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藤原道長妻・明子幼き頃

2010年06月15日 | 平安時代

 968年、源高明は55歳のときに左大臣となり翌年、娘・保子の婿で次期の有力皇位継承者の為平親王を推していた。 というのも第一皇子の憲平親王(後の冷泉天皇)が東宮であったが、精神的に異常があり皇位についても長い在位は期待できなかったためである。 しかし、謀反を起こすという源満仲の密告により、太宰権帥に左遷された。これを安和の変という。そして弟の守平親王が冷泉の後をついで円融天皇となるのである。  これは、師輔の死後、高明と確執を深めていた藤原氏の陰謀とされている。この処分を受けて高明は出家し、大宰府へ赴く。971年、許されて帰京するが、政界に復帰することは無く982年、69歳で没したのである。晩年の子・明子はこのとき16歳であった。 そして後に詮子が両親を失い呆然とする明子の面倒をみてきたのである。 詮子にとっても円融天皇との間にもうけたのは一条天皇ただひとりで、娘がいなかっただけに養育に喜びを見出そうとしていたのかもしれない。明子はこのとき24歳、詮子は26歳であるから僅かに2歳しか違わないのであるが・・・。

 道長が東三条邸で明子を一目見て以来、その憂いに満ちた幼き容貌の姫に釘付けである。やっとの思いで侍従の許しを得た道長は約束通りに東三条邸に向かう。約束とは声を聞くだけ・・・であったが道長は、あどけない声には似合わない豊満に成熟した肢体に愛の証を押した。もはや姫は薄明かりに浮き出るまろやかな隆起をかくそうとはしていない。ただ涙を浮かべて無抵抗なだけである。 道長はそのとき一生この姫を逃してはならないと思ったのであるが、一方ではかわいい倫子への裏切りの念はかくせない。もちろん当時は一夫多妻制であるが妻は嫉妬を抱き、苦しみ生涯をすごすことに変わりはない。土御門邸に帰るには足が重く、道長は住み慣れた東三条邸西の対に泊まることにした。 寝付けない道長は詮子に対しても申し訳ない気持ちでいっぱいであったが詮子がいる宮中の梅壺に向かった。 意外なことに道長と明子のことを既に知っている詮子は、道長が北の方をもうけてから、この明子を妻にと考えていたようで、道長はほっとする。

 土御門邸では道長の怪しい行動は穆子の耳に既にはいっていた。穆子は道長を非難し、愛娘倫子が身篭っているにもかかわらず裏切られたことを雅信に話すと、結婚前には猛反対であった雅信が今度は婿をかばう立場にいるのである。両親のやりとりを聞いてしまった倫子は以外と冷静である。後に夫から明子とのことを告白されるのであるが、なにしろ夫は正直である。全てを許したわけではないがこの一幕が明けた年の暮れに倫子は出産を迎え、女児を産んだ。土御門邸を受け継ぐ女の子に雅信は歓喜し穆子は呆れ顔である。

道長姉・詮子が明子と暮らしていた東三条殿跡

 

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