた極めて狭い場所である。 この場所に日本の中心としての飛鳥板葺宮、飛鳥浄御原宮があり、蘇我馬子が館を構えた甘樫丘や、馬子の墓といわれる石舞台古墳がある。 また数多くの石の遺跡が残っている。

甘樫丘から見た飛鳥寺一帯                           板葺宮

 

豊浦寺跡                           石舞台古墳

 

 日本に仏教が伝来したのは538年といわれている。百済の聖明王が仏像と経論を献じ 日本にはいった。百済は日本と通交しており多くの人が文化と技術を持って渡ってきたのである。その百済人が多く住んでいたのが飛鳥である。当時大和朝廷を構成していたのは大和を本拠地とする 物部氏・蘇我氏などの有力豪族であった。古くから武門の名家であった 物部氏に対して、渡来人と密接な関係のあった蘇我氏が新興勢力として勢いを伸ばしていた。 仏教排他論の 物部尾興と推進派の蘇我稲目はこのときに対立した。 当時の欽明天皇は百済からの仏像を朝廷に置かずに蘇我稲目に与えた。

 587年ついに尾興の子・守屋と稲目の子・馬子が神仏戦争を起こすこととなる。この熾烈な戦いでは多くの地方豪族は蘇我氏側に就き、 物部氏と蘇我連合軍との戦いになったが、連合軍側には後の聖徳太子が加わり連合軍の統合に一役かっている。 推古天皇の時代には聖徳太子が摂政として実質的な政権を担当し仏教を基調として政治を革新する。 仏像の制作、寺院の建立を推奨し、次第に仏教が浸透していった。 物部氏を滅ぼした蘇我馬子は本格的な大伽藍を持つ寺の建立を開始した。 それが飛鳥寺なのである。 物部との戦いに勝利した翌年の588年に建立を開始した飛鳥寺は渡来人の技術によるもので、蘇我氏の寺から国家の仏教寺院という位置づけに変化していった。 当時、高句麗や新羅と敵対していた百済は日本との繋がりを強めておくために、多くの技術と僧侶を惜しげなく投入したのである。 聖徳太子の師である僧・恵慈は高句麗から、慧聡は百済から、また 舎人であった秦河勝なども渡来人である。 

 飛鳥寺建設当時の伽藍配置は飛鳥寺式とわれ、「一塔三金堂」という様式である。 塔は仏舎利を納める墓所の意味を持ち、金堂は仏像を納める建物の意味を持つ。そして飛鳥寺の中心は塔であった。それが奈良時代にあると仏教美術が繁栄し、金堂に納められた仏像が重要視されるようになり寺の中心は塔から金堂へと変化した。 こうした壮大な飛鳥寺も次第に衰退していくこととなる。 物部氏が滅んだ後、蘇我氏の横暴ぶりは目にあまり、聖徳太子が622年に亡くなったあと、蘇我入鹿が権力を握り、ついには聖徳太子の長子である山背大兄王とその一族を全滅させた。 その入鹿は、645年皇極天皇の頃、中大兄皇子と中臣鎌足らの手によって殺害された。 藤原京遷都ののち飛鳥の地に取り残された飛鳥寺は徐々に衰退し、ほとんどの伽藍は焼失した。そうした歴史のなかで一部とはいえ飛鳥大仏が今も残っているのは奇跡といっていい。

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