平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

【大航海時代-2】 実は日本の武士も大航海時代の世界の覇権を左右していた

2020年12月02日 | 世界史-欧米・ロシア

【大航海時代の日本は武器輸入】    1575/6月武田勝頼軍と織田信長、徳川家康連合軍がぶつかった長篠の戦では多くの鉄砲が導入された。信長軍の鉄砲弾は鉛、海外(成分分析の結果、候補のひとつがタイ・カンチャナブリー鉱山)からの輸入鉛であった。アジア最大の鉛の鉱脈は埋蔵量300万トンであるという。では信長の鉛入手方法はというと、大航海時代の交易船である。交易船の所有者はポルトガル、その沈没船から数多くの武器弾薬が発見されている。ポルトガルは優れた航海技術で大航海時代の先駆者となっていた。そしてキリスト教の布教活動が大航海を支えていたのである。バチカンには当時のイエズス会宣教師の戦国日本の記録が残っている。宣教師のリーダー・フランシスコ・カブラル1529-1609は、1572年に織田信長に謁見、布教活動の後押しを嘆願している。その代わりに武器兵器を提供していたのである。つまり全世界をキリスト教の国にするための活動であり、日本に於ける内乱をけしかけて国力を弱らせる一石二鳥の手法でもあった。

これらポルトガルとの交易は一般庶民にも影響を与え、パン、ボタン、たばこ、てんぷらなどにみられる。そして織田信長がなくなる4か月前に天正遣欧少年使節団(イエズス会神学校の生徒4人)が長崎からマカオ、マラッカリスボンを経由してローマに向かって出発した。その目的はローマ国王に日本での布教活動の援助を願う事と、広めた見聞を日本に紹介することにあった。リスボンに到着したのは2年半後、1584年11月にはスペインの国王フェリペ2世(ポルトガルを植民地化して世界を制覇)に謁見した。これはスペインが英にアマルダの海戦で敗れる4年前のことである。ローマでは教皇の戴冠式に出席し、市民権を与えられるほどの歓迎ぶり。かくして彼らは西洋の技術を身に着けて1586年日本への帰路につき、1590年に帰国した。ところが当時の日本ではバテレン追放令(布教は禁止するが信仰は自由)が出されていた。長崎がイエズス会領になり、日本人が奴隷として海外に売られていたことが原因である。

1596年スペイン船サンフェリペ号が土佐に漂着、この時スペインがキリスト教によって日本を征服しようとしているという噂が流れ、秀吉はキリスト教に対する弾圧を強めたという。イエズス会は仏教徒を異端として仏像破壊なども行っていた。天正遣欧少年使節団4人はイエズス会と日本との狭間で苦しみ、リーダーの伊東マンショは追放されたのち1612年に長崎で病死。中浦ジュリアンは潜伏しながら布教活動を行っていたが、1632年に小倉で捕縛され、拷問を受けたのちに長崎で吊るし刑にあって殉教死した。

 

【開国主義者・徳川家康が見ていた16世紀の世界】

1529年 スペインとポルトガルによる世界分割:トルデシリャス条約

    モルッカ諸島の東側144度30分の東はスペイン、西はポルトガル 日本はその上にある

    日本の石見銀山は目をつけられた:銀は国際通貨 世界の1/3を生産

1543年 鉄砲伝来@種子島 By ポルトガル人

    宣教師によるキリスト教の布教が始まる:イエズス会 カトリック 教皇の精鋭 侵略の手助けも実施

16世紀後半 カトリックを脅かすプロテスタントのオランダ、イギリスが台頭

    100年戦争:1337-1453

    薔薇戦争:1455-1485

    30年戦争:1618-1648

1568年 オランダがスペインに対して独立戦争

1588年 スペインの無敵艦隊をイギリスが撃破:アマルダ海戦

1592年 文禄・慶長の役1592-1598 : 明の侵略で国交断絶

1598年 豊臣秀吉死去 徳川家康が実権を握る

1599年 南蛮貿易(島津、有馬、鍋島、大村、松浦が独占)に介入

    家康はスペイン領マニラに使者派遣(浦賀-マニラ-メキシコ貿易ルート開拓が目的)    

    家康は造船技術や職人の派遣をスペイン総督に依頼

    英航海士ウイリアム・アダムス@蘭・西洋帆船リーフデ号が九州豊後臼杵領内・黒島に不時着

    世界一周探索の途上である

    アダムスは家康に謁見:目的を聴取 --- 宗教抜きの貿易活性化で目的一致

1600年 関ケ原で家康勝利 ; 毛利氏から石見銀山を奪取--外交推進

    タイ、カンボジア等朱印船貿易開始

1602年 蘭は東インド会社設立@拠点はタイ南部パタニ → ポルトガルに代わるアジア貿易への影響力拡大

1604年 家康は江戸幕府を開く--東南アジアと朱印船貿易開始 : 経済力強化     

    ポルトガルは日本との交易実績50年 スペイン王はポルトガル王を兼ねている

    イエズス会によるキリスト教布教 By 物資供給

1605年 英航海士ウイリアム・アダムス(三浦按針1564-1620)は航海船サン・ブエナ・ヴェントゥーラ号35mを建造@静岡伊東市

    ウイリアム・アダムスは三浦に領地を与えられ旗本に昇格

    イエズス会に独占されていた生糸などの輸入を自由化したいと考えた家康

    1602年 東インド会社を設立していた蘭との交渉に、仲介役としてアダムスを起用

1609年 蘭使節団を駿府城に招くとイエズス会が妨害(蘭は海賊だと・・・)。家康はこれを却下 

    蘭船に朱印状(日本のどこでも寄港可能)を与える

    蘭は平戸に蘭商館設立 

1610年 サン・ブエナ・ヴェントゥーラ号をメキシコに向けて発進、スペイン国王に親書

1611年 スペイン王国の大使・ビスカイノが家康に謁見@駿府城 交易+キリスト教+江戸湾測量

1612年 西国大名・有馬晴信の賄賂事件(対家康側近岡本大八) キリシタン大名による領地買収 By イエズス会

    キリシタン禁教令 BY 家康 --カトリックの排除

1613年 英商館@平戸

1616年 家康死去@75才

    秀忠の二港制限令(長崎、平戸;幕府直轄地) → 貿易の幕府独占  

1620年 ウイリアム・アダムスは二港制限令撤回を要求するがかなわず死去 @平戸

1622年 秀忠の時代:キリスト教宣教師、信徒55名を処刑@長崎 : 元和の大殉教

1641年 鎖国体制完成  貿易は長崎出島オランダ商館のみ

    

 

【日本でのキリシタン勢力の拡大は信長の戦略】   宣教師は日本で極秘の活動を行い、将軍の暗殺、毛利軍の動き、秀吉の窮地など情報網を駆使して日本を把握していたのである。情報源は日本キリシタンである。そして各地の戦国武将、毛利輝元、大友宗麟、徳川家康、大村純忠、武田勝頼、そして織田信長である。かくして織田信長は強大な武器を手に入れて天下布武を掲げるが、大坂石山本願寺との戦いを10年にも及んで続けている。顕如率いる本願寺勢力は信長を凌ぐものであった。この時に信長を救ったのも宣教師であり、石山本願寺(仏教)はキリスト教布教の妨げになっていると記録している。宣教師は信長を利用して仏教撲滅を狙ったのである。スペインの聖イグナシオ洞窟教会には、キリスト教の信仰に人生を捧げた人々の絵が描かれている。フランス国王、スペイン総督、日本右近殿(高山右近)である。高山右近は石山本願寺に近い摂津国の領主、1578年信長は右近説得(当時キリシタンでありながら信長に敵対)のために高槻城(キリシタンの骨32体がロザリオとともに発掘されている)に宣教師を派遣した。かくして信長は本願寺を打ち破った。直後に建造した安土城の横にはキリシタンを養成する神学校を建てている。

【ヒンドゥー教のインドの於けるキリスト教】   インドの西ゴアでは人口の3割がキリスト教だという。香辛料を求めたポルトガルの船は、武力でヒンドゥー教を制圧してキリスト教をもたらした。以降400年ゴアは征服された。日本を同じようにキリスト教の国にしようとしたのは布教長・フランシスコ・カブラル。まずは信長の改宗である。この狙いを信長は分かっていながら武器のためにキリシタンと手を組んだのである。ここで1580年に布教活動を加速させる事態がヨーロッパで起こった。征服王フェリペ2世がポルトガルを併合した。そのスペインが世界の植民地をも手に入れた。世界征服は救済と進歩がもたらされる正当な戦争だと考えられていた。アジア・コンキスタである。

【宣教師による日本征服は失敗】   信長はこれを案じ、武器の開発をすすめていたことが、国友火縄銃の分析からわかるという。海外産に比べて銃身の強度・安定度が優れた(和鉄鍛錬技術)銃を開発している。日本刀の技術を鉄砲に応用したといえる。この進化した鉄砲の大量生産を推進したのが信長であり、国友や堺での鉄砲鍛冶屋職人を数多く生んだ。鉄砲製造に関する2万点もの古文書が堺には残っている。銃身、銃床、火蓋など職人は分業制を敷き、30万丁もの生産を行ったという。これらを見た宣教師は日本の征服を諦めたという。スペインにはアジア征服計画があり、特に中国の征服によりスペインの発展を狙っていた。この狙いの為に日本を利用しようとした。ここで宣教師(グネッキ・オルガンティーノ1533-1609 など)には誤算が生じた。信長が自らを神と宣言したからである。これは宣教師には許すことはできないことであった。そこで宣教師は長崎の貿易港全体を支配下において、要塞をつくっている。当時最大の武器・大砲を大友宗麟におくり、周辺の大名をキリシタンに改宗(1580年頃には10万人に拡大)させ、日本征服計画の本拠地としていた。1582年の本能寺の変によって宣教師と信長の関係は絶たれた。そして 「信長の死はキリシタンの増加につながった」という文書がスペイン王立博物館で見つかっている。1582年の山崎の戦いでは秀吉は光秀を討ち取ったが、ここにも宣教師の影が見える。高山右近は秀吉側に与していたが、これは宣教師のはからいであった。かくして秀吉軍の先方右近の働きで秀吉は勝利して、益々キリシタンが増えて行ったのである。秀吉の側近には、黒田官兵衛、高山右近、蒲生氏郷、黒田長政、小西行長といったキリシタンが名を連ねている。

【宣教師の野望は中国へのキリスト教布教】   天下統一した後の秀吉の目標は明の制圧であり、これを知った宣教師ガスパル・コエリョ1530-1590は、日本へ軍船を調達するなどの加勢を行う。かくして1592-1598に秀吉は朝鮮出兵を行った。推定74万人が動員される大戦争となり、最前線で戦うキリシタン大名の犠牲が急増した。これは中国制圧とともにキリシタン大名の消耗を狙っていた。一方バテレン追放令がだされて、キリシタン大名は領地を没収、国外追放となった。また秀吉はフィリピンに密偵を送り、スペインに送られる大量の金を狙うことで、朝鮮出兵の戦費を賄おうとしていた。ところが1598年にスペインのフェリペ2世が急死、その直後に秀吉が死亡した。これによってスペイン及び日本の明支配は途絶えた。この頃新興の商業国家として世界各地に進出していたオランダは、嵐の中難破して1600年4月に日本にたどり着いたことがあった。この船には最新式の銃500丁、弾薬5000発などが積まれ、船員ウイリアム・アダムス、ヤン・ヨースティンとのやり取り(蘭-スペイン戦争などヨーロッパの覇権争いなど)が記録に残っている。

【スペインよりも蘭との交易を優先した徳川家康】   当時の蘭はスペインの圧力に屈しながらも、戦争を繰り返していた(80年戦争:1568-1648)。スペインは多くの植民地政策で膨大な富を得ていたが蘭はそうではない。そこで貿易による軍資金調達を考えていた。鍵をにぎるのが戦国日本である。蘭は(平戸オランダ商館書に貿易の詳細が記録されている)多くの蘭商人を日本に派遣して武器、陣羽織用の生地を売るなどを主目的とし、キリスト教布教・領土拡大などは拘らなかった。家康はこの提案を受けて彼らを家臣としたことで、大量の武器弾薬を得て、関ケ原の戦いに挑んでいる。一方秀吉から莫大な遺産を受け継いでいた秀頼には多くの家臣が参上し、徳川-豊臣の勢力が拮抗していた。同じころ蘭はオランダ東インド会社という世界初の株式会社を設立し1602年、条約締結、貨幣鋳造、要塞建設などの権利までも持っていたという。これによって蘭はスペインに打ち勝とうとしたが、設立したのはユダヤ系大富豪コーエン家である。このとき来日した蘭商館長・ジャック・スペックス1585-1652は、日本の銀を狙った。この銀(国際通貨)で東洋の香辛料、絹織物、陶磁器を買い付けるのである。当時世界の銀を独占していたのはスペインで、ボリビア・ポトシ銀山などの巨大な銀山を征し、世界の80%を握っていただけに、世界的銀の産出国日本からの銀が欲しかった。秘密裏に調査したのは佐渡島の銀、5万人の労働者で開発を進めたのが徳川家康であった。25mの鉱脈から採れる銀は約670kgだという。佐渡全体での埋蔵量は2300トン以上であった。そして日本全国30カ所以上に及ぶ鉱脈から採掘することで、1600-1620までで年間100トンを超える生産量、これは世界の生産量の1/3である。スペックスが銀と交換に提案したのは、鏡、ガラス、毛織物である。

【大航海時代に日本の武士は世界の覇権を変えていた】    この蘭の動きに焦ったスペインはロドリゴ・ビベロ総督1564-1636を日本に派遣し鉱山技師派遣の代わりに、キリスト教布教、銀の50%獲得、蘭排除などを言ってきた。家康はスペインを退けて蘭との交易を採用した。そして1612年、家康は禁教令を発してバテレンの追放・キリシタンの弾圧を行ったのである。このときにキリシタンに手を差し伸べたのが秀頼であった。そしてこれらキリシタンを味方につけて10万の兵力とした。かくして1614-1615年にかけて始まったのが大阪の陣である。つまり豊臣-徳川の戦いであるとともにスペイン-オランダの戦いでもあった。この時に家康が蘭から手に入れたのが17世紀に蘭が開発したブロンズ製カノン大砲および蘭の砲手である。国友や堺の大砲が活躍したと思っていたが、蘭の大砲であったのかもしれない。かくして蘭は日本との取引を伸ばし、最盛期には年間94トンもの銀が流出したという。この時銀と共に日本から出て行ったのは性能高き火縄銃、槍、日本刀、日本人傭兵である。天下泰平では多くの武士は失業し、数千人という多くが世界に傭兵として散らばり、その豊富な戦争経験は重宝された。特に東アジアでの覇権を争っていた蘭-スペインは日本人傭兵の救援要請を蘭商館長・ジャック・スペックスと交渉し、これを家康は許可。インドネシア・モルッカ諸島はスペインの最重要拠点、銀に匹敵する香辛料を獲得して莫大な富を得ていたスペイン攻略のために、蘭は日本人傭兵を使ったという(モルッカ攻略作戦)。このようにしてスペイン領植民地を次々と攻略してオランダ領(75%を占めた)としていった陰には世界最強の日本の武士が居たのである。  

因みにこの時期に家康の許可をえて世界と交易していたのが朱印船で、生糸や絹織物を輸入していた。これを支えていたのが勿論オランダ、航海技術や造船方法も家康に伝授していた。この朱印船に乗って多くの日本人が東南アジアへ行っていた痕跡が、沈没船や遺跡にみられる。ベトナムにある日本人町ホイアンなどがそれである。

 

コメント    この記事についてブログを書く
« 【大航海時代-1】 大航海が... | トップ | 【大航海時代-3】 大航海が... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

世界史-欧米・ロシア」カテゴリの最新記事