後小松天皇皇子・宗純王1394-1481が眠るところが酬恩庵といって宇治の南・京田辺にあります。 しばしば紅葉の名所として紹介されるのですが、是非一度行ってみたいと思っていた理由は宗純王の廟があるからです。 宗純王はあまり馴染みはありませんが一休さんといえば誰もが知る人です。 足利義満が頂点の地位に就き、天皇にとって代わろうとした時、あっけなく亡くなったが、この時朝廷側が義満に「上皇」を追贈しようとした。 異例の出来事に幕府側の4代将軍義持と斯波義将は断った。 義満が尊号宣下をうける理由として考えられることは、その資格つまり、義満が後小松天皇の父であった、ということにある。 後小松の妃・三条厳子と義満はかつて密通しており後小松がそのときの子であるということである。 後小松天皇の皇子・称光天皇には子がなく28歳の若さで亡くなった。そのとき遠縁の伏見宮彦仁親王を即位させて後花園天皇とした。 称光天皇には異母兄・宗純親王がいたにもかかわらずである。義満は宮中を我が物顔で歩き回っていたから、この宗純親王も義満の子であるとすれば、それを次期天皇に担ぎ上げるのに躊躇った朝廷は遠縁から選んだ可能性がある。
京田辺市
・徳川家康の伊賀越えゆかり 堺--枚方--甘南備山--木津川(草内の渡し?)--神南備神社--三河 @信長暗殺直後
・甘南備山新春登山
・穴山梅雪墓 伊賀越えに同道 武田から離反 家康は信頼していなかった
・玉露の栽培 渋ければ失格
・古墳が多い--126基 4世紀後半
酬恩庵
・敷地は甲子園球場
・和尚は竹の先に髑髏をつけて歩いた@京都
・善哉--よきかなよきかな
一休和尚の墓