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天保の改革を行った水野忠邦

2010年03月31日 | 池波正太郎 江戸時代

 間部詮勝(1804-1884)は越前鯖江藩主・間部詮熙の五男として江戸の鯖江藩邸で生まれ、11代将軍・徳川家斉の側近として寺社奉行・大坂城代・京都所司代を歴任して老中となった。 天保の改革を行っていた水野忠邦(1794-1851)と合わず引退するが,井伊直弼(1815-60)により再度老中に登用され,将軍後継問題・安政五カ国条約締結などにあたる一方、一橋派や尊王攘夷派を弾圧する安政の大獄に奔走した時には井伊の赤鬼に対して、間部の青鬼といわれた。 安政5(1858)年9月,幕府が調印した日米修好通商条約に激怒した孝明天皇(1831-1866)を説得するため上京し,寺町通二条下るにあった妙満寺に滞在した。 この石標は間部詮勝が滞在した妙満寺の跡を示すものである。  安政の大獄では志士の処分をめぐって厳罰主義の大老井伊直弼と意見が食い違い、老中を解職され1862年には藩主の座を詮実に譲っています。 井伊大老が桜田門外の変で倒れると幕府は一転して安政の大獄を断行した者への処罰を進め、詮勝も処分の対象となった。 1万石の領地を召し上げられる処分となり謹慎隠居後は政界を引退して、書画や茶道に日々明け暮れた。

 さて、この間部詮勝とはどうも合わなかった水野忠邦1794-1851は唐津藩第3代藩主・水野忠光の次男として生まれ、1807年に第11代将軍徳川家斉と謁見し従五位下に叙位した。 父・忠光の隠居により家督を相続し奏者番となるが、唐津藩が長崎警備の任務を負うことから昇格に障害が生じると知るや、家臣・二本松義廉の諫言を押しきって25万石の唐津から15万石の浜松藩への転封を自ら実現させた。 この国替の時に水野家家老・二本松義廉は諌死をしている。 また、唐津藩から一部天領に召し上げられた地域のことで、国替工作の賄賂疑惑が持ち上がり地元民から後年まで恨まれることとなった。 その後将軍・家斉のもとで頭角を現すと大坂城代、京都所司代を経て越前守に昇叙し、1828年には老中となって将軍世子・徳川家慶の補佐役を務めた。 水野忠成が病没すると本丸老中に任ぜられ、1839年には老中首座となっている。 

 将軍・家斉在世中は水野忠篤、林忠英、美濃部茂育などの家斉側近が権力を握っており、忠邦は改革を行うことができなかったが、1837年に徳川家慶が第12代将軍に就任し徳川家斉が死去すると、家斉旧側近は罷免されて、遠山景元などを登用して天保の改革に着手し、多くの法令を定めた。 農村復興のための人返し令、風俗粛正、株仲間解散などの政策を実施する一方で、低質な貨幣を濫造して幕府財政の欠損を補う政策をとった。 このため物価引下げは叶わず、腹心・遠山景元の反発や腹心・鳥居耀蔵の反対派老中・土井利位への寝返りなどがあり、老中を罷免されて失脚した。

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