最澄767-822 と 空海774-835
奈良時代に有名な僧侶に玄肪と道鏡がいる。いづれも看病僧として宮廷に現れ、権力を握っていた女性と結びつくことによって勢力を強めていった。 道鏡は孝謙天皇の寵愛を受けたことで有名である。 最初は孝謙天皇が病で倒れたときに、その看病をし、後には、性的能力と、呪術的能力を統合させて力を大きくしていった。 因みに道鏡が巨根であったという話は有名である。
そいうった形の宗教を嫌った桓武天皇は平安遷都を実行する。 そして仏教自身も革新を迫られることになるのである。そして後に最澄と空海が登場するのである。 最澄は比叡山を本拠地とし、天台宗を、 また空海は東寺を本拠地として真言宗の開祖となる。 お互いに805年くらいに唐にわたっている。
彼らの仏教に共通していえることは、今までの貴族の為の仏教から庶民の為の仏教にしようと考えたことである。 これは奈良時代の行基の伝統を受け継いでいる。
いまでも二人の書籍はのこっており、最澄は理論派で読んでいてもわかりやすい。これに対して空海は体験派である。 理論的ではあるがより難解である。 空海は天才肌であった。 唐の滞在は2年であったが、サンスクリット語と密教を習得して帰ってきた。 宮廷でもてはやされたこの密教に、最澄は恐れることになる。 また、最澄に好意的であった桓武天皇が死んでしまうことにより、ますます最澄の立場は窮地におちいる。 また密教の難解さを知っていた最澄は、空海の登場に愕然とするのであった。
密教の必要性を悟った最澄は、自分よりも年下の空海の教えを乞うようになるが、自らではなく、弟子の泰範を空海の下に送り込んでである。 ところが泰範は空海のとりこになり、最澄から離れていく。 呼び戻そうとするが後の祭りである。 こうして、空海と最澄には亀裂が生じ、最澄にとってはみじめな結果となる。
その後空海は山岳修行を行い、磨きをかけていく。 ところが日本仏教の伝統を引き継いで行ったのは最澄の開いた比叡山であった。 空海はあまりにも天才すぎたのである。 鎌倉時代に現れた道元、日蓮、親鸞はみな比叡山であった。 彼らは天台宗の伝統を受け継ぎながらそれぞれに新たな宗教を開いていく。 これに対して空海が伝えようとした真言密教は、空海をもってしか受け継がれなかったようである。