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佐賀-5 呼子の烏賊

2022年04月28日 | 国内旅行散策

佐賀県の北部玄界灘までくれば、呼子の烏賊を食する。烏賊はヤリイカと呼ぶらしいが学術名は「剣先イカ」らしい。烏賊200gのセットで4400円。ゲソ部分はあとで天ぷらにして出してくれます。この近辺には名護屋城といって豊臣秀吉が晩年に朝鮮出兵の本拠地とした城や、数多くの大名の本陣跡が点在している。

【朝鮮出兵1592-1598について】

豊臣秀吉1537-1598は天下を統一すると、朝鮮出兵を二度まで行い失敗。馬鹿なことをしたもんだとか、晩年は頭がおかしかったのではないか?と言われていたし私もそう思っていた。しかし天下統一の為に抱えていた兵力何十万を何とかしなければならない。世界史を観れば、天下を治めた後平穏な時代に突入することは珍しく、さらなる侵略を重ねている。これが人間というものなのか。かくして秀吉も雇用安定策として戦争を仕掛けていったと見るべきであろう。

 

古代より呼子は朝鮮や大陸への海路上に位置し、海上交通の優れた要衝であったとされる。平安時代末には松浦党と呼ばれる土豪集団が九州北部の海域を中心に勢力を拡大し、呼子は松浦党石志氏の所領となっていた。その後、呼子の支配は松浦党の石志氏、佐志氏、呼子氏からなった。松浦党は14世紀中頃から15世紀前半まで史上を賑わせた前期倭冦の主要構成員であるとされている。呼子氏は通交において呼子殿と称し、この名を以って、殿ノ浦の地名の由来とする説がある。

呼子町の由来の、もう一つの説は、『佐用姫伝説』。537年、武将・大伴狭手彦は、朝廷の命により、任那・百済の救援のため朝鮮に行くよう命を受けた。狭手彦は松浦の地で時出会ったのが、その地の長者の娘・佐用姫である。佐用姫は、狭手彦との別れを惜しみ、彼の乗る軍船を追いかけ、加部島にある小高い丘まで追いかけていくが、船には追い付くこともできずに泣き崩れ、悲しみのあまり佐用姫は石になってしまった。これが佐用姫伝説の概要である。佐用姫が狭手彦との別れを惜しむとき、「狭手彦の名を呼び慕はれしに依り、今の呼子を呼名の浦と云うなり。」と言ったそうである。

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