【1918年11月11日、ドイツ兵士の革命@キール軍港 :兵士の集会--レーテ】 社会主義革命 ロシア10月革命の影響 兵士の暴動によりヴィルヘルム二世はオランダに亡命し、第一次世界大戦が終わるきっかけとなる
1919/1 スパルタスク団蜂起(指導者ローザ・ルクセンブルク1871-1919---逮捕撲殺)
レーニンとともに社会主義者
1919/2 ヴァイマル憲法制定
【1919年1月~6月、パリ講和会議 敗戦条約】 独は1320億マルクの賠償金:
米:ウイルソン民主党 14か条の平和原則---理想主義
英:ロイド・ジョージ
仏:クレマンソー 賠償金多額!! ---現実主義 → 独封じ:ベルサイユ条約
【アドルフ・ヒトラー1889-1945】
1889 オーストリア生まれ
父方の祖父は不明
父方の祖母は某ユダヤ人の家政婦として働いていた
某ユダヤ人の息子と関係を持って生まれたのが父・アロイス・ヒトラー1837-1903
1/4はユダヤ人であった可能性があると認識
当時ウイーンの1/3はユダヤ人
1895 バイエルンに移住 By父の事業
1900 オーストリアに戻った後実技課程に進む
1903 父病死
1906 ウイーン美術アカデミー不合格後は住所不定
1913 オーストリア兵役回避逃亡--強制送還
1914 第一次世界大戦に義勇兵志願
1918 ガスで一時失明、野戦病院収監
1919 兵士集会レーテに参加 政府軍の諜報機関員としてドイツ労働者党に潜入 By ドレクスラー1884-1942
1920 ドイツ労働者党に傾倒:ナショナリズム(ベルサイユ条約への反発)
1921 第一議長就任
1923 ミュンヘン一揆@ドイツはハイパーインフレ で失敗逮捕、ナチス解散 1年後仮釈放
→ 首謀者はルーデンドルフ1865-1937(WW1での潜水艦無制限攻撃の発案者)
伊ローマ進軍@1922 Byムッソリーニ
1925 ナチス復活
ナチ親衛隊創設:ホロコースト実行部隊
・指導者 ハインリッヒ・ヒムラー1900-1945/5/23
・大将 ラインハルト・ハイドリッヒ1904-1942
妻はリナ :死ぬまでナチスを愛す 反省なし
・秘密警察ゲシュタポ
・良き血を求める
・レーベンス・ボルン生命の泉
1926 我が闘争出版
1928 ナチ党議席確保
1929 金融恐慌@米 : ドイツ世界恐慌@1931 失業者600万人
国民は自由よりも生活の安定を望む:全体主義 ファシズム
1932 ドイツ国籍取得、大統領選で落選するが第一党に躍進
ヒンデンブルク大統領1847-1934(タンネンベルクの英雄)が指名した首相はパーペン1879-1969
1932-11月の選挙で躍進したのは共産党(労働者基盤)→これを嫌ったのが資本家
資本家バックのヒンデンブルクは躍進のためにヒトラーを首相にする道を選んだ
1933 1月 ヒトラー内閣:ヒンデンブルク大統領から首相指名、独裁開始
ダッハウ強制収容所創設@ミュンヘン
2月 国会議事堂放火事件 By 共産党員??
→ ドイツ共産党は非合法化:議会から追い出される
3月 全権委任法 : ドイツ共産党解散
1934 ヒンデンブルク大統領老衰死、 ヒトラーが大統領、首相を兼任する国家元首(ヒューラー)となる
1935 多額の公共投資により完全雇用達成
かぎ十字 : 古代インドアーリア人の紋章
ヨーロッパに派生したアーリア人がゲルマン民族
1936 ラインラント進駐、ベルリン五輪開催
1938 オーストリア併合、ズデーデン地方獲得
1939 チェコスロバキア占拠
ゲーリング1893-1946 :航空大臣 秘密警察ゲシュタポ創設者
ヒムラー 1900-1945 :親衛隊SS指導者 ゲシュタポリーダー ユダヤ人虐殺リーダー
ゲッベルス1897-1945 :宣伝大臣
ヘス 1894-1987 :親衛隊大将 無期懲役 自殺?
1920 国際連盟:機能しない
1921 ワシントン会議:軍備縮小 ---主力艦規制 米英日:553 → 日本封じ:ワシントン体制
1923 ルール工業地域占領(仏白)---独政府は単に金を刷るのみ → ハイパーインフレ
ヒトラーのミュンヘン一揆---失敗
1924 ドーズ案採用(賠償金支払いに米から借りる)
1925 ロカルノ条約---仏独同盟 By 仏外務大臣ブリアン1862-1932
ゲッペルス----ナチ党ベルリン地区指導者
1928 不戦条約(65か国)@パリ By 仏外務大臣ブリアン、米国務長官ケロッグ1856-1937---誰も守らない
→ フリーメーソン ⇔ カトリック
1930 ロンドン軍縮会議 ---補助艦規制 米英日:10107
1931 満州事変
スペイン王国(ブルボン朝) → スペイン共和国
1932 ヒトラーはドイツ国籍取得
1933 ヒトラー首相
ゲッペルス----ナチス宣伝相大臣
小児麻痺で生まれる
文筆家目指すが出版社(ユダヤ系多い)から却下
1935 ザール地方(石炭採掘有数の地 1920以降国際連盟が管理)はドイツ領 By住民投票
再軍備宣言(国際法違反 ベルサイユ条約違反)
1936 仏ソ相互援助条約(独を挟み撃ち)
非武装地帯のラインラントに進駐:ロカルノ条約違反
スペイン内戦 :アサーニャ人民戦線内閣(バックにソ連)✖ VS 〇軍人フランコ(バックに独、伊)
ベルリン-ローマ枢軸結成@1936
ナチスの横暴を阻止したい:労働者 資本家、教会、大地主
米(モンロー宣言で中立法)、英(ゲルマン共同体?)、仏 : 不干渉政策
1938/3 オーストリア併合
1938/9 チェコスロヴァキア:ズデーデン地方狙い
------第二次世界大戦------------------------------------------------------------------
1939/8 独ソ不可侵条約
1939/9 独 & ソ連がポーランドに侵攻
英・ネヴィル・チェンバレン首相は宣戦布告したが・・・・動かず :奇妙な戦争
ハイドリッヒは国家公安本部長
ユダヤ人200万人をゲットーに収容
独がデンマーク、ノルウエーに侵攻
1939/12 ソ連〇-✖フィンランド戦争(冬戦争) :ソ連はポーランド侵攻の途中でフィンランドに方向転換
フィンランドはロシア革命の時にロシアから独立したが・・・
バルト三国はロシア革命の時にロシアから逃げて第一次世界大戦後に独立したが・・・
1940/5 ナチス独は蘭、ベルギーに侵攻
ダンケルクの戦い --- やっと英仏白(ベルギー)は戦う:西部戦線
英は撤退
仏は無防備
1940/6 ソ連はバルト三国にも侵攻 :三国併合 独ソ間にポーランド分割の密約があった
ソ連は各国から非難---国際連盟除名
フィンランドは後の独ソ戦では独ロシア側について戦ったことで、戦後ソ連の脅威にさらされる
1940/6 伊はエジプト侵攻 :エジプトに駐留する英軍への宣戦布告
これを見た独は、英伊に挟み撃ちにされることはないとして、仏侵攻してパリ陥落に成功
以降1年間はヨーロッパ諸国での戦闘は行われていない --- 第二次世界大戦は一端終了
北仏---独の完全占領地
南仏---独による傀儡政権・ヴィシー政府樹立:フィリップ・ペタン主席1856-1951
ヴィシー政府を嫌ったシャルル・ドゴール1890-1970
・1940/5--ナチス侵攻、仏降伏
・1940/6--英に亡命して、ロンドンに自由フランス政府立ち上げ、ナチスドイツに対抗した
・1944/6--ドゴールは英チャーチルに働きかけたことで、米ノルマンディー上陸
英大嫌いな仏が英を頼る・・・・
・1944/8--パリ帰還、臨時政府首相
・1945/5--無条件降伏
ドゴールはこれを自分の手柄にする・・・・
・結果、仏は戦勝国 国連安保理事国入り
ポーランドを分割して西側はドイツ、東側はソ連 次に訪れるのは独ソ戦
そのために行った侵攻が以下
1941/6 独によるルーマニア侵攻+独ソ戦 : ルーマニアの北はソ連、いよいよ独ソ不可侵条約が終焉
1941/7 ラトビア侵攻 :ユダヤ人70万人銃殺
1941/9 アウシュビッツ収容所で毒ガス使用
スターリングラードの戦い :スターリングラードはソ連ボルガ川西岸の工業都市
独+伊+白+ルーマニア✖ VS 〇ソ連・スターリン
独はウクライナ経由ソ連へ --- ここでウクライナは独ナチスに味方
現在プーチンが「ウクライナはナチスだ」 という理由がここにある---完全な誤解
ウクライナには「大祖国戦争記念館」というのがある(ソビエト連邦が一致団結してドイツと戦った証)
つまりウクライナは祖国(ソ連)のためにドイツと戦った人たちの記念館だという
ウクライナ-ソ連間には何もひびがはいってないかのよう・・・どっちが正しいんだ?
2023-9現在、ウクライナ戦争は1年以上続いている。
1942/5 ハイドリッヒ暗殺 Byチェコ工作員
チェコ・リディツェ村の村民200人以上虐殺 村全体を破壊
1943/2 スターリングラードでソ連に大敗
1943/9 イタリア戦線 :米による伊侵攻 --- 伊降伏
1941/12 真珠湾攻撃で米は宣戦布告
伊降伏および日本劣勢を機会に米は 対 独へ乗り出す
1944/6 ノルマンディー上陸作戦(ネプチューン作戦)
1945/4 ヒムラーが連合側と和平交渉
・ヒトラーより処刑命令
・ヒムラー逃亡するが自殺
1945 第二次世界大戦終焉 --- 冷戦の始まり
【1923年、ルール占領とハイパーインフレ】 第一次世界大戦に敗れたドイツは、多額の賠償金に苦しめられ、インフレ経済状況の悪化により、賠償金の支払いはやがて不能になる。ドイツの猶予要求にたいして、連合国側はこれに応じず、1923年にはフランスとベルギーがドイツの工業地帯であるルール地方に侵攻し、占領する。これを受けてドイツは、ルール地方の炭坑や鉄道に勤める労働者に対して不服従やストライキを呼びかけたが、賃金支払いのために紙幣を増刷したことでハイパーインフレが進行する。生活が苦しくなった国民は不満の声をあげ、ナチスの前身であるドイツ労働者党が1919年にミュンヘンで設立され、1923年時点では3万名の党員を抱えるに至る。
【ミュンヘン一揆により捕らえられたヒトラー】 当時の政治は、州総督カール、司令官オットー、州警察長官のハンスによる「三頭政治」、かくしてナチスは、1923年、ドイツの軍人エーリッヒ・ルーデンドルフ大将や、ヒトラーらが参加する「ドイツ闘争連盟」は「ミュンヘン一揆」を起こす。舞台はミュンヘン、ドイツが統一前はバイエルン王国の首都であった。この一揆の目的は、ヒトラーがバイエルン州政府の主導権を掌握し、ワイマール共和国政府を倒して自らの政権を樹立することであった。しかし一揆は半日で鎮圧され失敗、ヒトラーら首謀者は逮捕された。このとき、ヒトラーは独房で『我が闘争』を著している。
【ファシズムが社会不安を背景に台頭】 1929年の世界恐慌をきっかけに、植民地を持たないドイツはブロック経済対策(本国と植民地の間で自給自足をして経済を回す)ができない。従って、国民は従属させて近隣国に侵略して経済を活性化するしかない。(イタリアや日本も同じ) このような背景から、ファシズム(全体主義とか集団主義ともいい、民主主義や自由主義を批判するものである)が、社会不安を背景に支持を拡大し国民から大きな期待を持たれるようになる。この頃、ヒトラー率いるナチスは、かつて三頭政治を行っていた州総督カールなどを粛清している。
【1933年にヒトラー内閣が誕生(@ワイマール共和国)】 1938年アドルフヒトラーによってオーストリアがドイツに併合された。それは第一次世界大戦後のベルサイユ条約で禁止されていたことであったが、オーストリアのドルフス首相1892-1934は、ナチスにより暗殺され、新首相も半ば脅迫される形で併合されたのである。ドイツ軍が1938/3/15オーストリアに侵入してきた時、何も知らされていない国民は歓迎したという。なぜならドイツと組めば豊かになると思ったからである。因みにこの時にヒトラーが演説した場所は、オーストリア・ハプスブルグ王宮のバルコニーで、エルジー、エリザベート、フランツ皇帝が市民を眺めた場所であったという。ヒトラーが最初に逮捕したのは、サラエボ事件で暗殺されたフランツ・フィルディナント大公1863-1914の遺児、ハプスブルグ家の血は許せなかったようである。
【日独伊三国防共協定と独、伊、英、仏が参加のミュンヘン会議】 この頃、日本は満州事変を起こし他の国々から睨まれた存在であった。一方、日独伊三国防共協定によってソ連を挟み込むことによって社会主義を倒す意味を持っていたことから、英仏もこれに期待したとも言える。これに気づいたヒトラーは勢い付き、さらにドイツ人地域以外の進出も行った。それがチェコスロバキア。しかしチェコは英仏が後ろ盾になってくれることを期待して拒否した。かくして開かれたのがミュンヘン会議1938で、独、伊、英、仏が参加(ソ連とチェコスロバキアは外された)。英仏の弱腰の結果、チェコスロバキアのズデーデン地方は独に割譲。かくして英仏は、ソ連を警戒するという日独伊三国同盟を盾に、ヒトラーの要求を次々と飲んだのである。チェコの都市ヘプは独との国境にある街、そこにあるドイツ人墓地は第二次世界大戦後に破壊された。ナチスドイツの侵略によりヘプ(かつてはドイツ系住民が90%)を拠点にチェコ全土が侵略された歴史があるからである。1945年になると逆にチェコはドイツ系住民を強制追放、その過程で20万人ものドイツ人が亡くなった。近年チェコとドイツは和解して墓地も修復されたという。
第一次世界大戦後に誕生したポーランドは僅か20年後に姿を消した。ポーランド難民は4000kmの道のりを経てイラクの砂漠地帯にまでたどり着いた。ポーランド西部には数多くのドイツ人が暮らしていたが、彼らはポーランド人の家を奪うようにして暮らした。ヒトラーはユーゴスラビアのドイツ人をオーストリアに呼ぶなど、ヨーロッパ各地に居たドイツ人を呼び戻し、熱狂的な支持を得ていた。
この頃、ヨーロッパ各地に散らばっていたユダヤ人はナチスの迫害から逃れるためにパレスチナに集まってきた。1920年代のパレスチナには国家を持たないアラブ民族とユダヤ民族が共存していた。両者を統治していたのが第一次世界大戦後に進駐したイギリスである(植民地大臣はチャーチル)。チャーチルは両者に国家独立の支援を約束していた。ところが1930年代なるとユダヤ人は急増しアラブ人の危機感を煽るようになった。両者が衝突するようになると英はユダヤ人のイスラエルへの入植を厳しく制限した。1938年にはユダヤ人集会@テルアビブで開かれ、ワイズマン博士はユダヤの正義を訴えた。
ところでアウシュビッツ強制収容所は1940年に独政府によって建設されたが、1000ヵ所にも及ぶ強制収容所の初建設は1933年、ナチスが独裁政治を行った頃である。当時の目的はユダヤ人虐殺ではなく、ナチスに反する勢力、家を持たない人、同性愛者、身障者などを隔離するのが目的であった。そして第二次世界大戦がはじまると、ユダヤ人への虐殺の勢いが増していった。
虐殺はユダヤ人だけではなく、自閉症の子供たちへも向けられた。アスペルガー症候群というコミュニケーション能力が欠如した症状が代表的のようであるが、この中にとびぬけた才能を持つ人が居る。そこでナチスはアスペルガー症候群の研究をして、有用な人間を見出そうとした。しかし有用ではなかった場合には虐殺するのである。この研究を行ったのがアスペルガーという医者である。そして、 アスペルガー症候群だったと言われた有名人には、シュリニヴァーサ・ラマヌジャン:タクシー数で知られる数学者、 アイザック・ニュートン、万有引力や光のプリズムで知られる数学者、 アルベルト・アインシュタイン:相対性理論の物理学者、 ミケランジェロ:ルネッサンスの天才 、 フィンセント・ファン・ゴッホ:ひまわりで知られる画家などの天才が数多く居る。
【独の敗戦】 1940年ドイツと戦い続けていたのはイギリスのみで、ロンドンの地下には巨大な防空壕があり、そこには1940年5月に首相となったチャーチルが居て絶対に降伏はしないと演説している。8月にはドイツ空軍による英空襲が始まり、地下鉄の構内が人々の避難所となった。この時に活躍したのがレーダ、情報は英空軍基地に伝えられて英軍は迎撃できるようになっていた。これにより独軍は1700機もの航空機を失い、英本土上陸を諦めた。次に独が狙ったのはソ連、1941年6月22日独軍はソ連に侵攻、初戦の勝利で200万人もの捕虜を得た。次はモスクワ陥落を目指して1941年10月に迫ったが、やがて来る本格的な寒波がそれを防いだ。一個連隊につき500人が凍傷でやられ機関銃は打てず、37mm対戦車砲もソ連のP34戦車には無力であった。そしていよいよ12月に入るとソ連極東軍による反撃が始まった。雪中で孤立していた独軍は次々と撃破され、12月8日には退却を始めた。この時無敵ドイツが敗れたのである。
【独の崩壊】 体制を立て直したドイツが再びソ連を侵攻したのは1942年夏。南ロシアのほとんどが占領破壊されソ連の犠牲者は700万人と言われる。これらスターリングラードの戦いでソ連の中心都市を占領し、9月には市街戦が展開。ソ連市民や農民が銃をとって立ち上がり共産党はこれをパルチザンというゲリラ部隊に仕立てた。やがて冬になると独軍の10万人が捕虜となり降伏したが、生きて祖国に帰った捕虜は6000人。1945年3月ソ連軍はベルリンに迫ると、首都防衛のためにヒトラーは15才前後の少年兵を組織した。4月にソ連は総攻撃を開始し30日ベルリンは陥落した。ヒトラーの片腕ヨーゼフ・ゲッペルス1897-1945は6人の子供に青酸カリを与えて夫婦ともに焼身自殺した。ヒトラーも地下で自殺。その頃イタリアのムッソリーニも愛人とともに惨殺された。
【一方日本は】 ちょうどこの時日本は真珠湾攻撃を開始、米大統領ルーズベルト率いる米世論は目をさまして次々と軍隊に志願、日米の参戦により世界大戦となっていった。西海岸のアメリカ日系人が強制的に収容所に送られたのは116000人。日本は東南味アジアに侵攻し英蘭植民地を占領した。4月にはマニラ占領、78000人が捕虜となった。彼らの後方輸送では多くが病死し死の行進と呼ばれた。東南アジアの各地で日本語の教育が強制され歌わ0された。中国では既に1937年から日本軍による無差別爆撃が行われるという日中戦争が始まっていた。
ポーランド侵攻の為に、独ソ不可侵条約を結んでいた独ではあるが、ゲルマン民族主義のヒトラーがスラブ主義のソ連を受け入れられるはずもなく、ナチス独は1941/6に独ソ不可侵条約を破棄、かくして独ソ戦争がはじまりバルカン半島の奪い合いが始まった。この時からドイツの衰退は始まっていた。
【第二次世界大戦を描いた映画】 有名なのは「プライベート・ライアン」。太平洋戦争終盤になり、米連合軍はその兵力をのドイツ占領下の北西ヨーロッパに向けた。そして1944年6月ノルマンディー上陸作戦を行った(正式にはネプチューン作戦)。この上陸時の戦闘シーンが戦争の激しさをリアルに伝えていることで評判になった。また非常にマイナーではあるが、「ハクソーリッジ」は沖縄戦に於いて日本とアメリカが高田高地(急峻な崖のある激戦地)での戦闘で、米軍衛生兵が多くの負傷兵を救出する映画である。「火垂るの墓」「日本のいちばん長い日」なども有名。
【第二次世界大戦の戦後処理】
【ポーランドは欧州随一の親日国】
18世紀 ポーランド混乱弱体
露、独、オーストリアが侵攻、分裂消滅
1830 11月蜂起
1846 クラクフ蜂起
1848 諸国民の春
1863 1月蜂起 → 住民が露に対して攻撃するも惨敗
20万人がシベリア送り
1920 WW1後の露革命で露内戦の結果ポーランド独立
シベリアの孤児が日本軍+日本赤十字により救出されて敦賀経由帰国