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法然院

2007年12月29日 | 鎌倉・室町時代

法然院

 京都・哲学の道の北の端にワンちゃんもはいれるおしゃれなカフェテラス・Terrazzaがあります。ここでスパ昼食をとった後に訪れたのは裏隣にある法然院です。

 

 平安後期から新たな仏教が発展して一世を風靡する。 それは宇治平等院鳳凰堂で代表される阿弥陀を信仰して極楽浄土へ往生することを目的とした浄土教であった。 日本の浄土教の先駆者は名僧・空也であるが、当時の要求に応えたのは源信であった。 しかし、最も効果のある念仏方法が観想念仏はだれにでもできることではなく、一部の貴族に限られたことであり、これに問題提起をしたのが法然上人である。 法然は浄土宗の開祖であり、阿弥陀信仰以外の方法は一切排除した。 源信は往生要集のなかで浄土にうまれかわるのは日ごろ善根を積み、その上で念仏を唱えよといっているが、法然は善根を積めとはいっておらず、専ら念仏することを説いた。 阿弥陀如来の絶対的な力を信じて往生を遂げようという他力本願なものである。法然は比叡山で仏教学を極めた学者であるが、その教えはわかりやすく、当時の関白九条兼実が帰依したこともあって 流行した。 しかし仏教界からの反発はおおきく、理論的に法然を批判したのが華厳宗の明恵であった。 つまり浄土宗は仏教なのか? ということであるが、 この疑問は法然の弟子の親鸞によってますます拡大されていった。 法然の弟子で悪行をしても念仏を唱えれば許されるとした者がでてきたことにより、その責任をとらされて念仏停止を言い渡され、僧籍も剥奪され俗人の身分で土佐に流される。 また主だった弟子も各地へ配流された。 親鸞も藤井善信と改名させられたうえで、越後に流された。

法然(1133-1212)

 15歳で出家して比叡山で修行を積んだ法然が専修念仏を確信したのは43歳である。 主著「選択本願念仏集」をあらわしたのは66歳で親鸞が弟子入りしたのが69歳、流罪となったのは75歳のときだった。 この時親鸞は35歳である。 親鸞が出家したのは1181年、9歳のときで「愚管抄」を著した慈円のところに入門した。 この頃女性を抱いてはいけないという戒律を守っている僧は少なく、この戒律に疑問をもっていた。 後に親鸞の妻となる恵信尼という女性との悩みで京の六角堂という寺に参籠した。 このとき夢告を受けた親鸞はすぐに比叡山を離れて法然の下に弟子入りした。 親鸞は僧でありながら初めて公式に妻帯したのである。 親鸞が越後に流罪になったときに恵信尼との間に信蓮という男子がうまれた。 親鸞にはその前に善鸞という子もおり、三男三女の子福者であった。 「善人なおもて往生を遂ぐ、況や悪人をや」 は親鸞の言葉として有名であるが、 これは親鸞の晩年の弟子である唯円が「歎異抄」に記載している言葉である。 この親鸞の教えはたちまち広まったと誤解されているが、実は室町時代には忘れ去られた存在であり、 戦国時代の本願寺に布教家である蓮如がでてきたが、彼が親鸞を深く広く知らしめたのである。

 鎌倉時代の初め、専修念佛の元祖法然房源空上人は、鹿ヶ谷の草庵で弟子の安楽・住蓮とともに、念佛三昧の別行を修し、六時礼讃を唱えられた。1206年(建永元)12月、後鳥羽上皇の熊野臨幸の留守中に、院の女房松虫・鈴虫が安楽・住蓮を慕って出家し上皇の逆鱗に触れるという事件が生じ、法然上人は讃岐国へ流罪、安楽・住蓮は死罪となり、その後草庵は久しく荒廃することとなった。江戸時代初期の1680年(延宝8)、知恩院第三十八世萬無和尚は、元祖法然上人ゆかりの地に念佛道場を建立することを発願し、弟子の忍澂和尚によって、現在の伽藍の基礎が築かれた。  

 

白砂壇:山門を入ると、両側に白い盛り砂がある。水を表わす砂壇の間を通ることは、心身を清めて浄域に入ることを意味している。

 

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