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貴族社会における天皇

2011年07月02日 | 平安時代

 長岡・平安遷都の前後で律令国家は中国国制を背景として大きく影響を受けるが、907年の唐の滅亡によって影響は次第に小さくなり、貴族の政治意識は先例重視の伝統主義となっていく。 律令制の初期においては天皇と畿内豪族を結びつけたのは神話伝承や氏族系譜であったが、氏族制が衰退した平安時代には君臣関係などの官人社会の統合は中国起源の礼によって確認され、貴族たちは立ち振る舞いや作法を故実として重視し、貴族としての共通規範とみなすようになる。 神祇においては畿内政権の構造に深くかかわっていた古い神事の多くは衰退し、儒教の影響で皇室の宗廟とみなされるようになった伊勢神宮や藤原氏の春日大社をはじめとする平安貴族の氏神、平安京と山城国の守護神である賀茂社などへの祭礼が重視されるようになる。 神祇は畿内政権を正当化するものではなく、天皇と平安貴族社会を守護するものに変化した。 また、仏教も奈良時代以来の鎮護国家に加えて、天皇の葬儀や追善供養、怨霊の調伏において独自の役割をはたしていく。 天皇と貴族たちはこれらの神事を年中行事として繰り返し、やがてそれを滞りなく遂行すること自体を目的とし、全国支配の根拠とまでにした。 

 このような機能分担は平安初期に強化された天皇権力についてもおこる。 天皇が幼少のとき、その政務を代行する摂政と成人の天皇が行なう政務のすべてに目を通す関白の地位、9世紀後半に、天皇の外戚として相次いで太政大臣となった藤原良房・基経親子の政治的権能をしめすために半ば臨時のものとして生まれたが、この摂政・関白は10世紀後半には常置されるようになり、天皇の行政機能の一部を最上級の貴族が分担する体制が確立する。

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