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平安時代中心の歴史紹介とポートレイト

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11帖 秀忠の娘・千姫

2005年12月05日 | 池波正太郎 江戸時代

徳川秀忠とお江の長女 千姫 1596年-1666年

 1598年、秀吉の命により、僅か2歳で豊臣秀頼と婚約。 ちなみに秀頼の母・淀殿と、お江が姉妹になるため、二人は従兄弟になる。1603年に秀頼の元に嫁ぎ大坂城に入る。城内では淀殿らに敵の娘として扱われ、不自由な生活を送る。(ということであるが、そうか?)

 1614年に大坂の陣が始まり、実家と嫁ぎ先による戦となる。 冬の陣は和議となるが、翌年、再び夏の陣が起こり、豊臣軍は敗北。 大坂城内に徳川軍が殺到した。この時、大野治長が、秀頼・淀殿親子の助命嘆願のために解放し、家康の元に送り届けようとする。堀内氏久が護衛をして、彼の知り合いだった徳川軍の坂崎直盛の陣経由で徳川家康の陣所に送り届けられた。 可愛い孫娘が助かったことで家康は大喜びし、後に護衛をした堀内氏久の命を助けるどころか、領地まで与えるほどだった。

 家康と面会した千姫は頼まれていた通り、秀頼親子の助命を嘆願した。一応、了解したふりをした家康だったが、ここで豊臣家の血を残しておくわけにもいかず、秀頼親子を自害へと追い込んでいることから、悲劇の姫といわれる。

 1616年9月、桑名城主だった本多忠政の息子・忠刻と再婚。 千姫が彼に一目惚れしたからと言われているが、本当は忠政の妻・熊姫が家康に頼んで嫁にもらった、と言うのが真相のようだ。 この再婚の時に、有名な千姫強奪未遂事件が起きている。 翌年、本田家が播磨姫路15万石に加増となると、千姫は10万石の化粧料を与えられ、播磨姫君と呼ばれるようになった。姫路城で平穏に暮らし、二人の娘と一人の息子に恵まれた。 しかし息子が4歳で夭折し、それから流産を繰り返すようになった。後継ぎが出来ないのは、秀頼の祟りと考えた千姫は、祈祷を祈願するなど、霊を鎮めようとする。しかしその努力も空しく、1626年5月7日に夫の忠刻までが病死してしまう。

 6月、未亡人となった千姫は出家して天樹院と号し、11月に娘の勝姫と共に本田家を去り江戸に戻った。 そこには弟の3代将軍・家光が待っており、彼女を暖かく迎えたと言われている。 それから千姫は江戸の竹田御殿で余生を過ごし、1666年2月6日に亡くなっている。享年70歳。

 姫路城の西の丸は、どことなく女性的なやさしい雰囲気をたたえた場所で、天守閣を中心とするお城の建物を右に見て、鷺山の崖にそって築かれています。 本多忠刻へ嫁いだ時、千姫の化粧料10万石で造営された殿舎。 門のある台所、二層の化粧櫓、侍女たちの住む塗りごめの百間廊下ともいわれる延々と続く長局。 見事な庭園、屋形船をうかべた内濠、いずれも千姫の心をなぐさめるための造りだったとか。 

世界文化遺産・姫路城 白鷺城ともはくろ城ともいわれます。

 千姫は、毎日、化粧櫓から男山天満宮を仰ぎ、信心を深めたそう。いまは、その化粧櫓と長局が残るだけだけど、いかにも美女千姫の館らしい幻想と愛憐の情をかきたてる優美な一郭。 千姫の姫路城での日々は幸せでした。毎朝、西の丸から男山にまつった天満宮をおがみ家族の健康を祈り、化粧櫓で休みました。勝姫、そして跡継ぎの幸千代が生まれました。「初秋の風を廉にまきとりて」 忠刻「軒はにおほうの竹の葉の露」 お千2人が読んだ連歌が残されています。仲むつまじい2人の姿を人々は「夫婦雛のよう」と噂しました。 幸千代と忠刻のなきがらは書写山にほうむられました。未亡人となって江戸に帰る千姫のやさしさをしたっていた、たくさんの藩士や城下の町人達が大手門の橋のところに集まり泣きながら見送りしました。 姫路城でくらした10年が、70年の生涯のなかで、もっともおだやかで幸せな歳月であったのかもしれません。

  松平広忠  ━━ 徳川家康 1543-1616年 ┓幼名:竹千代
(八代当主)  ┏ 松平忠政       ┃

  ┃     ┣ 徳川家元       ┃
 於大の方   ┣ 樵臆恵最        
(伝通院)   ┣ 内藤信成       ┃
        ┗ 市場姫  矢田姫   ┃
   ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
   ┃ 
正室・篠山殿━┳ 長男・松平信康(1559年 - 1579年)(母:築山殿)       
正室・朝日姫 ┣ 長女・盛徳院 (1560年 - 1625年)(母:築山殿)
側室・お津摩 ┣ 
側室・お万  ┣ 
側室・小督局 ┣ 次男・結城秀康(1574年 - 1607年)(母:小督局)
側室・西郷局 ┣ 三男・徳川秀忠(1579年 - 1632年)(母:西郷局)━━┓幼名:長松
       ┣ 四男・松平忠吉(1580年 - 1607年)(母:西郷局)  ┃
       ┣ 次女・良正院 (1565年 - 1615年)(母:西郡局)  ┃
       ┣                                                   
       ┣                                                  
       ┣ 十男・徳川頼宣 (1602年 - 1671年)(母:お万)    ┃
       ┗ 十一男・徳川頼房(1603年 - 1661年)(母:お万)   
                                                                                       
     ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 
正室・於江与の方━┳ 千姫(天樹院):豊臣秀頼室、のちに本多忠刻室
母は信長の妹お市 ┣ 徳川家光 三代将軍 福・春日局に養育━━━━━┓幼名:竹千代 
         ┣ 徳川忠長                         
側室・お静の方  ┣ 徳川和子(東福門院):後水尾天皇中宮           

         ┣ 珠姫  (天徳院) :前田利常室             
         ┣ 勝姫  (天崇院) :松平忠直室             
         ┣ 初姫  (興安院) :京極忠高室       

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