室町時代の播磨の豪族・赤松祐尚
・1441年に時の将軍・足利義教を暗殺するという嘉吉の乱を起こします。
・赤松祐尚は足利義教の近習として仕えていたという説もあるが、嘉吉の乱では満祐に従い
・室町幕府軍が赤松満祐の追討のために播磨国に細川氏、山名氏をたてて赴いたために敗北
・同年降伏を拒んだ満祐は龍野にて自害
・その後、満祐の弟・赤松祐尚は赦免されるが、領地奪回のために再び挙兵
・ここ明石の大蔵谷に陣を張り、居城を三木城(赤松祐尚の没後に三木城主となる)に移す
・陣跡を寺院にしたのが大蔵院です。
・赤松祐尚の子・則尚は満祐の自害後播磨の地を逃れて各地に潜伏し、御家再興のために赤松祐則らとともに挙兵する
・が、播磨守護であった山名宗全によって破られ31歳で自害している。
・加西市の北条町は当時小谷城主であった赤松祐尚が開いた市場町で丹波、丹後への宿場町として栄えた。
・現在は、当時の赤松氏大蔵谷城跡であった大蔵院には、赤松祐尚夫妻の墓が残っています。
村上天皇-具平親王-源師房1008-1077
┣顕房1037-1094-季房┳忠房-憲房-憲政-豪運-昌運-昌明-行明-行盛-行高-名和長年?-1336
┃ ┗季則--赤松則景-家範-重則┓
藤原尊子1003-1087(藤原道長娘) ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┗赤松則村(円心)1277-1350⇔後醍醐天皇1288-1339(鎌倉倒幕の功立てるが冷遇)
┣赤松範資 ?-1351円心とともに足利尊氏派
┣赤松貞範1306-1374(姫路城基礎築く)
┣赤松則祐1314-1372
┃ ┣赤松義則1358-1427(弥勒寺本堂再建)
┃ ┗有馬義祐-1421 ┣義雅-時勝
┃ (摂津有馬氏祖) ┣赤松祐尚(英賀城主 足利義教近習)
┃ ┃ ┗則尚1425-1455
┃ ┗赤松満祐1381-1441⇔義教1394-1441(嘉吉の乱)
┃ ┣赤松教康1423-1441 幕府軍(山名宗全)追討を受け自殺
┃ ┗赤松時勝
┃ 置塩城を築城 ← ┗赤松政則1455-1496(室:細川勝元娘 赤松氏を再興)
┃ ┗娘 ┗赤松村秀1480-1540(庶流)
┗赤松氏範1330-1386 ┣ ┗赤松政秀?-1570┳赤松政広1562-1600竹田城主 竜野城主
┣氏春 置塩城主 赤松義村?-1521 ┏娘┛
┣家則 ┣赤松晴政 1513-1565
┣祐春 ┃ ┗赤松義祐1537-1576 信長に通じる
┣季則 ┃ ┗赤松則房?-1598 秀吉に仕える
┗乙若丸 ┗政元1500-上月城主 ┗則英?-1600 関ヶ原では西軍・自害(赤松氏嫡流は途絶える)
陽松禅寺
小谷城南山麓に赤松祐尚が菩提寺として建立したもので、山門には三つ巴と丸に二引両の紋がすえられています。陽松寺は祐尚の名をとって「祐尚山(ゆうしょうざん)」と山号を定め、小谷城の東側に朝夕陽光を受けて立っていた老松より「陽松寺」と名付けられたと伝えられています。
嘉吉の乱後、小谷城は落城しましたが、応仁の乱によって赤松氏が再興されると、赤松祐尚が城主となりました。祐尚は、敬神、菩提心の厚い武将で寺社の修築、耕地の整理、市場の開設など領内の治世に尽力し、領民から慕われました。しかし、天文11(1542)年播磨に侵攻してきた尼子氏を迎え撃ちましたが敗れて討死し、後にこの地に追善墓として祀られています。この墓の近くには小谷城の戦いで落命した武士たちを供養した五輪塔、一石五輪塔が林立しており、その一角に五輪墓塔の残欠が集められているなど小谷城の戦いが激しかったことを今に伝えています。(説明板より)