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大河清盛・保元の乱

2012年05月31日 | 平家物語

 保元の乱、それは時の帝と上皇の兄弟の戦いである。 二人はそれぞれ陣を構えます。崇徳上皇方藤原頼長 源為義は白河北殿に、後白河天皇方藤原忠通 源義朝は高松殿に、そして平清盛は高松殿側につきます。 平清盛は源義朝とともに500騎を従えて賀茂川向うの白河北殿の北門、南門を攻めます。清盛にとっては叔父の忠正が崇徳側についたことで、身内に刀を向けるという大きな試練となります。忠正は、清盛に背こうとした頼盛をかばって身代わりになったとする。1156年7月のことである。源義朝はこの戦いに命を賭けるとして昇殿を許され、美福門院・得子は守仁親王とともに洛外に非難していたという。白河北殿側では源為朝により夜討ちが申し出られたが、関白・藤原頼長によって狼藉であるとして却下された。孫子の利にもとづき大和の軍勢をまとう、夜討ちは卑怯なりというものであった。 一方、高松殿方信西はというと、すぐに打って出る作戦をとった。平清盛にとっては源為朝の武勇をいかに崩すかが要であった。源氏同士の戦いでは平家の武勇が発揮されないとして、清盛自らも戦いにはせ参じた。後白河天皇が期待する武士による新しき世、がささえであったことも確かである。かくして清盛・義朝による夜討ちによって戦は始まるのであるが、源義朝は義賢と賀茂川において初戦を繰り広げて乱の幕は開けるのである。白河南門では鎮西八郎為朝と伊藤忠清・忠直が、北門では清盛と忠正が戦うこととなる。最初は白河北殿方が、鎮西八郎為朝の功によって優勢であったが、源義朝の火打ちによって形勢は一気に逆転し、その日のうちに高松殿方の圧勝により乱は終わるのである。

高松神明神社はかつての高松殿址

 

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