戦艦大和が最強とされた理由はその主砲にある。10年以上の歳月をかけて世界最大の46cm砲を完成された。そして新型戦艦大和型の主砲として採用され三連装砲塔が前部に2門、後部に1門配置された。旋回部の重量は2500トンと駆逐艦一隻分に相当し、砲弾は42km先の標的を打ち抜くことができる。しかしこの46cm砲にも弱点があったという。大和は最強といえども無限に発射できるわけではない。砲身そのものに寿命がある。大和の砲弾重量は1.5トン、発射のために必要な火薬は330kgとなる。それだけの火薬が爆発すれば砲身に大きな3300気圧という圧力がかかり、やがて砲身内部が損傷して寿命を迎える。これを砲身寿命といい、大和の場合他の戦艦よりも寿命は短い。40cm砲の長門の場合250発、伊勢が280発に対して大和は200発だったという。火薬の量を調整することで砲弾発射数の調整は可能であるが、艦隊の決戦が数回発生するという大前提に対応できていないというのが大和の実力であった。つまり大和は砲身寿命で戦闘不能になる可能性は高かったのである。しかも砲撃戦闘により艦艇への被害はつきものであり、頑丈な甲板にくらべて砲身は弱く、ここで重要なのが修理用予備砲塔ということになる。大和に用意された予備砲塔は9門で、それらは空母に改造された信濃の砲身を再利用されたものであり、あらかじめ用意されたものは1門もなかったのである。大和型予備砲身が造られなかったのは、大和の完成が開戦直前であったことと、海戦の主役が空母であったことにある。つまり日本海軍は機動部隊には力を入れたが水上部隊は後回しにされた。また大和の砲塔は高価であり、小型船舶1隻分に相当する。つまり戦艦は冷遇され、大艦巨砲主義から航空機による機動部隊が台頭したことで、大和に真の実力は無かったのである。
全長263m1941年に誕生した世界に誇る巨艦大和は、軽巡・矢矧と駆逐艦8隻を引き連れて徳山沖を出撃し沖縄の戦場に向かったのは4月6日午後3時である。それから24時間後米空母機群345機に空襲されて鹿児島坊津岬沖で沈没した。大和海上特攻を推したのは連合艦隊司令部の神重徳参謀、航空特攻だけに頼って艦船部隊が何もしないわけにはいかないというわけである。特攻を相談された第二艦隊司令長官・伊藤整一中将は、沖縄に辿り着くまでに攻撃されて作戦は失敗するとして応じなかった。連合艦隊司令部は「1億総特攻のさきがけとなってもらいたい」との申し出に、伊藤中将は承諾したという。つまり天皇陛下の御為に死ぬことを承諾したのである。実はこの特攻には異論があった。来るべき本土決戦で来襲する米艦隊を迎撃するために使うべきというものである。しかし伊藤中将の「我々は死に場所を与えられたのだ」 の一言に皆は納得したという。大和隊は出撃直後から米潜水艦の追尾を受けて撃沈され、戦死者3000人、矢矧と駆逐艦の犠牲者を含めると4000人に及ぶ。さて、こうした話には何か気になりながらも当時はそうだったのかな、として納得する傾向があるのであるが、当時であったとしても、「我々は死に場所を与えられたのだ」 という一言に皆は納得するはずはない、と疑問を持つことが重要ではないだろうか。私には納得できないし3000人もの乗組員が納得したというのは極めて疑わしい。皆が納得した・・・ということで特攻の正当性を主張しようとしているだけであって、それは真実ではない。航空特攻は基本的に志願だとしているが、これは全くの偽りである。半強制的に志願書類に署名を強要されたという話も多く残っている。当時は庶民であっても本音を語れば憲兵にしょっぴかれた・・・という話で象徴されるように、自由な発言は制圧されていた時代背景を考慮に入れて、「我々は死に場所を与えられたのだという伊藤中将の一言に皆は納得した」という文章には翻訳が必要である。
大和ミュージアムにある1/10スケール大和
46cm九一式徹甲弾 重量1.5トン、火薬330kg