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穴穂部間人皇女の婚約者は田目皇子

2010年04月30日 | 奈良・飛鳥時代

 次の話題はもちろん穴穂部間人皇女の相手・田目皇子である。田目皇子は用明帝が石寸名に産ませた皇子であるが、馬子の意図に不満を抱く点で二人は一致した。 田目皇子が次期大王になれるような身分でないことを厩戸皇子は明言すると豊御食炊屋姫は納得する。 そしてこの時豊御食炊屋姫は厩戸皇子の新年の相手に菟道貝鮹皇女を呼んだ。菟道貝鮹皇女は豊御食炊屋姫に似て色白であるが大柄で圧迫感があるため、なんだか厩戸皇子には抵抗がある。酒を一気に飲み干したせいか下品な会話に反省すると五行説でいう水の意味とか陰陽道について話をしているうちに、恵便の師、高句麗の慧慈に会えるのも近いのではないかと考えていた。

 そういえば高句麗との友好を目的として馬子は遣高句麗使を考えている。長は膳臣加多夫古の弟・膳臣虫置で、次長は秦河勝の親友の難波吉士木蓮子(なにわのきしいたび)で、もちろん恵便もいる。建設中の飛鳥寺は百済系の四天王寺形式ではなく、一塔三金堂形式という高句麗のものである。百済系の馬子が高句麗と友好を図るという国際性はたいしたものである。尚、高句麗かたの正式な使者が倭国にきたのは570年欽明天皇の頃である。

 しばらくして菟道貝鮹皇女と豊浦の屋形をでて竹田皇子を訪れたが、母豊御食炊屋姫と同じく菟道貝鮹皇女まで竹田皇子を甘やかしているのには驚いた。竹田皇子の妃・志紀郎女は刀自古郎女の姉であるから、今回の菟道貝鮹皇女との同伴はすぐに刀自古郎女に伝わるだろう。竹田皇子をみて長い命ではないだろうと厩戸皇子は思ったのである。憐れみを感じながら話をしていて厩戸皇子は竹田皇子から思わぬことを聞いた。まさかあの色香のない菟道貝鮹皇女にその気があることを仄めかすと、菟道貝鮹皇女は厩戸皇子のことを気に入っているというのだ。しかも、厩戸皇子にその気があるなら大賛成おいうから、竹田皇子を寵愛する豊御食炊屋姫の合意を得たも同然である。

 早速、豊御食炊屋姫が豊浦の屋形に馬子を呼び菟道貝鮹皇女との婚姻の話をしている。考えてみると厩戸皇子は不思議な力を持っている。ひとをひきつける魅力である。 豊御食炊屋姫は穴穂部間人皇女を嫌っていたので厩戸皇子にも好感は持っていなかった。そういう母に育てられた竹田皇子も元気なときは厩戸皇子の悪口ばかりいっていた。嫉妬からである。しかし厩戸皇子に会った二人は好感を持ち、いまは菟道貝鮹皇女との婚姻に賛成である。二人の身近にいる志紀郎女も驚くかわりようであったらしい。馬子は厩戸皇子を石川の屋形そういうと、お願いがあるという。今妊娠5ヶ月の刀自古郎女にはこの話を黙っていて欲しいという。親心であるが、菟道貝鮹皇女との婚姻を認めたのである。その日は久しぶりに刀自古郎女と焼き鳥、焼肉、鰹出汁の汁物の夕餉を取り寝室の奥の湯殿で背中を流してもらい寝室にはいった。

厩戸皇子の廟には穴穂部間人皇女の棺がある

 

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