goo blog サービス終了のお知らせ 

平安時代中心の歴史紹介とポートレイト

古代史から現代史に至る迄(日本史/世界史)の歴史散策紹介とポートレイト

【中東-4】2001同時多発テロ~アフガン侵攻 2003イラク戦争 攻撃~アラブの春

2020年12月04日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

911同時多発テロ】   
  ・2001年 ジョージ・W・ブッシュが米大統領に就任。
  ・その年の9月に911  同時多発テロが発生
    NY貿易センタービル及び国防総省ペンタゴンにハイジャックされた旅客機が激突したのである。
    ・犯人はイスラム原理主義者、
    ・指示をしたのはオサマ・ビン・ラディン、
    ・実行したのは国際武装テロ集団アッルカイーダとブッシュ大統領は発表した。
  ・オサマ・ビン・ラディン1957-2011はサウジアラビアの富豪
    アルカイーダの組織者、ソ連がアフガニスタン
    (イスラム教スンニ派の原理主義武装集団・タリバンが政権を握り、恐怖政治を行っていた)
    に侵攻したときに米支援の元でソ連と戦っている。

  911テロにより貿易センタービルWTC-1/2/7は崩壊した。その崩壊スピードは約10秒。これは110階タワー上部から物体を自然落下させたときの時間程度であり、鋼鉄製の柱が崩落する場合にはありえないという。つまり柱を高温で爆破するテルミットのような爆薬を使ったテロという検証があるという。ところでこのタワー崩落の前に賃貸権が不動産王に移され、80億ドルという多額の保険を手に入れている。

【アフガニスタン侵攻2001/10】   
  ・アフガニスタン・タリバン政権がビン・ラディンを匿っているとして、
  ・アメリカ2001/10月に米はアフガニスタンに対してオサマ・ビン・ラディンの引き渡しを要求したが、
  ・タリバン政権はこれを拒否したため、タリバン政権攻撃を実施した(アフガニスタンの首都カブール:大阪とほぼ同じ緯度)。
  ・しかし、ウサマ・ビン・ラディン捕獲はできず、アルカイーダ壊滅もできなかった。
  ・約10年後の2011/5/2アメリカ軍はパキスタン・アボタバードに潜伏するビン・ラディンを発見・殺害した。

【イラク戦争2003/3】    
  ・湾岸戦争の停戦協定1991/3以降、イラク・フセイン政権は国連の査察を拒否し、独裁政治を強化していた。
  ・核開発の疑いがあるなか、国際テロ組織のアルカイーダと繋がり、大量破壊兵器の所持を米ブッシュ大統領は断定した。
    (後にこの情報は捏造であったと判ったようで、大量破壊兵器は見つからなかった)
  ・かくして米英は国際非難があったもののイラクを空爆し、サダム・フセイン政権を倒した。
  ・このとき日本は非戦闘地域への派遣を受け入れている。
  ・イラク・フセイン政権は少数派のスンニ派が支配していたが、2011年以降は幹部を追放し、米ブッシュ大統領はその後放置した。
  ・するとイラク国内の圧倒的多数のシーア派が台頭して少数派のスンニ派狩りを行うようになる。
  ・するとスンニ派はやむなく武装してこれに対抗するのである。ここに接近してきたのがビン・ラディンのアルカイダである。
  ・打倒アメリカという目的が一致した彼らの過激派がIS(イスラム国)を結成する。
  ・イラク北部を本拠地とし、バグダディー1971-2019を指導者とするISは、
   現在では規模は縮小されているが、世界各地で未だに自爆テロを繰り広げている。

アラブの春と言われた民主化運動】   
  ・アラブ世界の民主化運動はチュニジア、エジプト、イエメン、リビアなどでも広がり独裁政権が倒れるという変化をもたらした。
  ・其の口火をきったのがチュニジアで起きたジャスミン革命である。
  ・イスラムの青年が焼身自殺を図ったことで社会が独裁政府に抗議2010/12。ベン・アリ大統領1936-2019は失脚した。

  ・この民主化運動はエジプトのムバラク大統領を失脚させ2011/2、ムスリム同胞団によるムルシー大統領政権下となった。
  ・しかし反米化が進み、経済的発展はなく、現在は元軍人のシーシー大統領が統治している。
  ・ここには隠れた報道されない軍事政権の陰謀があった。
  ・ムルシー大統領新政権はムスリム同胞団出身で(過激な原理主義という報道があるがそうではないようだ。
  ・地道な奉仕活動などもやっていて支持された。)アメリカの支援を受けている軍事政権からすれば邪魔な存在であった。
  ・また、政府機関のほとんどは、賄賂まみれの状態から脱却できない状態が存続していた。
  ・しかも新政権に対する嫌がらせを行って(わざと停電させるとか)国民の信頼を失墜させようとまでする政府であったという。
  ・以前のムバラク大統領の時代と同じなのである。ひょっとしたら一層悪化していたと言える。
  
  かくして軍事クーデターが起きて、ムルシー大統領は拘束され(現在も)元軍人のシーシー大統領が統治して、ムバラク(6兆円の個人資産を持っていた)政権の時代と同様の軍事政権に戻ったのである(国際法ではクーデター政権は認められないはずだが・・・)。かくしてネットの世界では「アノニマス」が流行して、政府によりネット強制規制されたこともある。アラブの春、民主化は実現されていないのである。どころか一般市民でムスリム同胞団支持などが発覚すると拘束されるという現実がある。(エジプト出身のタレント・フィーフィー情報)

  ・リビアのカダフィー独裁政権を崩壊2011/3させた。
  ・今までアラブ世界では自由報道が不可であったが、
   アルジャジーラというニュースチャンネル@カタールが初めて自由報道を行ったこともアラブの春を引き寄せた一因である。
  ・春は訪れたのか?というと2013年からずっと内戦状態である。
  ・国民合意政府GNAという暫定政権とリビア国民軍LNAという軍事組織が敵対しているが、トルコとロシアが仲介するも解決せず。
  ・リビアは世界でも有数の産油国であり、天然ガスの利権もあって、トルコ、イスラエル、ギリシャが介入することで情勢が不安定。

【酷い民主化運動となったシリア】   
  ・2011/4  シリアの独裁政権・アサドにも及んだ。
  ・しかしシーア派(国民の13%)のアサド政権はロシア、イランの支援を受けて体制を維持している。
  ・またスンニ派(シリア国民の74%)の反政府勢力は米英及びサウジアラビアやトルコが支援する状況の中、混迷だけが続いている。
   (バックに米ソの熾烈な戦いがここにも浮彫り)
  ・というのも反政府勢力にはアラブ原理主義のアルカイーダが加わり統一がとれていないようである。
  ・つまり反政府勢力の中にアメリカとアルカイーダが居る・・・という現象が生まれている。
  ・この内戦の長期化に伴って、シリア難民が400万人にも膨張している。
  ・こうした状況の中、日本人ジャーナリストの山本美香氏、後藤健二氏がISに拘束され殺害されている。
  ・2019年 アメリカ・トランプ大統領はシリアからの撤退を表明し、トルコ軍がシリアのクルド人勢力を攻撃する事態になっている。

【難民を受け入れた国】  
  ・2015年頃からイスラムの難民をドイツ、イギリスなどが受け入れている。
  ・ドイツ・メルケル首相は100万人の難民を受け入れた。
  ・彼ら難民を見過ごすわけにはいかないとして歓迎する人達、
   難民受け入れにより年金が減ったり治安が乱れたりするとして反対する人たち、さまざまである。
  ・2017年の選挙ではメルケル首相の議席が減り、極右勢力のAfDが各州で議席を伸ばして難民が排斥される結果にもなったという。    

コメント

【中東-3】1990イラクによるクエート侵攻 湾岸戦争

2020年12月04日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

【クウエート侵攻は湾岸戦争の幕開け1990/8】  イラン・イラク戦争でイラクは勝利したもののアメリカからの支援に対する借金は膨大であり返済に困ることとなる。このことが原因でイラクのクウエート侵攻(湾岸危機)が始まった。イラクはクウエートをわずか1日で占領すると港や空港を占拠、戦争に関係のない米人、英人などのビジネスマンなども国外へ出ることができずに人質になってしまった。これによってイラクは攻撃を受けることを警戒したのであるが、国際社会からは非難された。イラクは全世界(多国籍軍)を敵に回したのである。これでイラクは人質を解放、これで多国籍軍(ブッシュ父が武力行使を決定して結成した)はイラクに対して全面的に攻撃可能となる。ペルシャ湾に面した湾岸国家クウエートが舞台になったために湾岸戦争という。

【砂漠の盾作戦1990/8/10】   また、このイラクによるクウエート侵攻によりおびえたのがサウジアラビアである。攻め込まれる危機を感じてアメリカに支援を求めた結果、とられたのが「砂漠の盾作戦」1990/8/10である。大量のアメリカ兵を含む多国籍軍50万人がサウジアラビアに入った。これで怒ったのがウサマ・ビン・ラディン、イスラムの聖地があるサウジアラビアに異教徒が入ってくるなど許せないとして、強く反米意識を持つとともにサウジアラビア国王を批判した為、ビン・ラディンは国外追放となった。かくしてかつて戦ったアフガニスタンに行き、タリバン政権下に身を置くこととなる。   

【砂漠の嵐/剣作戦1991/1/17-2/28】  砂漠の嵐作戦は多国籍軍による一斉空爆作戦。そして砂漠の剣作戦は地上戦である。圧倒的に兵力が勝つ多国籍軍は圧勝し、3/3には停戦協定に持ち込み、賠償、兵器の廃棄、国境尊重、拘留者帰還を放つが、イラクは拒否。このためイラクに対する厳しい制裁が始まることとなる。日本はこの湾岸戦争に参加することはなかったが、110億ドルの分割払い経済支援を行った。血を流す貢献はしないのか?!という世界世論に押されて、自衛隊の海外派遣を検討を開始した。1992年にはPKO協力法が制定され、そして後のイラク戦争では陸上自衛隊の海外派遣が行われた。

【米クリントン政権】   イランイラク戦争、湾岸戦争に見られるレーガン・ブッシュ大統領の外交は国民のいら立ちを増幅し、1993年からクリントン民主党政権に代わった。この政権では経済復興を優先し、外交ではオスロ合意(1993年のパレスチナ・イスラエル和平合意)、ベトナムとの国交回復(1995年)、ボスニア・ヘルツェゴビナ和平合意(1995年)を実現させた。

コメント

【中東-2】1978イラン革命 1979アフガン侵攻 1980イラン・イラク戦争

2020年12月04日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

BC1500  アーリア人侵攻(ゲルマン系、ヒッタイト系、イラン系、アーリア系)

BC500   アケメネス朝ペルシャ侵攻

BC330   アレクサンドロス大王侵攻  →  :イラン地域が分裂 
         ┣マケドニア軍             ┣北部:バクトリア:ギリシャ系
         ┗ギリシャ軍              ┗南部:パルティア:イラン系  
           ┣アフガニスタン残留 :彫刻  
           ┗インドと融合    :仏教  
                       ┗ガンダーラ仏像

8世紀   サーマーン朝&ブワイヤ朝

19世紀   ロシア侵攻(南下政策):アフガニスタン経由ムガル帝国へ(露 VS 英 @) 
         ┣中央アジア  → アフガニスタン → 清
         ┗カージャル朝 → ムガル帝国(英)                  

1838    第一次アフガン戦争 : アフガニスタン〇 VS ✖英 ----ロシア侵攻に備える

1877    インド帝国樹立

1878    第二次アフガン戦争 : アフガニスタン✖ VS 〇英 ----アフガニスタンを保護国にする

1879                ガンダマク条約

1907    英露協商      : アフガニスタンは英の支配下(暴動多発)

1917    第一次世界大戦終焉 → 民族自決 (背景:露→社会主義のソ連)  

1919    第三次アフガン戦争 : アフガニスタン独立 
                   ┣社会主義 :平等
                   ┗原理主義 :大地主(宗教家) --- 反社会主義

1973    ダウードクーデター : アフガニスタン 王政✖ → 〇社会主義 By  
                   アフガニスタン共和国成立・シャー国王退位 → 大地主(宗教家)による反旗  
                   共和制に反対する大地主達は武力をもって社会主義独裁に対抗 
                   このときに支援開始したのが社会主義のソ連
1978-01 【イラン革命1978/1】 
       シーア派(国民の6割)のホメイニ氏1902-1989を中心とする国民の革命勢力によるイラン革命を起こす。 
       これによってパフレヴィー2世はイランを離れ、皇帝政治は終わる。 
       政権を握ったホメイニは、今まで親米であったイラクを反米に変換、 
       アメリカの模倣を否定してイスラムの日常規範を復活させた。 
       このときホメイニ派の学生が米人52人を人質にとり444日間も拘束するなどの事件を起こしたため、 
       アメリカはイランに対して最初の制裁を行う。

1979-01   白色革命@イランでアメリカ大使館包囲事件

1979-07   サダム・フセイン政権成立 
        サダム・フセイン@イラク(スンナ派) VS イラン(反米シーア派)   アフガニスタン(親米スンナ派) 
        イラン・イラク戦争@1980-1988(米が火付け役)
      【イラクの恐怖政治】  
        イラクでサダム・フセイン大統領1937-2006は就任すると、
        クルド人自治を認め、民主化のポーズをとって国民の支持を得た。
        しかし実際には石油独占の利益で軍や治安組織を抑えて、反対派・反対派を次々と処刑弾圧する恐怖政治を行った。

1979-09   ソ連(10万人)によるアフガニスタン侵攻開始  
        イラン革命が親ソ連政権アフガニスタンに広がるのを抑制 
        劣勢となった社会主義独裁側(大地主(宗教家))は内外聖戦(ジハード)開始+米武器支援 
                               ┣内:学生タリバン         
                               ┃  学生:タリブ 複数形:タリバン
                               ┗外:原理 
       外:原理主義を集めた人物 :サウジ神学大学卒業のウサーマ・ビンラディン(サウジの大富豪)

【ソ連によるアフガニスタン侵攻1979-1988】
  
1979-11  カーバ占拠事件 : サウジアラビアのカーバ神殿遺跡が占拠される Byイラン 
   
1979-12  ソ連はアフガニスタン侵攻、この紛争は約10年間続いた。 
      ・当時アフガニスタンはイランとの国境に位置しており、しかもイスラム系であることから 
       宗教否定側の共産主義圏ソ連はアフガニスタンを自国防衛県内に入れておきたかった。 
       当初はいずれもソ連圏内であったウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタン(いずれもイスラム系) 
       が中心になってアフガニスタンを攻撃するも成果はあがらず、1982年からはロシア兵が参戦する。 
      ・するとすかさずレーガン政権のアメリカが武器補給。1984年からムジャヒディン(イスラム聖戦士)に対して行った。 
       武器の補給は反米のイランからではなく、親米のパキスタン経由(軍の統合情報機関経由)で行った。 
       この時に活躍したのが地対空熱感知ミサイルスティンガーである。

      ・かくして10年も戦乱は続くがブレジネフ政権時代には停滞・崩壊し、アフガニスタンから撤退(1988/8)することとなる。 
       すると目的を失ったアメリカも撤退。 
      ・ソ連撤退後のアフガニスタンは死者200万人、都市の半分は廃墟化、600万人以上の難民が生まれることとなった。 
       またソ連兵はアフガニスタンで覚えたケシの麻薬をソ連に持ち込み蔓延させたという。 
       因みにその3年後の1991/12月にソ連は崩壊してロシアになったが麻薬中毒は今も尚続いている。 
      ・ソ連が崩壊すると、支援を受けていたアラブ諸国は弱体化。 
       アメリカの支援も亡くなったイラクのフセイン政権は湾岸戦争で敗北By英米 
      ・武器支援が無くなったPLO(アラファト議長)は、ガザ地区&ヨルダン西岸地区だけでもいいから 
       パレスチナ地区であることを承認させる方向に考えを変えた

1980-09  イラン・イラク戦争 
      ・サダム・フセイン大統領1937-2006率いるイラクがアメリカの支援により勝利する。 
        では何故アメリカはイラクの支援を行ったのかについては、イラン共和国のイラン革命まで遡る必要がある。 
        イランの第二代皇帝パフレヴィー2世1919-1980(英米の傀儡政権)は日本の飛躍的な経済成長に注目し、 
        石油輸出による外国資本とアメリカの経済援助をベースに白色革命、つまりイランの近代化に着手した。 
        アメリカは見返りに石油を確保。

      ・そのうちモサデク首相(1951年に首相にあり石油国有化を行う)はイラン石油事業の国有化を計画したため、 
        アメリカCIAはクーデターを計画実行することで首相を失脚させ、パフラヴィー王政を敷いたのである。 
        ところがこの近代化によって民衆の格差は広がり、米従属の度合いを増していった。
        
     【イラン・イラク戦争1980-1988】  
      ・イランに対して経済支援をしていたアメリカは、イラン革命によって反米思想に傾くイランが許せるはずもなく、
        そこで利用したのが宗教的(イランはシーア派、イラクはスンニ派)にも石油資源的にも敵対していたイラク  
        (サダム・フセイン)を利用して、イランに戦争を仕掛けさせた。  
         かくして始まったのがイラン・イラク戦争である。  
      ・核兵器を持っているかもしれないイランとイラクが戦うことは、両者が弱体することであり米ソによっても好都合であった。  
        また、イラク国内のシーア派(南部に住む)やクルド人(北部に住む)をイランが支援したことで、  
        イラクは内部に敵を抱えることとなり泥沼化した。  
        かくしてホメイニが亡くなる迄、8年間も続いたのである。  
      ・この戦争でイラクは化学兵器を使用してクルド人5000人を殺害しており、アメリカ側は把握していたという。  
        戦争が終わりイラクに残ったのは50万人~100万人の死亡者と莫大な借金。この返済にイラクは苦悩することになる。

     【借金返済】    
      ・借金返済ができないイラクに対してアメリカが行ったのが、食料・工業部品の輸出制限である。  
        こうなると石油産業で多くの支援を受けていたイラクは経済破綻をきたすことになる。  
        かくしてイラクに残された道は石油を高値で売る事であったが、これに反対したのがクウエートである。  
      ・クウエートもイラクと同じく石油産出国であるが、どんどん売りたい。  
        一方得ることによって石油の価格が下落するのを恐れるイラク。こうして両者の間に新たな問題が発生した。  
        かくして軍事力に自信のあるイラクはクウエートに侵攻する。これが湾岸戦争の幕開けである。

1991    ソ連崩壊@米民主党クリントン政権   
        
1993    アラファトPLOとラビン首相・イスラエルを和解させる :オスロ合意(共存協定)  
      ・イスラエルはPLO側の国(ガザ地区、ヨルダン川西岸地区)を自治政府として5年間認め、  
        5年間何もなければ、これを国家として認める・・・・というもの。  
        ところが未だにアラブ国家として認めていないのは、  
      ・第三次中東戦争後、イスラエル人はヨルダン川西岸に入ってきて街をつくった(国際法違反)  
        ユダヤ人入植者(リクード派:右派連合の意味でシオニスト)はオスロ合意に反対し、  
        イスラエルのラビン首相は暗殺された@1995-11   
      ・リクード政権  
        ラビン暗殺後の後選挙で政権は労働党からリクード党 ---- オスロ合意は認めない   
      ・自治権を認められたはずのPLO側にも不満が爆発  
        急進派のハマスが登場@1987(イスラム原理主義組織)---- イランから支持  
                        

2001-9-11 同時多発テロ事件

----------------------------------中東戦争--------------------------------

【パキスタンによる内政干渉】    アフガニスタン侵攻を終えたアメリカは、戦後処理を何もせずに撤退放置したことで、弱体したアフガニスタン(内戦混乱状態)にパキスタンが侵攻・干渉した。アメリカからの武器輸入経路であったパキスタンは、数多くの米製武器を保有していたのである。さらにパキスタンに避難していた多くの難民を使ってイスラム過激派(デオバンド派という原理主義、働く女性は全員解雇され家に閉じ込められた)・タリバン(神学生)を養成すると弱体化したアフガニスタンを占拠しタリバン政権を構築していく。このタリバン養成を行っていたのが後に同時多発テロを指揮するビン・ラディン1957-2011である。またこの時に養成訓練生の名簿などを作る基地も設置し、アルカイダ(ザ・基地)と呼んだのである。サウジアラビアの富豪出身(建設会社社長の17番目の息子:社長や長男は飛行機事故で死亡している 兄弟は45人以上)のビン・ラディンがサウジアラビアを追放となっていた。このアメリカへの恨みをタリバン政権のアルカイーダを使って果たすのである。

【以上をわかりやすく箇条書きに】

1970年代 : アフガニスタンに共産主義政権誕生、バックはソ連。しかし極めて評判が悪く対抗すべく武装蜂起集団が各地に発生

1979年  : 共産主義政権はソ連に救援要請、10万人のソ連がアフガニスタンに侵攻 

1980年  : モスクワ五輪ボイコット

       アフガニスタンに新民主主義のゲリラ(ムシャヒディン:聖戦士)がソ連に抵抗

       アメリカが援助。「ランボー怒りのアフガン」は当時の様子を映画化

1989年  : ソ連がアフガニスタンから撤退。ゲリラが政府をつくるが内戦状態

       アフガン南部のパシュトゥーン人、北部のハザール人、タジク人、ウズベク人など

1994年  : アフガニスタン祖国の為といってタリバンが結成されて立ち上がる

       タリバン:難民キャンプ出身の学生、後援はパキスタン情報部ISI

1996年  : タリバンは主都カブールを制圧、サウジアラビアのウサーマ・ビン・ラーディンがタリバンに加入

2001年  : 同時多発テロ Byウサーマ・ビン・ラーディン

       アメリカはタリバン勢力にウサーマ・ビン・ラーディンの引き渡しを要求 → 却下される

       アメリカはアフガニスタン北部同盟(南部タリバン勢力と対抗していた)とともにタリバンを空爆、地上戦で勝利

2021/8/15 : 2001年以降アフガニスタンはISに浸食されながらも大統領の元で一応の鎮静化

        実態は政府の腐敗、軍の装備横流しなど・・・。

        2014年以降の大統領はアシュラフ・ガニー → 2021/8にカブールを脱出して亡命

        亡命先はタジキスタンともウズベキスタンとも言われているが不明。

        亡命時に多額の金をヘリコプターに積んで・・・という混迷ぶりをロシアが報道 

コメント

【中東-1】1947イスラエル建国 1948-1973中東戦争 1975-レバノン内戦 ユダヤ人とアラブ人

2020年12月04日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

【パレスチナへのユダヤ人の入植】   現在地中海の東岸、レバノンの南に接する国がイスラエル。そしてイスラエルの中にあるのがパレスチナ自治区(ガザ地区、ヨルダン西岸地区)である。19世紀以降、ユダヤ人はオスマン帝国領のパレスチナに入植し始めた。この頃、ユダヤとアラブの両者は争うことはなかった。この時のアラブ人は約130万人、ユダヤ人は約65万人で、ユダヤ人の所有するパレスチナの土地は5%に過ぎなかった。

【英国による三枚舌外交は中東問題の始まり】    第一次世界大戦でオスマン帝国は滅亡1922する頃、ユダヤ人のホームをパレスチナにするとして(1917バルフォア宣言)イギリス委任統治領パレスチナの創設が決まった。また、英はアラブ人に対してはパレスチナに於けるアラブの独立に協力する(1915フセイン-マクマホン協定)とした。ところが実際は1916サイクスピコ条約でオスマンを分割してパレスチナを管理区域としたのである。

【1947年、イスラエル建国】    この英国による三枚舌外交が、現在の混乱の元となっている。第二次世界大戦後、ドイツによる迫害から逃れた多くのユダヤ人がパレスチナの地に入植すると、アラブ人との民族衝突がさらに激しくなり、英は事態の収束を国際連合に丸投げ。かくして米英国などは1947年パレスチナ分割決議を行い、イスラエルが建国1948/5/14された。(当時の米大統領はトルーマン、覇権国アメリカ、ユダヤ人に有利な分割案で決議)

【第一次中東戦争の原因はイスラエル建国に反対したアラブ人勢力】   これに反発(アラブ人にとって昔よりもさらに不利な分割案)したのがアラブ人諸国(エジプト、シリア、ヨルダン、イラク)で、イスラエル(米英)との間で第一次中東戦争1948/5-1949/3が勃発した。結果、イスラエルが勝利して、イスラエルはパレスチナ分割決議よりも広い領土を獲得。しかしエルサレムは北部しか獲得できず、首都機能はテルアビブ(地中海に面したリゾート都市 : ユダヤ人にとっては金曜の日没から土曜の日没までは安息日 これを大切にする文化)に置いた。嘆きの壁があるエルサレム旧市街地はヨルダンの手に渡りユダヤ教徒の聖地への出入りは不可能となった。また、アラブ人の多くは(80万人:全体の約60%)パレスチナを離れて難民となった。

アラブ人は別の地域に自分の国家をつくるとイスラエル国を認めてしまうことになるので、難民化する。またイスラエルに負けたエジプトはムハンマド・アリー朝が倒れて、ナセルによる共和国となり、スエズ運河国有化を行う。

【アラブの敗戦によるパレスチナ難民】    パレスチナ難民の中には、現在ヨルダン西岸地区にある難民キャンプ(もはやテントではなくRC鉄骨造の建物)で暮らしている人が居る。彼らはすでに60年間もこの地区で暮らしていて、出ることは許されない。従ってJICA(独立行政法人国際協力機構)などはパレスチナ難民の支援をしている。また、エリコ都市にあるヒシャム宮殿(8世紀ウマイヤ朝)という古代遺跡の整備を日本企業は担っている。

【1956 スエズ運河を巡る第二次中東戦争はアラブ勝利】    
  1952年、国王を追放して共和制を敷いたエジプトのナセル1918-1970は大統領に就任@1956し 
   1956-7 スエズ運河を国有化しようとして英仏と対立する(スエズ戦争、第二次中東戦争) 
   ここで植民地支配と国際批判を恐れたイギリスは、エジプトとの問題を、イスラエル=パレスチナの問題にすり替えるのである。 
   結果、このスエズ戦争1956も英、仏の支援を受けたイスラエルが勝利してシナイ半島を制覇。 
   しかし英仏は国際批判(アラブ諸国、ソ連だけではなく米も)を免れることはなく、 
   ソ連フルシチョフは武器を送ってナセルを応援 
   英仏はこの件から手を引いたことでスエズ運河はエジプトの所有するところとなる。 
  かくしてパレスチナにアラブ人国家を建設するぞ、という機運が高まり、パレスチナ難民からパレスチナ解放機構PLOが設立された。 
  (1964年5月)

【1967 6日間戦争といわれた第三次中東戦争はイスラエル勝利】      
 ・二度にわたる中東戦争の後、PLOに対してイスラエルは強く警戒(イスラエル北部で武力闘争が発生)するが、    
   国際世論はアラブ寄り(エジプトはシナイ半島に侵入)となって英仏ともにイスラエルの支援が困難になる。    
 ・イスラエルは自ら軍事力の強化を行い、イスラエル空軍は周辺アラブ諸国の基地に奇襲空爆を行うなど第三次中東戦争1967/6で圧勝する。    
   イスラエルはエジプトの領域であるシナイ半島全域(スエズ運河の東側)とガザ地区、ヨルダン川西岸(東エルサレムを含む)、    
   及びシリアのゴラン高原を支配した。    
      
   ゴルダ・メイア元首相は「ユダヤ人は哀れみよりも憎まれながら死ぬことを望む」    
              「かつて哀れみを受けたが誰も助けてくれなかった」

   因みにゴラン高原はイスラエルを一望できる場所であり、ここを制圧することで外敵から守る効果があった。    
   それだけにこの場所は国連軍も駐留して目を光らせていた。    
   またこのとき日本の自衛隊は国連軍への物資補給等の支援目的で駐留していた。

  ・これによってヨルダン川西岸から難民流出が増加し、エジプト・ナセル大統領の権威は失墜した。    
    (当時の米はベトナム戦争中@民主党ジョンソン大統領で、この戦争には介入せず)    
  ・PLOはヨルダン川西岸を経由してレバノンまで逃げ、アラブ諸国を頼らずに武装闘争を始めた    
    彼らPLO過激派は世界中でテロ行為を行った    
    (大使館を襲撃、飛行機ハイジャック、ミュンヘン五輪襲撃でイスラエル選手団全員死亡)

【1973 10月戦争といわれる第四次中東戦争1973ではイスラエル支援国に石油制限】     
  ・アラブ諸国はアラブ石油輸出国機構OAPEC(結成1960/9)を通じて石油を制限    
    これによって第四次中東戦争が始まる。    
  ・1973/10、ナセル1918-1970に代わったエジプト・サダト大統領1918-1981が就任:親ソ連政権    
    イスラエルに対して奇襲攻撃を行い成功させた(@ゴラン高原とスエズ運河)----これが第四次中東戦争である。    
    イスラエルは間もなくゴラン高原を奪回、間もなくスエズ運河東岸も奪回して西岸の一部も奪取した。    
  ・武力に劣るアラブ諸国は、石油戦略を展開する。OAPECを武器として海外諸国に石油輸出を制限Byサウジアラビアした。    
    結果、イスラエルに味方する国への原油価格は70%引き上げられ、イスラエル支援国の米・蘭に対しては石油禁輸措置を行った。    
    (石油価格決定権はOPECへ移る)    
      
    これによって世界各国でオイルショック(第一次石油危機)が起きて、    
    イスラエルは戦争続行が困難となりシナイ半島から撤退したのでる。

【エジプトとイスラエルが和解してノーベル賞】     
  ・エジプトの依頼でサウジアラビアの石油制限をしたものの、エジプト国内で物価高騰   
    停戦を求める国民世論が高まり、和平化  
  ・1979 エジプトのサダト大統領1918-1981はイスラエルと和解@米キャンプ・ディビッド    
    米大統領はジミー・カーター民主党    
    (1979-3 エジプト・イスラエル和平条約 平和と土地の返還)    
    アラブが初めてイスラエル国を承認    
    シナイ半島はエジプトへ返還されたが、他はイスラエル占領のまま    
    (エジプト・サダト大統領、イスラエル・ベギン首相1913-1992ともにノーベル平和賞受賞)    
  ・1981-10 二年の後にサダト大統領はエジプト国内の反イスラエル勢力に暗殺されているByムスリム同胞団    
    サダト大統領はアラブの裏切り者となる    
  ・そしてイスラエルに対するアラブ人の抵抗運動が各地で発生    
    (1987-インティファーダというテロ行為:極めて弱い装備でイスラエルと戦い、イスラエルの残酷さを全世界に知らしめる運動)    
    この運動でイスラエルに捕えられた人は今も尚解放されていない。    
  

【レバノン内戦1975~1990で現れた武装民兵組織ヒズボラ】        
  ・第四次中東戦争1973が終わって間もなく、レバノンのキリスト教勢力とPLOを主力としたアラブ人の間で内戦が勃発。    
    レバノンのキリスト教勢力----BC64ローマ軍+12世紀の十字軍が祖    
    アラブ人勢力      ----パレスチナ難民がレバノンに押し寄せた    
  ・シリアやイスラエルが介入して泥沼化した。    
  ・レバノンでは80年代後半からイスラム・シーア派の武装民兵組織ヒズボラ(レバノン政府とは別組織)が台頭する。    
  ・ヒズボラ・シーア派の拠点はイランであったが、オスマン帝国時代に弾圧されてレバノン山岳地帯に逃げた    
  ・英タンカー炎上Byミサイル攻撃@2024(イエメン武装組織フーシ派:イランが武器供与)    
    イエメン・フーシ派はシーア派の中のザイド派に含まれる 

  ・大統領 :キリスト教マロン派(ギリシャ正教の儀式を守りながらカトリック教会に属する派である)    
  ・首相  :イスラム教スンニ派    
  ・議会議長:イスラム教シーア派から必ず選ばれる。

  ・首都ベイルートのエトワール広場周辺は星型放射線状に区画整備がされている。    
    これはフランス凱旋門周辺を参考にして設計されたらしい。    
  ・料理は定番のフムス(ひよこ豆のペースト)、ファラフェル(中東風のコロッケ)

【イスラエルとパレスチナ和解@オスロ合意】        
  ・1993年には米クリントン大統領の仲介    
    イスラエル・ラビン首相とパレスチナ解放機構(PLO 反イスラエルのゲリラ集団)・アラファト議長1929-2004の間で    
    オスロ合意が結ばれた。    
  ・内容は、    
    ①イスラエルを国家とし、パレスチナを自治政府(暫定自治)としてお互いに承認する。     
    ②イスラエルが占領した地域から撤退し、5年に渡って自治政府による自治を認める。    
     しかし多くの問題を先送りにしたままであった。    
     イスラエル人はパレスチナ国家を認める気はなく、パレスチナは裏切られた結果となって両者は衝突する。

  ・アラファト議長(1957設立ファタハ政党)が2004年11月に亡くなると(毒殺説もある)    
    12月にはパレスチナ地方議会選挙によってハマス政党が過半数の議席を獲得した。   
    ハマス政党 : 1987創設のムスリム同胞団というイスラム原理主義の一部

【イスラエル・ラビン首相暗殺】      
  ・1995/11にはユダヤ人によってラビン首相1922-1995は暗殺され、1996年にはアラブによるイスラエルに対するテロが激化する。     
  ・2000年、第二次インティファーダ(パレスチナの不満運動)が発生し、イスラエルはパレスチナ市民を攻撃、     
  ・2006年、イスラエルはパレスチナ・ガザ地区への侵攻を行った。     
    このような戦闘が治まらないのは、オバマ大統領がイスラエルに全面的に支持し、武器供与を続けていることにある。     
  ・2020/1、かくしてトランプ大統領は中東和平案を発表した。     
    内容は     
    ①パレスチナ国家の樹立      
    ②パレスチナに対する5兆円の経済支援      
    ③エルサレムをイスラエルの首都とする      
    ④ヨルダン川西岸のイスラエル入植地はイスラエルの領土とする。     
    ⑤パレスチナ難民がイスラエル領となった故郷には帰れない      
    ⑥パレスチナ軍事力は解除し、他国との同盟は認めない。      
    ⑦イスラエルは4年間は入植活動はできない。      
    ⑧イスラエルの領土の一部をパレスチナに与える      
    ⑨イスラエルはパレスチナ国家を承認する。  というものである。     
   この中東和平案は、パレスチナにとっては受け難い内容であり、・・・かくしてトランプ大統領は再選されない結果となった。。

      

コメント

【中東-0】イスラエル・パレスチナの歴史 中東戦争 ユダヤ人離散の歴史

2020年12月04日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

■イスラエル・パレスチナの歴史 : 2023-10-15 追記

 ハマス(急進派テロ組織)はパレスチナの土地を1946年の状況に戻したい
    ┗パレスチナの土地からユダヤ人を追放することが目的
           ┣4000年前 : 元々ユダヤ人の先祖アブラハムが居住---約束の地カナンへ
           ┃  先祖は遊牧民---ユーフラテス川流域から移住(ハビル人--ヘブライ人)
           ┃  アブラハムの孫でイサクの子ヤコブは神と相撲で勝利---イスラエルと名乗る
           ┃  イスラエル=イシャラー(勝利)+エル(神)
           ┃  イスラエル人は飢饉のためエジプトへ移住---迫害
           ┃  
           ┃BC16世紀 : 民族指導者モーゼによる脱エジプト 十戒石板
           ┃       モーゼ  :預言者
           ┃       アロンの杖:モーゼの兄の杖 ----ヤハウエが居る証拠として杖を蛇に変えた@エジプト王
           ┃             海を割るときに使った杖
           ┃       マナの壷 :砂漠で飢えた時にいくらでも湧いてきた餅に似た食べ物を入れた壷
           ┃       ユダヤ教に於ける御神体を入れる箱・アーク:純金で覆う
           ┃       野営のときはアークをテント(幕屋)に安置
           ┃             幕屋が諏訪大社の十間廊と酷似
           ┃             徳島の磐境神明神社にある石造神殿と酷似
           ┃ 
           ┃BC10世紀 : パレスチナに戻ると他民族が住んでいた:海の民ペリシテ人
           ┃       初代王 サウル王 :ペリシテ人である巨人ゴリアテに勝てない
           ┃       少年  ダビデ  :ゴリアテに勝利したことで2代の王となる
           ┃       第三代王 ソロモン:ダビデの息子
           ┃       「シバの女王」  :イエメンから貢物を持ってイスラエルへ来た女王
           ┃       「メネリク1世」   :二人の子 イエメン対岸を侵攻して初代エチオピア王(エチオピア建国神話)           
           ┃       エチオピア    :元々ユダヤ教徒 今はキリスト教徒 アークの箱を担ぐ祭
           ┃                 シオンの聖マリア教会:アークの箱があるという伝承
           ┃                 ソロモン王朝は1975年滅びる@ハイレ セラシエ1世1930-1974
           ┃
           ┃  
           ┃BC922  : ユダヤ王国繁栄するが南北分裂
           ┃       北側 :イスラエル王国
           ┃       南側 :ユダ王国
           ┃  
           ┃BC722  : イスラエル王国はアッシリア王国に滅ぼされる
           ┃       イスラエルの国民は奴隷化されて行方不明 :中国、東南アジア、日本へ遠征した模様
           ┃       ダン族がアイルランドに定着
           ┃  
           ┃BC586  : ユダ王国は新バビロニア(ネブカドネザル2世BC642-BC562)に滅ぼされる    
           ┃       ユダ王国国民は奴隷化 :バビロン捕囚     
           ┃       この時既に御神体を入れる箱・アークはどこかへ行った    
           ┃         ・エチオピアへ行った説    
           ┃         ・日本へ行った説 ----アークは神輿とそっくり    
           ┃         ・富雄丸山古墳発見@2023-2
           ┃       13代ヒゼキア王BC740-BC687の娘がアイルランドでダン族と結ばれてスチュアート家の祖
           ┃        →英ユ同祖論
           ┃       
           ┃       地中海を抜けて北米へ行ったユダ王国の国民リーハイ@BC600頃
           ┃       『モルモン書』に登場する民の最初の預言者
           ┃     
           ┃BC550  : バビロニアはアケメネス朝ペルシャに滅ぼされる
           ┃       ペルシャはユダヤ人を開放  
           ┃       イスラエルに帰還するとともに信仰深まる---選民思想:ユダヤ教確立
           ┃       この頃に旧約聖書ができる :アダム&イヴからイスラエル再建迄の歴史書  
           ┃  
           ┣AD70 ローマ帝国により滅亡:ユダヤ戦争---世界に散らばる:ディアスポラ 
           ┃  ユダヤ人が居た地をパレスティナと改名:ペリシテ人の土地 
           ┃  ユダヤ人はエルサレムに入場禁止 
           ┃  ヨーロッパのカトリック教徒はユダヤ人が嫌い(イエスを磔刑にしたから)  
           ┃  ミラノ勅令:宗教寛容令---ユダヤ人は年に1回だけ祈り許可@嘆きの壁(ソロモン第二神殿の西壁) 
           ┃   
           ┃【ユダヤ人の流浪】   
           ┃6-8世紀  アラビア移住        ---新都市建設 
           ┃7世紀   イベリア移住        ---イスラムに伴う     
           ┃10世紀  ライン地方に定着       ---アシュケナージ
           ┃11世紀  ヴェネツィア移住       ---金融界に従事:カトリックに弾圧:反ユダヤ多発
           ┃15世紀  オスマン帝国がユダヤ人受入  ---オスマン帝国強大化  
           ┃         オスマン帝国滅亡@1922迄の約400年間は中東は平和・安定
           ┃15世紀  レコンキスタ---イスラムに協力したユダヤ人を迫害 ---イベリア半島の遺産は受け継
           ┃18世紀  フランス革命---反ユダヤ主義  ---ユダヤ人の移住先は繁栄する  
           ┃          スペイン→フランス→オランダ→イギリス 
           ┃          ユダヤ人ネットワークで金融、貿易による富 → 迫害の原因  
           ┃          タルムード:金融貿易を行う上での規律も記載している書物 
           ┃  アレクサンドル3世によるユダヤ迫害@ロシア---アメリカへ移住             
           ┃  
           ┃  
           ┣約束の地へ帰ろう運動:シオニズム運動 @19世紀  
           ┃  シオンの丘(ダビデ王の墓)に戻る   
           ┃  ヘブライ語復活
           ┃ 
           ┣アラブ人が居住していた@オスマン帝国支配下   
           ┃  当初はアラブとユダヤは共存(元々はアラム語という同じ言語をしゃべっていた兄弟) 
           ┃ 
           ┣英はオスマン帝国打倒@WW1のためにアラブ人、ユダヤ人を利用
           ┃  パレスチナ内部分断政策
           ┃  
           ┣英はパレスチナの地を割譲相談 ---3枚舌外交---英撤退  
           ┣ユダヤ人移民制限 By米クーリッジ大統領@1920代 
           ┃  因みに日本人移民も制限された
           ┣ナチスのユダヤ人迫害@1930年代---米への亡命困難---パレスチナへの移動が急増 
           ┃ 
           ┗イスラエル建国@1948国連主導---アメリカのバックアップ
             ┣アラブ人も居住(パレスチナ人)---イスラエルが武力奪取?---アラブ人の亡命・難民化
             ┃                 土地をアラブ人から購入したはず 
             ┃                 
             ┗聖地エルサレムの場所で揉める ---中東戦争@1948-1973
               ┣パレスチナ解放機構誕生 :PLO--アラファト議長 @1964
               ┃   エジプト・サダト暗殺@1981 
               ┣パレスチナ国宣言---欧米先進国は未承認 @1988
               ┗オスロ合意 @1990---お互いの存在を認める:アメリカ仲介
                 ┣ガザ、ヨルダン川西岸地区--パレスチナ領土
                 ┃ アラファト議長はイスラエルと妥協@1993
                 ┃ イスラエル・ラビン暗殺@1995
                 ┃ アラファト議長死去@2004---毒殺?
                 ┃ 
                 ┣パレスチナ人は ヨルダン川西岸地区を実効支配
                 ┣合意反対する武装勢力=ハマス
                 ┗ハマスは   ガザ地区(封鎖状態)を実効支配@2007  ⇔ パレスチナ
                          天井の無い監獄---流通不能---貧困化
                          ハマスの軍事行動の裏には黒幕?(イラン?ロシア?)

■イスラエルの歴史

BC2000  カナン人

BC1300  ペリシテ人

BC1000  ヘブライ人 : ペリシテ人(パレスチナの語源)と争い勝利
              ダビデ: ソロモン王:紋章が六芒星
      400年に渡ってエジプトで奴隷生活していたユダヤ人をモーゼは引き連れてシナイ山に上る(頂上にはモーゼの教会がある)
      やがてユダヤ人が故郷カナンの地へ行くと、ペリシテ人が住み着いていて争いとなる。
      怪獣?ゴリアテに投石して勝利する。この瞬間の石像がミケランジェロのダビデ像。
      つまりダビデが勝利して第二代の王となる@イスラエル王国。
      その息子が第三代ソロモン国王で神殿建設。ソロモンの死後北側イスラエル王国、南側ユダ王国に分裂する。

BC586  バビロンの王・ネブカドネザル2世BC642-BC562はエルサレムを攻略
      ユダヤ王国を征服し(7割死亡)、ユダ王国のユダヤ人を捕虜(バビロン捕囚:3割 BC586-538)として連行された
      鉄壁のバビロニア王国であったが、メドペルシャBC538-331(メディア人)のアステュアゲス王BC585-550に征服される

BC550  バビロニア王国が亡び、ユダヤ人捕虜は自由の身となり(BC550年)イスラエルに帰る
      これだけ苦しんだユダヤ人---選民思想

BC4-3世紀 ユダヤ教誕生
       かくしてユダヤ人はカナンの地を自分たちの故郷だと信じている
       ユダヤ人はこの地のことを「カナン」と言う 「パレスチナ」とは言わない
       パレスチナは欧州民族が付けた名前 (ペリシテ人が住んでいたとことだから)
       欧州人は決してカナンとは言わない(欧州人はユダヤ人が嫌いだから)
        ユダヤ人=イスラエル人
        アラブ人=パレスチナ人
        実は両方ともアフロ・アジア語族 セム語系

BC1世紀  ローマ人  : 征服した相手の文化を尊重
              ユダヤ人は独立願うが叩かれて離散(ディアスポラ) → 主にスペインへ

1世紀   キリスト教誕生: ユダヤ人を徹底的に迫害(特に中世以降)
              シナゴーグ建設禁止
              ユダヤ人はキリスト教世界ではやってはいけない職業(金貸し)をせざるを得なかった
              ユダヤ人は金持ちになる → キリスト教徒から嫉妬

610    イスラム教誕生 By アラブ人 (ユダヤ教、キリスト教を模範 → 穏健)
              ユダヤ人は啓展の民(神の言葉を共有する者)
  
            キリスト教徒による侵攻のため、やむを得ず戦う → 分派していく

      ①BC312:アレクサンドロス侵攻
           セレウコス朝シリア成立
      ②BC192:ローマ帝国侵攻
      ③7世紀:アラブ人による侵攻
      ④11世紀:十字軍侵攻
           →キリスト教徒がいる@レバノン

  
      アサド政権→シーア派分派アラウイ派が支持
          (グノーシス思想:イスラム教+キリスト教)          十字軍国家@11~12世紀

       

0637  イスラム勢力拡大: カーディシーヤの戦いでササン朝ペルシャ軍を破る
0642  ペルシャ滅亡  : ニハーヴァントの戦いでササン朝ペルシャはイスラム勢力によって滅亡
              ササン朝ペルシャ・ヤズダギルト3世は死亡@651              
              イランのイスラム化 発展の為にイラン人(優秀)を補佐に付ける

1096  十字軍遠征   : ローマ教皇は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の援軍要請に従う :聖地エルサレムを異教徒から奪還
              キリスト教徒は内戦を止めて、イスラム教徒からの聖地エルサレム奪還を目的として遠征する
              キリスト教徒は自国内に居る異教徒(ユダヤ人)の存在に気付く
              ユダヤ人も巻き込まれて迫害される(ユダヤ人虐殺の始まり) : ユダヤ教徒はイエスを殺害
              ユダヤ人の職業はキリスト教が禁止していた金融業 → 都市の発展に貢献
              迫害された大量のユダヤ人が難民となり、行った先は
               ①イベリア半島(イスラム世界)----スファラディ 
                 14世紀に移動
                 1492レコンキスタ完成するとベネチア、オランダ、イギリスへ移動
                    これらの国は商業、金融で大発展する
                    ユダヤ人を迫害、退去させたスペイン、ポルトガルは衰退する
               ②ポーランド(モンゴルによる虐殺で人口激減)----アシュケナージ
                 14世紀 :カジミェシュ3世1310-1370がユダヤ人を受け入れ経済発展
                 アシュケナージの起源はハザール王国のユダヤ人(第13支族)と主張
                   By アーサー・ケストラー1905-1983
                 したが、これは全くの間違い(最近のDNA、言語研究による)
               ③北アフリカ ----オリエント・ユダヤ人  

1453    ビザンツ帝国滅亡 Byオスマン帝国

15世紀   ルネサンス

16世紀   宗教改革  : プロテスタント誕生
                →ユダヤ人に寛容
                →オランダは発展 Byユダヤ金融     後にナチスにより迫害
                →ポーランドは発展 Byモンゴル侵攻防止 後にアウシュビッツ強制収容所建設

              カトリック教会
                →ユダヤ教を共通の敵とすることで団結
                →ユダヤ人をゲットーに隔離 
                →ユダヤ居住地のスラム化

16世紀   オスマン帝国:  トルコ人・イスラム教徒が支配
               税金さえ納めれば宗教混在問題なし
               トルコ人(スンナ派) ⇔ イラン人(シーア派 サファヴィー朝)

1776    アメリカ合衆国独立:理念は自由の国
                →多くのユダヤ人が移住
                →ユダヤ人社会の形成
                →金融、経済、科学、芸術発展

1789    フランス革命   :ユダヤ人差別廃止

1848    二月革命     :ユダヤ人差別廃止 →反ユダヤ主義も現れる 

18世紀   イスラム新宗派誕生:ワッハーブ派(アラブ人目覚めよ) 大富豪サウード家が支持
                アラブ人はトルコ人、イラン人に迫害され、アラビア半島に追いやられていたから

19世紀   ナポレオンは世界に向けて自立を煽る(民族主義) → ドイツ統一、イタリア統一
                国を持たないユダヤ人は虐められる : ポグロム@ロシア
                多くのユダヤ人@ロシア はアメリカへ渡る(アシュケナジ) → アメリカ経済発展
                欧州に残ったユダヤ人(セファルディム アンネの日記)は故郷を作ろう運動
  
               → @シオンの丘(ダビデ王の墓 最後の晩餐の絵のモデル地)
                 → シオニズム運動 :ドレフェス事件@1894
                             仏陸軍大尉ドレフェスがドイツのスパイ容疑で逮捕
                             ドレフェスの祖先がユダヤ人
                             取材をしていたテオドール・ヘルツルが「ユダヤ人国家」を執筆
                             主旨:ユダヤ人に住めるヨーロッパは無い、移住しよう
                 ・独立建国を目指すイスラエルにとって敵はオスマントルコ
                 ・英はユダヤ人に建国をほのめかす:帝国主義勢力 
                 ・資金は欧州ロスチャイルド家  :国際金融資本勢力     

1922年  オスマン帝国滅亡
     ・オスマン帝国の時代からトルコ人(北部在住)とアラブ人(南部在住)が仲が悪いが・・・
     ・約600年間民族的宗教戦争はなかった
     
     英の政策によって中東戦争は始まった          
     ・欧州列強はオスマン帝国の内部紛争を利用
     ・ロシアはバルカン半島のキリスト教徒支援の名目で軍隊を送り込んで奪い取る
     ・イギリスは植民地インドへの綿製品輸送の為、エジプト(英が支援)をオスマンから分離 :スエズ運河買収
     ・イギリスは植民地インドへの綿製品輸送の為、トルコ内のアラブ人を英が支援することでオスマンから分離
     ・オスマン帝国内のユダヤ人(迫害はされていない、宗教は自由)のシオニズム運動を英が応援
        英は、これを利用してユダヤ人を傘下にすれば交易が容易になると企んだ
        この企てに英ロスチャイルド家が投資
     
       
        
■第一次世界大戦                    
1914  第一次世界大戦 : によってオスマン帝国は崩壊する
     ・独 VS 露+英 
     ・露と抗争中のオスマントルコは独に付く
     ・英は独と結ぶオスマントルコを敵にまわす
      英はオスマン帝国を滅亡させるためにアラブ人、ユダヤ人を利用915-07 【フサイン・マクマホン協定】
     ・英はアラブ独立を餌にフサイン(ハーシム家:ムハンマドの家系)を懐柔
      ヘンリー・マクマホン1862-1949が(英弁務官で、エジプトを治めていた)フサインに軍事援助を提案
      一方サウード家(地方豪族だがコーランに忠実なワッハーブ派)は → 対ハーシム家反乱 
      混乱のなか、フサインはオスマン帝国に惨敗@1916

       
          
1916-5 【サイクス・ピコ秘密協定】 
      オスマントルコを以下図のように分割 → ハーシム家の思惑とは違った
      英は以下を両王子に持ち掛ける代わりに英軍駐留を認めさせる      
      ・イラク共和国の王      :ハーシム家ファイサル王子 
      ・ヨルダン・ハシミテ王国の王 :ハーシム家アブドラ王子  現在はアブドラ2世1962-

      
               
1917-11【ヴァルフォア宣言】
     ・英はイスラエル独立を全面的に支援=独と戦争
     ・英ヴァルフォアがユダヤの資本家に資金調達 シオニズム運動条件@1917
     ・相手は英系ユダヤ人のライオネル・ウオルター・ロスチャイルド 
     ・ユダヤ人はイスラエル建国 
    【建国条件】
      英軍駐留    ----傀儡政権(オマーン、クエート、バーレーン等々も同様)
      地下資源は英支配

       
           
1918-10  英はトーマス・ロレンス陸軍将校1888-1935を指揮官に送り込むことでトルコに勝利 
      フサインはヒジャーズ建国
         ・1920代 :  反発したのがサウード家(教典遵守)
          1924-10    ヒジャーズ王国滅亡----キプロスに亡命 
                  サウード家はサウジアラビア王となる 
                  1951油田発見----米ロックフェラー財団資金提供
                                                

1918    パレスチナ問題勃発 オスマン帝国 VS 大英帝国
                 ドイツ    VS フランス
                 オーストリア VS ロシア@バルカン半島 
  
   
         仏露とオスマン帝国の領土分割
              (後のシリア、レバノン、ヨルダン、イラクとなる:アラブ人)
              (英のパレスチナ地区は独立できず委任統治)
                →多数のアラブ人と少数のユダヤ人:嘆きの壁事件@1929
                →ユダヤ人激増@1930年代:ナチス
                →土地 : アラブ94% 
         反ユダヤ主義@ドイツが高まる ;敗戦の原因はユダヤ人の裏切りと主張 
           →ユダヤ人の市民権はく奪
           →ユダヤ人虐殺:ホロコースト
1922    オスマン帝国滅亡
        1299年建国のトルコはイスラム教:税金さえ払えば宗教に寛容な国で、700年間争いはなかった
        異教徒であっても大臣、軍人にもなれた
        元々中東は安定して平和な地域であったが、
        イギリスの帝国主義政策によって各地で紛争が勃発したのである
        
        以降、中東の各地域は英仏が委任統治(国連に委任されたので植民地ではないという理屈)
        因みに日本はWW1で戦勝国 マーシャル諸島、カロリン諸島を委任されている           

1932     サウジアラビア国家建設
        ハマスを指示していたサウード家は ハマスを見捨てた

■第二次世界大戦後
1945     WW2で英勝利するが労働党政権

1945     英はパレスチナとインドを手放す

1947     パレスチナは国連へ → 土地を94:6 から1:1に 
        ・不平等 By ユダヤ・ロビー:1948選挙を匂わす・・・ 
         当時の米トルーマン大統領は民主党(移民推進) 
        ・イスラエル建国宣言 
         かくしてユダヤ人のバックが英から米・民主党政権に変わる  

       

■第一次中東戦争
1948     第一次中東戦争(パレスチナ戦争)  
        ┣周辺アラブ諸国がイスラエルに侵攻  
        ┣アラブ惨敗   
        ┃ ・プロの軍人が大勢いたユダヤ人は、英撤退の時の武器を使用 
        ┃ ・周辺アラブ諸国(ヨルダン、イラク等)は英の傀儡政権  
        ┃ ・周辺アラブ国王への反発
        ┃ ・王政打倒してアラブ国家建国を目指す→後にアラブ革命運動
        ┃ ・ソ連が革命を支援         →東西冷戦@1960年代 
        ┣トルコ(98%がスンニ派)、イラン(90%がシーア派)は中立  
        ┣土地は43%から25%に減 → パレスチナ難民 約100万人  
        ┣ガザ地区    :エジプト併合  
        ┣ヨルダン川西地区:ヨルダン併合  
        ┗エルサレム東西分割---嘆きの壁はヨルダン領

【シリア・アサド政権とアラブ社会主義時代】

         

        
    
1952     アラブ革命@エジプトBy青年将校中心の自由将校団(リーダー・ナセル大佐) : 国王追放
    
1953     スターリンのあと、フルシチョフ1894-1971政権@ソ連:初訪米       
         

■第二次中東戦争
1956     第二次中東戦争(スエズ戦争)  
        ┣エジプトはスエズ運河国有化宣言  
        ┣英仏はイスラエルを盾にしてエジプトと戦う 
        ┣ソ連フルシチョフは核をちらつかせてイスラエル侵攻を侵略戦争と非難 
        ┣イスラエル、英仏は米(当時共和党アイゼンハワー)に援護願うが拒否(米ソは雪解け状態) 
        ┣英仏はイスラエル侵攻を諦めて撤収(英首相:イーデン)---停戦By国連
        ┣英仏を撤退させたナセルは英雄→各地でアラブ民族主義が広まる
        ┗周辺アラブ諸国がイスラエルに侵攻

1964     パレスチナ解放機構PLO :アラファト議長
        ┣イスラエルに追われたアラブ難民が一致団結して組織
        ┣武装組織にはソ連が武器提供
        ┣英仏撤退のイスラエルは孤立
        ┗そこで仏から核開発技術を受け継いで核兵器を持つ?真意は不明

■第三次中東戦争
1967     第三次中東戦争  
        ┣イスラエルが周辺アラブ諸国に奇襲
        ┃ イスラエルはエジプト及びシリアの基地を空爆
        ┃ イスラエルの戦車部隊が侵攻
        ┃ シリアからゴラン高原(水源)を奪取
        ┃ シナイ半島占領
        ┃ ガザ、ヨルダン川西岸に侵攻
        ┣アラブ惨敗  
        ┣ヨルダン領、エジプト領、シリア領を占領---国土拡大
        ┣パレスチナ難民 約350万人 
        ┗アラブは国連に訴える 国連は非難決議をするが、アメリカが拒否権発動

1969     アラファト議長1929-2004(パレスチナのゲリラ・テロ指導者)

1972     黒い九月:ミュンヘン事件

■第四次中東戦争
1973     第四次中東戦争  
        ┣周辺アラブ諸国がイスラエル奇襲
        ┣アラブ惨敗  
        ┗石油価格高騰:戦略

1978     イラン革命1月:ホメイニ中心パフラビー政権を奪取 イスラム共和主義革命

1979     エジプト・イスラエル平和条約 : エジプト・サダト大統領暗殺@1981   
        ┗アメリカの時代

1981     エジプト・サダト大統領暗殺

■(第五次)中東戦争
1982     第五次中東戦争  
        ┣イスラエルによるレバノン侵攻 バックは米  
        ┣アラファト議長がレバノンに逃亡  
        ┣南レバノンはイスラエルによって支配される(窃盗強姦)  
        ┗パレスチナによる自爆テロが始まる(シーア派民兵組織:ヒズボラ@レバノン 超反ユダヤ)

1987     第一次インティファーダ(民衆蜂起) : 国際世論に訴える By 動画

       インティファーダの指導者&パレスチナ人が結束 : ハマス(スンナ派武装組織)

1988     パレスチナ国独立宣言

1993     オスロ合意:ガザ地区、ヨルダン川西岸はパレスチナに戻る:暫定自治

1995     イスラエル・ラビン首相暗殺

1996     アルジャジーラ:カタール国営放送

2004     アラファト議長死亡・暗殺?

2005     引っ越しに12年かかった(ガザ地区からユダヤ人完全撤退)
        イラン  :アフマディネジャド大統領に就任(イスラエルは地図から消えるべき発言)
              ナタンズ核施設がサイバー攻撃受ける@2010  
              イランの核開発技術者モフセン・ファクリザデ暗殺@2020 
        イスラエル:イラン--ブッシェル原発、ナタンズ核施設を脅威に思う 
              諜報特務局モサドはイランの核開発阻止活動?

2006     パレスチナ総選挙 ハマス(過激派)◎ VS ✖ファタハ(アラファト穏健派) 

        イスラエル軍がガザ地区侵攻
        イスラエル軍がレバノン侵攻(地下豪組織)→国連介入無視

2007     ハマスはガザ地区を実効支配

2015     核合意:イランはIAEAよりも厳しい内容で核関連活動を行う 
            欧米はイランへの経済制裁解除

2018     米トランプ政権は核合意離脱+イラン原油禁輸 
        米バイデン政権は核合意復帰姿勢:イスラエル・メタニヤフ首相1949-反対 
        5月イスラエルはイラン革命防衛隊基地を攻撃

2020-7-2   イランのナタンズ核施設がサイバー攻撃受ける             

■パレスチナ・イスラエル戦争
2023  10月開戦:ハマス(急進派テロ組織)によるイスラエルへのロケット弾攻撃
    10/7    レイム音楽祭虐殺事件 :1139人のイスラエル人を殺傷、人質
          イスラエルはハマスの本拠地パレスチナ・ガザ地区を攻撃
            因みにイスラエルは建国以来多くのパレスチナ人を虐殺
            イスラエル国防軍反撃(パレスチナ側に数万人の死傷者)
             *パレスチナの土地を1946年の状況に戻したい 
             *イラン・アブドラヒアン外相1964-はイスラム組織ハマス指導者ハニアと会談
    11月  :休戦    

2024  英タンカー炎上 Byミサイル攻撃(イエメン武装組織フーシ派:イランが武器供与) 
    4月  イスラエルはイラン大使館(領事館)@シリアを攻撃 13人死亡
         → 国際法違反
         → イラン報復宣言(ライシ大統領) 
                        
    4/14  イランはイスラエルにドローン、弾道ミサイル攻撃 → イラン革命以来初の直接攻撃 
    7月  イスラム組織ハマス指導者ハニア氏暗殺       → イラン報復宣言
    9/17  ヒズボラのポケベル(浙江財閥の下請け製)爆発@レバノン Byイスラエル 
         →ヒズボラ=ヒズボアラー(神の党)
         →イランの革命防衛隊が作った組織
    9/28  ヒズボラ指導者ナスララ師(中東では影響力がある)空爆殺害 Byイスラエル 
    9/29  レバノン空爆 Byイスラエル
        ヒズボラ@レバノンを支援するのはイラン
        イランとイスラエルの対立激化
    10/1  イスラエルはレバノンに地上侵攻 
    10/2  イランはイスラエルに弾道ミサイル攻撃180発以上(to諜報機関モサド
         →イスラエルは迎撃したと言うが、着弾確認された
        諜報機関モサド :浙江財閥のサプライチェーン
        イランのミサイル:浙江財閥製
    10/2  イスラエルはレバノン(シーア派過激組織ヒズボラの本拠地)空爆、地上侵攻を激化:報復姿勢
     ?  イスラエルはイランの石油精製施設or核施設狙う?
        

2025  1月19日~42日間の停戦
     イスラエル停戦協定違反
     ・違反するイスラエル過激派----シオニズム
     ・少数与党メタニヤフ首相はシオニズムとの連合
     ・ガザ地区有効利用構想(リゾート化)Byトランプ大統領----パレスチナ住民はアフリカに転居
       ・アラブ諸国も同意?
       ・ハマスとパレスチナ住民を切り離すことは困難?
       ・パレスチナ住民はハマスを支持していないが・・・     

コメント

【東南アジア-6】 フィリピン・マルコス独裁政権と民衆革命

2020年12月04日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

時代別の東南アジア各国の王朝案内図

第10代マルコス大統領1917-1989政権 
 ・当初は反共産主義を掲げて西側諸国と連携をとりながら工業化、 
 ・貿易の自由化を目指していたが、 
 ・1972年頃から独裁政権の色合いが濃くなり、国の成長はマイナス、失業率も6%から12%に増加した。 
 ・すると今まで支援していた米レーガン大統領は批判、 
 ・反マルコス派のデモが各地で発生する。  
 
 ・1986年の選挙ではマルコスは勝利するものの、不正選挙があったとしてフィリピン市民はマニラのエデゥーサ通りに集結。 
 ・その数は100万人にも達したという。これをフィリピン民衆革命といい1986/2/22-2/25迄続いた。 
 ・この時米レーガンは市民への武力鎮圧はすべきではないと警告したのに対して、ソ連ゴルバチョフは米を批判した。 
 ・1986/2/23にはマルコス大統領は、タディアル司令官率いる海兵隊を出動させて、武力による市民の鎮圧を命令したのである。 
 ・これに対してデモ市民は「命をかけて一歩もひかない」 
 ・タディアル司令官は市民を虐殺してまでデモ行進を止めることはできないと、命令を無視しデモ市民と和解して戦車を退却させた 
 ・これを皆は「Peaples Powerの奇跡」と呼んだ。 
 ・すると翌日の2/24には国軍兵は反乱軍側に寝返り、翌2/25にマルコス大統領は米軍ヘリにてハワイへ亡命し、 
 ・これをもって独裁政治は終焉を迎えた。そして新たにコラソン・アキノ1933-2009が第11代大統領に就任した。 
第11代大統領コラソン・アキノ1933-2009  
 ・ベニグノ・アキノ1932-1983(暗殺)の妻  
   →マルコス政権により危険人物として国外追放となっていたが  
    米国から帰国の1983年にマニラ空港で暗殺される  
    犯人は一般市民とされたが、実はフィリピン兵  
第17代ボンボン・マルコス大統領1957- :ドゥテルテ大統領の独裁よりいいか? 
 ・第10代マルコス大統領の息子 
 ・岸田文雄と会談@2023日本 
 ・

 

コメント

【東南アジア-5-1】 破天荒な国王ゆえデモが頻発するタイ

2020年12月04日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

時代別の東南アジア各国の王朝案内図

 

タイ国王の王室財産は世界最大4.7兆円と言われ(米経済雑誌フォーブス掲載)、現在非難をされているタイ王国、6800万人、21歳から2年間の徴兵制では毎年4月にくじ引きで決まる。95%が仏教徒で出家することが望ましいとされる。

13世紀- タイ族
     ・北方モンゴル系
     ・中国雲南地域、広西省地域からチベットと混血しながら南下
     ・以前はカンボジアのクメール王朝に支配されていた
     ・現在のタイは昔はカンボジア(南方チャム族:ベトナムにも多い)だった
     ・スコータイ(幸福な夜明けの意味)王朝時代が最初:
     ・ラームカムヘーン大王1239-1299 :タイ文字、仏教を国教----インド文明

15世紀- アユタヤ王朝 
     ・ビルマと戦って(1759-1760泰緬戦争)タイ王国を作った(海外との交易は盛んだった)
     ・この頃、山田長政1590-1630が長崎から台湾経由でタイに来て、
       揉めていたリゴール王国(マラッカ)に派遣され平定@1629
       リゴールの長官となる
       外からタイへの侵略を防いだことで国王からの信頼を得た
       嫉まれて毒殺される

1767-  やがてタークシン王がトンブリー王朝(1767-1782)を建国した。

1781-  ラマ1世1737-1809 :宮廷クーデターによりチャオプラヤ・チャクリーが即位(チャクリ王朝)バンコクを作って首都とする
     ┗ラマ1世1767-1824
       ┗ラマ2世1767-1824
         ┣ラマ3世1808-1871  (法廷医)
         ┗ラマ4世1804-1868  (モンクット王)バウリング条約 50バーツの肖像
           ┗ラマ5世1853-1910 (チュラロンコン大王)日本が明治の時代に統治 奴隷解放
             ┣ラマ6世1881-1925 (100バーツの肖像)
             ┣ラマ7世1893-1941 (最後の絶対君主)
             ┗ソンクラーナカリン1891-1929(タイ医療の父)
               ┣ラマ8世1925-1946 (マヒドン国王)20バーツの肖像 国政を考えることもなくスイスで過ごす
               ┗ラマ9世1927-2016 (プミポン国王)
                 ┗ラマ10世1952- (ウチラロンコン国王)     

1868   ラマ5世 :中国だけに依存せずに他の国の文化・産業を取り入れて植民地化を避けようとした
           ・因みにタイの最高峰の大学はチュラロンコン大学である
           ・彼の行った業績(インフラ、教育、政治などなど)
           ・列強英仏(カンボジアやビルマに対しては属国として保護するよの姿勢だった)は手が出せなかった
           ・タイは唯一植民地化されずに独立したのである。

1910   ラマ6世 : 第一次世界大戦に参戦すると同時に終戦
           ・華僑がタイ経済を握る
           ・華僑の事を「東洋のユダヤ人」と言った

1925          統治時代には官僚・人事の合理化、立憲君主制、所得・土地税制導入を行った

1932   すると反対勢力の人民党により立憲革命(1932/6)が起きて、独裁政治が始まるのである。

1935   王族はこの独裁政治に対立して英に逃れラマ7世は退位、新しくラマ8世(ラマ5世の兄弟)が即位
      ・国政を考えることもなくスイスで過ごしていた
      ・代わって国政に携わったのはピブンソンクラーム首相
      ・国王が不在であることをいいことに、王宮財産を着服して華僑同化政策を行った
      ・太平洋戦争が終わり、1945/12にラマ8世は帰国すると翌年王宮にて怪死した。

1946   ラマ9世(人気高いプミポン国王)即位

1957   ピブンソン首相が不正選挙を行ったとして追放、かわってサリット将軍が政権に就いた。
      ・以降国王の復権を行い東南アジアのバランスをはかり、東南アジアでは唯一植民地化されずにきた。
      ・今までのナショナルデーは、チャクリ王朝建国日から革命記念日になっていたが、国王の誕生日をナショナルデーとした。      

1946年/06  ラマ9世:プミポン国王1927-2016    : 
      ・絶大な国民の支持があった。
      ・これは1992年の暗黒の5月事件でクーデターを起こした軍隊に反発した民衆がデモを起こし、
      ・軍隊の発砲により300人が犠牲になった。
      ・これに対してプミポン国王は両者の代表を宮殿に呼んで仲裁をして解決したということがきっかけである。

2010年/03  タイ・タクシン元首相派のデモ隊がアピシット首相宅前で血液デモ(血の抗議)

2014年/05  国軍・プラユット将軍1954-が軍事クーデターを起こし、以降軍事独裁政権

       暫定政権の首相にプラユット : 政権に有利なように選挙制度を変更 

2016年/10  プミポン国王の死去に伴いラマラマ10世即位(ワチラーロンコーン国王1952-) 
      ・イギリス、オーストラリアで青年時代を過ごし、国王としての素養を身に着けてきたのか?
      ・どうやら違っているようで、4度の結婚3度の離婚、正装すべき場でもTシャツにジーパン?
      ・現在はドイツで贅沢三昧の生活を送り自国の政務を行わないため、国民の反発・不満は大きい。
      ・タイ始まって以来のダメダメ王である。王戴冠式でもちょっと待ってね・・・ということで2年半待ち。
      ・最初の結婚は24歳の時だが妻・ソームサワリーとは数年で破綻、
      ・つぎの妻・ユワティダーとは王宮の外で同棲生活して5人の子供をもうけるが、一家は王室に馴染めず行方知れず。
      ・長男には王位継承権があったはずが、剥奪・・・。どうしたことでしょう。
      ・3番目の妻はシーラット、14年ほど結婚生活があったが、
      ・その間にシーラットと皇太子が一糸まとわぬ姿で踊っているところをすっぱ抜かれてネット公開。
      ・またドイツへ出かけたときの空港での写真は刺青+おぎょうぎの悪い姿で世界中を驚かせた。
      ・シーラットとの間の男子が王位継承権があるのですが。
      ・2019年4度目の結婚相手はCA・スティーダー王妃40才と、この時国王は66才。ですが既に6人目の噂が。

2017年/03  日本天皇陛下タイ弔問 

2018年/04  タイ・タクシン元首相1949-(2006年に失脚)、
      ・インラック前首相1967-(2014年に失脚)が独裁軍事政権を批判

2020年/08  タイ王室を巡って市民同士の対立、
      ・国王の贅沢三昧の批判が不敬罪にあたるかどうかについて盛り上がっている。
      ・独裁政治への不満、コロナが落ち着いているのに緊急事態制限を解除しないプラユット首相への不満が原因でもある。

2020年/08  タイ王室式典

2020年/10  再びデモが開催される予定

コメント

【東南アジア-4】 インドネシア・スカルノ大統領は独立の父

2020年12月04日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

時代別の東南アジア各国の王朝案内図

 

5年ほど前、インドネシアの高速鉄道建設を日本が逸注!という新聞記事を読んだ。中国に持っていかれたのである。ジャカルタ-バンドン間の高速鉄道2015年計画の概要は建設距離が150km、中国の受注金額55億米ドル(周辺道路等々の建設整備費用含む)。逸注したときは既に現地の土壌調査や基本設計などは済んでおり、その情報は全て中国側に漏れていたという。ところが、現在インドネシアと中国は揉めに揉めている。2019年からの開業予定だったが、現在工事は50%程度しか進んでいないという。従って開業見込みは2023年というが、それも怪しくなってきた。しかも、中国がイランで手掛けた鉄道建設(建設距離:400km)の建設費用が27億米ドルに対して高すぎるというから、契約の杜撰さがよくわかる。ところで、インドネシアの歴史について触れる。

紀元前1世紀 インドの商人が往来してヒンドゥー教の影響を受ける

5世紀頃   ボルネオ東部にクタイ王国、ジャワ西部にタルマヌガラ王国が繁栄

7世紀頃   ジャワ西部にスンダ王国

11世紀    ムスリム商人の往来、16世紀にはスマトラ島部はほとんどがイスラム化

16世紀    大航海時代が到来してヨーロッパ勢力(ポルトガル、イギリス)が香辛料を求めてくる

1602年    オランダ東インド会社(拠点:港町ホールン)がジャワ島に進出してオランダによる植民地化 ジャカルタを本拠地にする

途中省略

1941年12月  日本陸軍5500名が上陸。太平洋戦争の始まりである。もちろん日本の目的は石油資源の確保。当時日本の石油消費は年間500万トン。対してインドネシアで制圧した石油資源は300万トンであるから死守したかったのである。この石油確保を条件にスカルノ1901-1970を解放し独立を保障したと知らされているが・・・。スマトラ島南部のバレンパンには落下傘部隊が(1942/2/14)、ジャワ島・バタビア(今のジャカルタ)には100隻の船団で上陸(1942/3/1)して蘭、英、米の植民地政庁を無条件降伏させた。かくして現地では軍政が敷かれ石油の価格を半額とするなど歓迎を受けた。またマレー人独立運動家は、これを機に独立を期待して日本軍に協力した。ひと月も経たないうちに制圧できたのにはスパイの存在があったという。数年前から日本人スパイが料理人、散髪屋として潜入し攻略のために現地の地理などを探っていたという。 

大日本帝国・大本営が示した行政実施要領

日本軍は、1943/10/20にジャワ防衛義勇軍PETAを結成した。目的はインドネシア独立には義勇軍が欠かせないとして日本軍が精鋭を育てるためなのか、日本軍が今後の自己軍力を拡大するために現地人を教育して補助組織を作ったのか・・・。ともかく1945/2/14、PETA部隊総司令官スディルマン将軍は日本軍に対して反乱を起こしている(ブリタル蜂起)。当時物価は10倍以上に高騰して食料・衣料などの物資は不足し、あちこちで餓死者がでるなど日本の圧制に対する反感があったのは事実である。これらに関する記述は日本軍・柳川中将の手記から明白。インドネシア・ジャカルタの南40kmのボゴール市にあるPETA博物館には、当時の様子がジオラマで紹介・展示されている。

インドネシア人労務者数は200万人にも達した @PETA博物館

鉄道、道路、基地建設で労働を強いられたインドネシア人労務者 @PETA博物館

日本人に対するインドネシア人の意識調査結果 By日本外務省

1945/8/15に日本が敗戦すると、スカルノは大統領として即位、インドネシア共和国憲法を採択して1945/8/17に独立宣言を行った。すると蘭英軍が再びインドネシアに侵攻してきたため、インドネシア独立戦争が始まった。この戦争は1949/12迄4年半ちかく続くことになる。このときに戦った主力は独立義勇軍PETAであるが、日本兵の残党約2000人も一緒に戦ったのである。そして約半数が戦死、インドネシア・ジャカルタのカリバダ英雄墓地には27名の日本兵が眠っているという。

独立後(ハーグ協定)政権を握ったスカルノ大統領であったが、デヴィ夫人との結婚など日本との友好は保つものの内政は混乱、外交と経済背策の失敗、1960年以降は西欧諸国と対立するようになる。つまり西側諸国の企業資産を接収して新たな外資の導入を禁止した。そして中国の支援を受けるという親中政策をとったために、西欧からの経済制裁による食料不足、500%以上のインフレを招いた。核開発の支援等々、中国毛沢東と蜜月の仲になるなか、1965/9/30に9月30日事件というインドネシア共産党・シャムスリによる国軍首脳部暗殺事件が起きる。スハルト1921-2008勢力がすぐに鎮圧したが、その後国内では共産党狩りが行われて数万人が死亡した。(ドミノ理論として西欧諸国には歓迎)スカルノ大統領は事件の関与を疑われるなどもはや求心力は無く失脚して不遇の晩年を送っている。そして1967年スハルトは大統領に就任した。

コメント

【東南アジア-3】 カンボジア:アンコールワット & 最悪なポルポト政権 

2020年12月04日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

時代別の東南アジア各国の王朝案内図

 

現在2023-4-27のカンボジア・プノンペン(人口230万人)は中国資本が急速に入り込み、その結果高層ビル、マーケット等々が立ち並び、道路網等のインフラも整備されて、住民にとっては極めて快適な状態になっているだろう(コロナ前2018年との対比)。フン・セン首相は中国と深いつながりがあり、経済・貿易・開発・農産・インフラ・メディアの面で協力調印を実施@2023-2-13  2023年内に中国人80-100万人規模の誘致実施予定。

通貨はリエル(=0.033円)であるが、中国元(=19円)が使える。市内の東横インレベルのホテルは1泊約4000円 4月末は「水かけ祭」

プノンペンのリバーサイドの食事は観光客価格 : パスタが約1000円 今の日本人にとってはカンボジアの食事が高くて食えない・・・・。ローカル食堂の場合は炒飯250円

 

 

1954 カンボジア独立 : ノロドム・シハヌーク1922-2012:カンボジア王族ノロドム家--親中派

1965 北爆でカンボジア空襲被害 : シアヌークは米と国交断絶

1968 パリ和平会談 テト攻勢、反戦運動

1970 米軍カンボジア侵攻

   ロンノル政権:米軍のいいなりのカンボジア親米政権 

   ポルポトはクメール・ルージュ結成:農民ゲリラ--親中

   プノンペンは崩壊

1973 米軍撤退@ベトナム --- ロンノル VS ポルポト

1975 ロンノル失脚 ポルポト政権誕生 プロレタリア大革命

1976 ベトナム南北統一---職業軍人があふれ、治安悪化---

1979 ヘン・サムリン政権  カンボジア制圧Byベトナム軍

1791 カンボジア王国 首相:フン・センほぼ独裁:バックにベトナム

   アンコールワット周辺はベトナム資本 

 

【アンコールワット@1150頃:お寺の首都という意味】

首都プノンペン@1866から北西に250km、アンコール遺跡群(60もの王宮)のひとつ、。1150年頃は王の座を争う時代、王となったのは王はスーリヤヴァルマン2世?-1150、ヒンドゥー教の地上の楽園(当時はインドの影響、今は98%が仏教)

 

【ベトナム戦争時のカンボジア】  ベトナム戦争1955-1975勃発当時の国王はシアヌーク1922-2012、独立の父と言われた人物である。カンボジアは1953年に仏から独立して、1955年には王位を父親に譲ったのでシアヌーク殿下と呼ばれる。国家元首となり社会主義共同体を組織して中国、ソ連との連携を深めた。ベトナム戦争時には北ベトナムが物資を南ベトナムに供給するための補給路(ホーチミンルート)を国内に提供するなどして北ベトナム(共産主義)を支援した。南ベトナム(資本主義)に傀儡政権を作って北と戦っていたのはアメリカである。そこでアメリカは1970年にシアヌーク体制と敵対するロンノル首相1913-1985を支援して軍事クーデターを起こさせた。かくしてロンノルはホーチミンルートを遮断すべく北ベトナムを攻撃、するとシアヌーク殿下は、ソ連・中国の支援を受けてロンノル(後に大統領となるがアメリカ主導の政権であり腐敗する)と戦うことになる。この時シアヌーク支持派はカンボジア共産勢力であるクメール・ルージュというポルポト派と共闘して、1970/5月カンプチア民族統一戦線を結成する。

【ポルポト政権による政策と虐殺】   
 ・1973年 にベトナム戦争がホーチミンの勝利で終わり(この時点でカンボジアの20年に渡る内戦での死亡者は50万人)、
 ・1975年 にカンプチア民族統一戦線がロンノル派を倒すと、ポルポトは大統領、シアヌークは北京からカンボジアに戻る
       のであるが、ポルポト1925-1998(本名はサロット・サル)に監禁されて囚われの身になった。
 ・ここからポルポト政権による原始共産制思想が始まるのである。まず行ったのは次。
   ①プノンペンの市民200万人は農村に追放 反抗すれば虐殺
    農村で稲作をさせてすべて輸出(文化大革命と同じ)
    農民は餓死

   ②抵抗した市民、政府、取材陣は射殺したのである。1975-1979
 ・そして以降数年に渡って行った政策は次。
   ①貨幣廃止 ----市場を廃止(豊かになりたいと思うな)  
   ②宗教禁止   
   ③寺破壊 
   ④僧侶・知識人・留学生・教師殺害 ----殺害したポルポト側はエリート:クメール・ルージュ 
   ⑤学校・病院廃止した。 
   これは中国文化大革命+大躍進のパクリ 
 ・これによって当時のカンボジア人600万人の内300万人が殺害されたという。
 ・プノンペンにあるトゥールスレン虐殺博物館には虐殺(実行は少年兵)の歴史がそのまま展示されている。
   トゥールスレン虐殺博物館:当時知識人への拷問が行われた場所、元々は高等学校
     A棟:拷問棟 
     B棟:幹部、収容者の写真 
     C棟:監獄 
     D棟
 ・キリングフィールド:少年兵による大虐殺が行われた場所--国内には300か所
 ・虐殺により音楽が亡くなったカンボジア
 ・カンボジアは中国が進出しているが親日
 ・500リエルの札には日本の国旗が描かれている

 

【ベトナム侵攻によるポルポト政権実態解明】   
 ・
ポルポト政権は、カンボジア国内の不満が高まらないように、ベトナムを敵に回して軍事攻撃することにより連帯感を高めた。
 ・
というのも以前ベトナム戦争によってカンボジアは巻き添えをくって多大な被害を受けており、その敵対感情を利用したのである。
 ・
すると1978/12ベトナムは10万の軍を率いてカンボジアに侵攻。
 ・
このときベトナムは先の戦争で残していった米軍の最強兵器を保有していたため簡単に陥落することができた。
   ポルポト軍の兵士のほとんどが少年であったことも理由

 ・
そしてこの時に初めてポルポト政権の虐殺の実態が明るみに出て世界は驚いたのである。
 ・
ポルポト政権は半ば崩壊してタイ方面に逃げると、ゲリラ化して体制を整えようとするのであるが、
   
この残党の将校・ヘムサムリン1934-が1979/1にベトナムの支援を受けて政権を成立させて、ポルポトのゲリラ対策にでたのである。
   この時、国連はポルポトを政権として承認し、支援している
     ・ポルポト政権はベトナムに攻め込んでいた

     ・ベトナム人はカンボジアに反撃、キリングフィールドを侵攻してプノンペン陥落
     ・おかげで多くのカンボジア人は虐殺を免れた

     ・ところが国連はこの侵攻陥落を間違いだとしてポルポト政権を支援した
     ・この時ポルポト政権による大量虐殺は露見していなかったことが支援に導いたのか?

 ・
かくしてポルポト VS ヘムサムリンの内戦が暫く続くことになる。

【中越戦争 1979/2とポルポト政権消滅】   
 ・
ベトナム軍の攻撃からのがれたポルポトのゲリラ隊は中国(鄧小平 20万の兵)やタイの支援を受けてベトナム勢力と戦うことになる。
 ・
この中越戦争に於いてはベトナム軍は簡単にカンボジアから撤退しポルポト勢力の立て直しを目論んでいたのである。
 ・
ところが米軍がベトナムに残していった多くの武器の威力がすざまじかった。
 ・
僅か7000の兵でベトナムは中国が支援するポルポトを退けたのである。
 ・
そして1989年にベトナムはカンボジアから撤退し、1991年のパリ和平条約が結ばれた。
 ・
以降政権は選挙でえらばれるよう国連カンボジア暫定機構UNTAC(代表は明石康)が監督することとなる。
 ・
1993/5月のカンボジア総選挙ではシアヌークが復帰して国王となり、新憲法が制定された。
 ・
1998年ポルポトは死去、配下は全員離散して消滅した。

コメント

【東南アジア-2】 ミャンマー:英の分断政治からの民主化運動

2020年12月04日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

インドネシア : 蘭@ジャカルタ

         アンボイナ事件@1623 英 VS 蘭 

マレーシア  : 錫(華人)、ゴム(印人) 獲得に侵攻 by 英

         港 ; ペナン、マラッカ、シンガポール(ラッフルズ@1781-1826 植民地行政官)

1824  英蘭協定 北:英  南:蘭

時代別の東南アジア各国の王朝案内図

 

紀元前   :モン族が居住@南部・タイとの国境(詳細は不明)

7世紀頃    :現在のタイにドヴァーラ・ヴァティを建国

       ・北部でピュー族が建国 ⇔ 南詔:チベット系 バックに唐
       ・唐が滅びたとき南詔:チベット系の一部が南下移住 → ビルマ人:チベット・ビルマ系語族
       ・ピュー人やモン人を支配

11世紀中   チベット系ビルマ人がパガン朝を建国 : 仏塔(パゴダ 上座部仏教)が400程ある in 8km四方

                           今は仏塔に登れなくなったので気球により眺めるツアー流行

13世紀後半  モンゴルに敗北

14世紀    北部:アヴァー朝 Byシャン族(シャムの訛 タイの影響)    南部:ペグー朝 By モン族 

15世紀後半  タウングー朝建国 Byパガン朝・ビルマ人の生き残り✖ ⇔ 〇アユタヤ朝@タイ

18世紀中   コンバウン王朝:古都・マンダレー ビルマ人 アラー・ウンパヤ(アユタヤを滅ぼす)✖ ⇔ 〇英

       アユタヤの仏像の首が切られて木の根に埋める → 今も残っている

       +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

【10世紀頃~植民地化迄】  チベットのビルマ族が南下してこの地に根付くが以降18世紀頃迄近隣小国家との戦国時代が延々と続く。

       +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

19世紀    コンバウン王朝の衰退により少数民族が自立しはじめる

1825-1885   コンバウン王朝✖ VS 〇英  → 少数民族の自立

1886     これに対して英が自治権を与える代わりにインド帝国に組み入れる 

        → イスラム教徒の出入り自由 : ビルマ人にすれば不法入国に見える

       英国の植民地化政策がインドからビルマに及び、インド系ロヒンギャ族をビルマに入植させ、その人口が増大

1930     タキン党成立(英排除運動)

1935     インド統治法 :インドが英から自治権を奪取(ガンジー) 

1937     ビルマ統治法 :英連邦の統治領になる

1942     ビルマ独立義勇軍:今の国軍の前身 英を撃退

       この時のビルマ民族の独立運動家がアウンサン1915-1947である。
       ・すると英国はロヒンギャ族(イスラム)に対して武器支援を行うという分断統治を実施
       ・かくしてロヒンギャ族はビルマ民族(仏教徒:日本軍を後ろ盾)約2万人を虐殺した
       ・ことから、両者は決定的に対立することとなる。つまり後のロヒンギャ族弾圧の原因がここにある。

1943     ビルマ独立  

【ビルマに対する英・日関与とビルマ独立】   
       ・1940年、英国を潰してビルマ独立を支援する日本は、ビルマ・キタン党のアウンサンを支持した
       ・(英軍を追い出して援蒋ルート確保すべく、ビルマ独立義勇軍を日本軍の別動隊・南機関が育てる)が、
       ・1942年の日本によるビルマ侵攻(WW2)によって、ビルマは親日から反日に転化。 → インパール作戦失敗

1944     反ファシスト人民自由連盟結成 Byアウンサン

       ・これには英国のビルマ独立という揺さぶりがあったものと思われる。
       ・やがて1945/8月日本が太平洋戦争で敗戦して撤退する。
       ・独立できると思っていたビルマは英国から裏切られたことで、再び戦闘状態に入る。

1947    アウンサン将軍暗殺 By愛国党党員 背後は誰か?

1948    太平洋戦争で疲弊していた英国に勝利したビルマ
       ・は、英国を排除して1948/1月に独立した(ウーヌー首相)。
       ・このとき既にアウンサン将軍は内部抗争により暗殺1947/7されていた。

1949    【ビルマに対する中国の関与】  
       ・この頃中国では中国共産党と中国国民党が激しく戦い、苦戦した国民党は台湾及びビルマに逃避
       ・中国国民党の残党はビルマに拠点を置いて、中国共産党と戦うのである。
       ・この時にアメリカは国民党を支援し、中国共産党はビルマ・ネウイン首相1910-2002を支援したのである。

       ・この頃黄金の三角地帯で麻薬ビジネス(ミャンマー:ラオス:タイの国境)排除の為にビルマ軍を使ったことが裏目(軍政権)
       ・やがて中国共産党が勝利、支援していた社会主義計画等のネウイン首相は大統領となって、
       ・1962年にネウイン社会主義運動政権を成立させた。
       ・この独裁政権は中国共産党のバックアップにより、1988年迄続いた。

1962    ネ・ウイン将軍による左派軍事クーデター : 社会主義+外交中立政権

1988    8888民主化運動 【ビルマの民主化運動1988年】   
       ・軍事独裁政権に対する欧米諸国からの批判を後押しに、1988年国民民主連盟(NLD)による民主化運動が起こる。
       ・首謀者はアウンサン・スー・チー1945-で、ビルマ独立運動家アウンサンの娘である。
       ・ところがビルマ政府軍(ソウ・マウン)に捕えられ、1989年から2009年まで自宅軟禁されることになる。
       ・スー・チーは因みにこの間にノーベル平和賞を受賞している。

2007    サフラン革命 : アクティビティ・ブッダ 仏教徒も武器持って戦っても良い

2011    スーチーの自宅軟禁解除   
       ・20年の長きに渡って民主化の動きはあるものの、軍体制は2011年まで続くが、
       ・やがて国民民主連盟NLDは選挙に圧勝して、スー・チー国家顧問、ウインミン大統領・NLD政権が発足した。

       ・しかしながら国外からのNLD政権の評判は良くなかった。
       ・というのもビルマ民族と軍部によるインド系ロヒンギャ問題(人身売買・虐殺)が根深く残っており、
       ・スー・チー国家顧問が見て見ぬふりをしている・・として海外からの信用は失墜していた。
       ・ミャンマーでは今も尚人気のあるスー・チー氏はイギリス人と結婚しており、イギリス国籍である。
       ・(外国籍の人と結婚していれば大統領にはなれないという憲法がある)
       ・ミャンマーはかつて英の植民地であり英と戦って独立を果たしたのであるから、
       ・英国籍のスー・チー氏に大変違和感を抱くのは私だけだろうか。

【2017年国軍はロヒンギャ族を弾圧・虐殺】    
       ・ロヒンギャ族(約100万人居るといわれている)はイスラム教、
       ・従って仏教国ミャンマーでは国民として認められておらず国籍が無いのである。
       ・2017年8月に、ミャンマーは軍を使ってロヒンギャを弾圧、虐殺・拷問したため、
       ・65万人が故郷ラカイン州からバングラディッシュに逃れた。
       ・2019年段階でバングラディッシュ・コックスバザールにあるロヒンギャ族難民キャンプには約80万人が居るという。
       ・1962年迄はロヒンギャ族の国会議員が居たが、1982年の国籍法施行(彼らは土着民族ではない)
       ・によって弾圧されるようになった。つまり宗教だけの問題ではないのである。
       ・そして2015年の民主化(総選挙でNLD圧勝)によって、
       ・皮肉なことに仏教徒による発言の自由が問題をさらに大きくしている。
       ・いま非政府組織NGO活動(政府組織はODA)によって多くの難民を支援し、
       ・ミャンマーでは受けることができなかった教育など、難民キャンプでは支援中である。

国連は諸支援機関と協力しながら対応しているが、日本は??

1990年頃になって日本の群馬県館林に移住し始めて今では200人余が居るという。
       ・彼らはミャンマーで人権を訴えるデモを繰り返していたが、命の危険を感じて避難
       ・(偽造パスポートでの入国は拒否され、難民認定証明書を入国管理局から発行)してきたのである。
       ・難民認定証明書があれば国民健康保険や児童扶養手当などもでる。
       ・しかしながら認定されるケースは極めて少ない。
       ・そして今日本に居るロヒンギャは日本政府に対してミャンマーの行動自粛を呼び掛けてほしいと訴えている。 
       ・以下の図参照。因みに隣国タイに避難した難民は約5000人で、人権や自由を取り戻しているという。

【国軍のクーデター2021年】   
       ・2020/11月の選挙では国民民主連盟NDLは圧勝したのは良いが、
       ・国軍はこの圧勝を脅威に感じ?、  2021/2/1に突如軍によるクーデターが発生した。
       ・突如スー・チー国家顧問、ウインミン大統領及びNDL政権閣僚は全員拘束(自宅軟禁)されて解任されたのである。
         理由は不正選挙等々。そして2021/2/2に軍出身者を閣僚に任命した。
         軍出身のミンスエ副大統領が大統領代理となり、ミンアウンフライ・軍司令官は、(反中国)
         選挙管理委員会を作って非常事態宣言解除後に再度選挙を行うという。
         ミン・アウン・フライン国軍総司令官に司法を含む全ての権力が委譲され、事実上の国家指導者・首相となった
       ・このクーデターに怒った一般市民は各地で抗議デモが起こしている。
         最大規模はヤンゴンの数万人にも及び、日本でも在住ミャンマー人によるデモが渋谷区で起こった。
       ・因みに国軍は全土でインターネットを遮断し、デモの様子配信や海外との通信規制を行っている。

 欧米支援規制により、中国からの支援(攻勢)に頼る軍(実はロシア軍とも手を組んでいる模様:遠交近攻の法則)、
       ・中国支援に反発する市民という構図が最近(2021/2)デモを頻発させている。
       ・ところで、中国は中東からの原油・天然ガスの輸送をマラッカ海峡シーレーンだけではなく、
         ミャンマー経由のパイプラインに頼っている。
          マラッカ海峡を抑えているのは米軍第7艦隊
         原油輸送港整備事業はチャウピュー@2009開始
          ガスパイプラインは2010年に建設開始
          石油パイプランは2017に完成
          ミャンマー国土を南北縦断して雲南省昆明に接続
          深海港の建設に伴う用地収用、環境、労働問題で地元住民からの争議が発生
          鉄道の建設に関する合意書が2011年までに締結
       ・するとミャンマーとしては何か見返りを求めるのは当然のことであり、
       ・スーチー氏(親中)が習近平や王毅外相と蜜月の関係になるのも当然であり、
       ・中国のロヒンギャ族に対するジェノサイドを見て見ぬふりをするのもうなずける。

中国への原油輸送ルート

2011年の民主化以降、欧米諸国、日本はミャンマーの経済支援(生活向上、人材育成、インフラ整備)を大々的に行ってきた。
       ・しかし民主化の大義名分がなくなれば、これらの支援は停止となるだろう。
       ・日本の茂木外相は記者会見で「見守りたい」との何という頼りない発言。
       ・「何が正しくて何が間違い誤解なのかを調査して、云々カンヌん・・・」くらいの発言ができないのか? 
       ・これじゃ外務大臣として恥ずかしい限り(いつものことですが)
       ・一方アメリカ側はというと「2011年以降ミャンマーに対する制裁は解除して、援助をしてきたが、
       ・場合によっては制裁を再開する」 と述べている。日本と随分違う事。

【日本が作った経済特区】   
       ・ミャンマーには日本企業433社あり、残留日本人の数は3500人にも達するらしい。
       ・というのも2013年にティラワ経済特区を作った。
       ・というのは中国の日本企業(23000社)が被害を受けたためにリスク回避の手段を講じた(チャイナプラスワン)。
       ・その避難先が、丸紅、住友、三菱の3社で作ったティラワ経済特区(@ヤンゴン南部に700Ha)だったのである。
       ・2015年にOpenし、94社が稼働した。その日本企業群が現在稼働停止状態(2021/2/12現在)。
       ・中国はというと2020/11に習近平が訪問、
       ・そして王毅外相が2021/1/11にミャンマーに訪問してスーチー及びフライン国軍総司令官と蜜月の関係になっている。

コメント

【東南アジア-1】 ベトナム戦争の勃発理由は共産化阻止

2020年12月04日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

時代別の東南アジア各国の王朝案内図

1802 阮朝@ベトナム 首都はフエ

   建国にはフランスの手助け---カトリックが多い

1887 ナポレオン3世が南から進軍

   仏領インドシナ連邦 : カンボジア--ベトナム--ラオス

   仏語により革命防止

1940 日本軍が強硬進軍

1945 日本敗北

   阮朝王政から共和制 By ホーチミン(グエン・アイ・コック) --- 8月革命--ベトナム民主共和国建国

   

1946 インドシナ戦争勃発 北(ホーチミン)◎ VS ✖南(仏による阮朝復活のベトナム国:バオダイ傀儡王)      
                                ┗新植民地主義

   カンボジア・ラオスは独立していない

1954 仏撤退(仏はアルジェリアに派兵)

   ヴォー・グエン・ザップ1911-2013@ディエンビエンフーの戦いで仏軍を撃破

   ホーチミンによる社会主義    
    ┣南北選挙の勝利側の方針に従う    
    ┣南ベトナムに住む資本家は資本主義を望むに反対する   
    ┣米によるストップ社会主義     
    ┣ベトナム国のトップ交代ゴ・ジン・ジェム      
    ┣米投資金はゴ・ジン・ジェムが横領---仏教徒暴動 
    ┗南の貧困層農民が南ベトナム解放民族戦線:ベトコン

   1922:ソ連 1924:モンゴル 1949:中国 1955:ベトナム----社会主義

1955 ベトナム戦争勃発

1963 南ベトナム-軍事クーデター:ゴ・ジン・ジェム殺害

   軍部政権&米

   南の貧農が武器ゲット from 北ベトナム : ホーチミンルート(武器ルート)

   北が南貧農に武器を渡して南内戦:ヴォー・グエン・ザップが北ベトナムを指揮

1964 トンキン湾事件(北ベトナムの魚雷艇が米駆逐艦を攻撃)

1965 北爆:ホーチミンルートを空爆して米軍介入

1968 テト(旧正月に米大使館が占領される)攻勢

   処刑の様子が米全土に流れ、反戦運動拡大

   米ジョンソン大統領は次期出馬なし

1973 米軍撤兵 パリ和平協定

1975 南ベトナム解放民族戦線がサイゴン(今のホーチミン)陥落

1976 南北統一

1986 ドイモイ政策:資本主義導入

参考映画:プラトーン ワンス&フォーエバー

【仏の植民地ベトナム】  1955-1975年の長きに渡って南北に分裂したベトナムで発生した戦争の前に、ベトナム社会主義共和国の歴史について調べてみた。阮朝王宮というのが1802-1945迄存在した(現在のフエ)。創始者は阮福暎1762-1820、17世紀以降にベトナム南部を支配していた広南阮氏の出身である。1789年にフランス人カトリック宣教師・ピニョー1741-1799は、傭兵を得てベトナム各地を攻略、1802年には阮福暎と対立していた西山党の君主・阮光纘を滅ぼして、広南阮氏を再興した。その後清の皇帝から賜ったのが越南国、ベトナムである。1847年、フランス軍艦がダナンを攻撃したことで、フランスの侵略が始まり、やがてフランスにより植民地化された。この頃のベトナム人は令状なしに逮捕され裁判なしで投獄されるという酷い扱いであった。第一次世界大戦では、10万人近いベトナム人がフランスのために戦いを強要され、若き日30才のグエンアイコック(ホーチミン)がこれを批判している。ロシア革命によって植民地化にあるアジアの独立機運が高まった。1924年レーニンが亡くなった頃にホーチミンが表舞台に登場する。35歳のホーチミンは第5回コミンテルン大会に参加して演説している@1925年。以降ホーチミンは秘密工作員としてアジア各国に潜伏活動する。

ファン・ボイ・チャウ1867-1940 :独立運動の指導者 民族主義運動 ドンズー運動

                 日本へ留学生を送る

                 日仏協商@1907 --- 日本との交流途絶える

                 ベトナム光復会 孫文グループ

                 日本がベトナム侵略@1940

【日本軍の進駐】   1940年、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツはフランス北部を占領する。これに伴い、1490/9月、日本軍は北部ベトナムに進駐(仏印進駐)し、1941年の東京条約で、タイ・フランス領インドシナ戦争を仲裁した直後に、南部ベトナムにも進駐し日本軍の策源地となった。そもそも日本は中国蒋介石に物資を送っていた援蒋ルート(アメリカがベトナムから物資補給していた)を絶つためにベトナムに進軍した。因みに日本は軍事用の麻袋作りをベトナムに強要したことで米の生産が減り、200万人もの餓死者がでたという。

【第一次インドシナ戦争とベトナム民主共和国の成立】  やがて1945年9/2に大日本帝国の援助の元、ベトナム帝国は独立した。その直後、大日本帝国が大戦敗戦すると、日本はベトナムから出ていき、再びフランスがベトナムの再植民地化を進めた。ホーチミンの仏に対する独立交渉が行われたのはフォンテンブロー城、しかし3か月の間なんの成果も無く交渉は失敗した。この時ベトナム建国の父と呼ばれるホー・チ・ミン1890-1969がベトミン(ベトナム独立同盟会)の指導下における全国的な民衆蜂起(8月革命)が始まった。かくしてフランス(米・アイゼンハワーも支援)に対する独立戦争(第一次インドシナ戦争1946-1954)に繋がった。しかしベトミンは惨敗し、以降はゲリラ戦による抵抗が始まった。

ソ連、中国による支援もあって、1954年5月にディエン・ビエン・フーのフランス基地(兵糧攻めで餓死に追い込む)を包囲・制圧し(ディエン・ビエン・フーの戦い)、7月にはジュネーブ協定にて休戦状態にはいる。

【ベトナムの南北分断】   17°線を境に休戦状態にはいったベトナムは、北はホーチミンのベトナム民主共和国、南はフランスから応援受けているベトナム国(阮朝の復活:バオ・ダイ  後にベトナム共和国)という風にベトナムは南北に分断することとなる(フランスによる新植民地主義)。ところが仏はさっさと南ベトナムから母国に退却(ジュネーブ協定)したため、米はゴ・ジン・ジェム1901-1963(米に住むカトリック教徒で反仏教)という独裁者に支配させるべく、南側に米政権(1962-援助軍司令部)をつくった。すると反独裁体制側の仏教徒が反旗を翻した。

【南ベトナム解放民族戦線(貧しい農民)ベトコン】   1963年に米大統領JGKが暗殺(戦争の早期収束を願ったことが原因か?)され、ジョンソンが米大統領に就任すると、1964年のトンキン湾事件(北ベトナムの魚雷艇が米駆逐艦を攻撃というのは嘘、実は自爆)以降、米軍は戦争に直接介入するようになる。すると北側はベトコン(南ベトナム解放民族戦線)を結成した。つまり北側の支援を受けながら反米活動・共産活動を展開して南ベトナム政府軍(近代的な米兵器をあてがわれるものの士気は低い)にゲリラ戦で対抗したのである。かくして南ベトナム解放民族戦線が優勢を極めて行った。なお、南ベトナム解放民族戦線への物資補給はホーチミンルート(ラオス・カンボジア経由で、4000kmにも及んだという)を使って北ベトナムからも実施され。

【B52による北爆】   昼間は農村で畑仕事をするゲリラに対抗すべく、南ベトナム政府軍の規模は派遣された米兵が拡大して50万人の兵士が投入されたという。こうして、いつしか農村を焼き払うというようなサーチ&デストロイという無差別殺人を行うようになった。また1964年のトンキン湾事件が再び繰り返されたことを受けて、米は1965年に直接北ベトナムを攻撃(1945年に東京大空襲を立案したカーチス・ルメイが北爆を指揮)することとなる。225kg爆弾を100発以上搭載したB52爆撃機(ジェットエンジン8基搭載)を連日出動させた。因みにこのときのB52発着点は日本返還前の沖縄であった。

【枯葉剤使用の空爆と反戦デモ】 南ベトナム解放民族戦線のゲリラに対抗するために、米軍はダイオキシン枯葉剤使用の空爆を繰りかえした。これが、TV放映によってその実態が世界に知らされた。

枯葉剤による奇形児(ベトちゃん/ドクちゃんという下半身が繋がった結合双生児 : 2007年にベトちゃん死亡)が生まれたことでも知られる。

また、1968年1月、南ベトナム解放民族戦線によるテト攻勢が実施され、サイゴンにある米大使館が南ベトナム解放民族戦線により取り囲まれ占拠された。このような米劣勢の状況がTV放映されたのである。じつはこれまで米国内に於いてもベトナム戦争の実態は明らかにされずにいた。これらの放映をきっかけにして世界中で戦争反対デモが起こったことで、アメリカは撤退に追い込まれた。日本国内でも「ベトナムに平和を市民連合:ベ平連」が結成されて反戦を訴えている。しかも戦地に行きたくないという米兵を休暇中@日本に脱走させる手伝いを行っていたという。

ジョン・レノンと小野ようこによる平和活動「LOVE & PIECE」は物議をかもしたが、現在も尚この活動は多くに引き継がれている。

【米兵撤退】  ジョンソンに代わって大統領になったニクソンは1969/7月、米軍の漸次引き上げを発表する。そして1973年米兵完全撤退を完了すると、1973年にパリ和平協定に調印した。1975年4月30日、解放戦線の旗を掲げた戦車が南ベトナムの大統領官邸に突入し、南の要所サイゴンが陥落することで北の勝利で幕は下りた。そして南北は統一されてベトナム社会主義共和国が1976年に成立した。

この頃からアメリカの地位は低下する。ニクソンショックといわれて金・ドルの交換停止、ドルの変動相場制に変わった。(ドルの力が弱まった)

 

【ベトナムの旅】

  食事 : フォー

  ハノイ

  ラオカイ

コメント

【中東の国-3】 アレクサンドロス大王が創設したヘレニズム三国~アルサケス朝パルティア~ペルシャ滅亡

2020年12月04日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

【アレクサンドロス大王】 ヘレニズム三国を創設

BC168に滅亡  :アンティゴノス朝マケドニア

BC064に滅亡  :セレウコス朝シリア(イランにあったギリシャ系王朝) 

BC030に滅亡  :プトレマイオス朝エジプト

BC4世紀中   :【アルサケス朝パルティア】 イラン人国家

BC3世紀---   :セレウコス朝シリア滅亡で、パルティア、バクトリアが独立する

         パルティアはBC3世紀-226年のイラン人国家、建国者はアルサケス1世BC247-211

         ローマ帝国のクラッスス(第一回三頭政治)を戦死に追い込んでいる

           ヨーロッパと中国の中間

           中継貿易で発展、語学力抜群

           常に対立でもある

           ゾロアスター教誕生@BC2500---融合してマニ教

AD3世紀    :【ササン朝ペルシャ】 イラン系 約300年

         パルティアを滅ぼしたササン朝ペルシャ

         大王の支配をきっかけにイランにギリシャ文化が入り込んで復活した

         アルデシール1世?-241はゾロアスター教を国教として経典アヴェスタを完成

                     → 善悪の判断:最後の審判

                       火を使う

                       キリスト教/仏教と融合してマニ教となり各地に拡大

                       理由はイランが東西の中心:シルクロードの中心

                       この文明の影響品が法隆寺、正倉院にある

         シャープール1世215-272はローマ帝国の皇帝ヴァレリアヌスをエデッサの戦いで捕虜にする

         375年にクシャーナ朝を滅ぼすと、6世紀頃ホスロー1世501-579はユスティニアヌス482-565と抗争

         これによってアラビア半島のイスラムが発展

         また突厥と組んでエフタルを滅ぼす(中央アジアのソグディアナ地方:クシャーナ→エフタル→突厥→唐)

 

【ペルシャ滅亡       AD642:】 ニハーヴァンドの戦い:(ゾロアスター教)ペルシャ✖ VS ◎アラブ人(イスラム)

特徴:①ギリシャ語の公用語コイネーをペルシャ語に変えた。 ②皇帝の称号は「シャー」 ③国教はゾロアスター教 ④ゾロアスター教とキリスト教と仏教が融合したマニ教が誕生 ⑤インド洋交易に乗り出してアクスム王国と抗争

【クシャーナ朝】 2世紀 主都はバーミアン、全盛期に遊牧民のカニシカ王:在位130-170頃 仏教を保護 

         硬貨には太陽神・ミイロ や 弥勒・ミスラ

         (弥勒)インド・ガンダーラ→バーミヤン→敦煌→シルクロードを東へ進んで、奈良へ

              黄河沿いで繁栄した蘭州

              4-5世紀:中国最古の炳霊寺石窟には10万の弥勒が集まったという(チベット語)

              釈迦が入滅したあと弥勒が救世主として現れた様子を表した石窟だそうな

              183の弥勒石窟の中には776の仏像

              弥勒の修行の場・兜率天は地上から45m → 第169窟385-431年(戦乱の世) 

              ガンダーラ地方の影響を受けた仏立像の摩崖仏と釈迦像と五仏座像と弥勒千仏壁画

 

 

         (ミスラ)西へ向かって1世紀-2世紀頃ローマ帝国へ:ローマ地下神殿にはミスラ(ミトラス教)の遺跡がある

              ローマの南・サンタマリア・カブア・ヴェーテレ(古代の中心都市)にはミスラ教の神殿

              2世紀頃、フレスコ画でミスラ神が描かれている(白い牛を殺して生命を再生)

              したたる血を吸う犬と蛇 ミスラのマントには星

         375頃 : キリスト教が普及してミスラ教は衰退

コメント

【中東の国-2】 ナバテア王国の砂漠都市ペトラはローマ帝国に併合され衰退した

2020年12月04日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

【ナバティアの首都ペトラ】   古い名を「セラ」とも言う「ペトラ:ギリシャ語で岩」は旧約聖書にはエドムの都として記されおり、ヨルダン(フェニキア人の街)にある都市遺跡には岩の神殿がある。19世紀までは訪問する人はまったくといっていほど居なかったらしいが、ソドムやゴモラと並んで恐ろしい預言と共に旧約聖書(エレミア書)にしるされていた。シーク(狭い谷)と呼ばれる渓谷にあるペトラは自然の要塞、要衝の地であり、ナバテア王国の首都である。

【砂漠の中の給水設備】   映画「インディージョーンズ最後の聖戦」のロケ地でもあった宝物殿の高さは40m。天然の砂岩をくりぬいて作られている。この方法はペルシャやトルコの影響を受けているという。彫刻にはギリシャ神話に出てくるニケ、エジプトのイシスがあり、これはヘレニズム様式の傑作である。宝物殿の脇から奥へ行くと、メソポタミアの文明の紋様が刻まれた墓、4000人収容可能なローマ様式の劇場、大神殿、巨大プールがあった。渓谷にあるため水道管を通して給水設備を作り上げたことが分かっている。その給水設備は崖の上に彫った貯水槽にある。今では200以上に及ぶ貯水槽があり、自然勾配で眼下の年まで給水しているのである。年間降水量150mmを効率よく集めるだけではなく、また数キロ離れた泉の町からペトラまで、モルタルで仕上げた水路(水道管、水路橋)を使って水を引いていた。その量は600リッター/人/日の能力である。

【死海で採れるれき青】   れき青はアスファルトの材料で80℃ほどで溶けてコーティング財となる。エジプトではミイラの腐敗を防ぐため用いられた。また船の防水加工には欠かせない。旧約聖書に出てくるノアの箱舟にも使われたという。このれき青がペトラの北50kmのところにある死海で採れた。ナバタイ人はこれらの交易によって富を得た。各地から多くの商人が集まるようになると、砂岩を削って宿にして商人をもてなした。そのような壁画が残っている。周辺ではワインがつくられワイン用のツボも出土している。 紀元前1200年頃から、エドム人たちがペトラ付近に居住していたと考えられている。紀元前1世紀ごろから、エドム人達を南へ追いやったナバテア人達が居住しはじめ、アラビア付近の貿易を独占するとペトラは有力都市として栄えた。

【ローマの将軍・ポンペイウスとの講和】   紀元前64年から紀元前63年ごろ、ローマの将軍・ポンペイウスはナバティア王国に目を付けてオリエント遠征を開始した。10万の大軍でトルコ周辺の国々を屈服させていた。一方、ナバテア王国(アレタス3世:ギリシャ文明を積極的に取り入れた)も周辺に勢力を拡大していた。イスラエルのガザやダマスカスを包囲したが、ローマの将軍・ポンペイウスに阻まれると戦うことなく引き返した。ローマ軍はペトラに進軍するがペトラへの接近は困難だったという。首都への道はシークと呼ばれて狭く、両脇は断崖絶壁である。そしてアレタス3世はゲリラ戦を展開したのであろう。ペトラは第一溝帯の上、つまり岩の裂け目の上にある。かくしてアレタス3世はローマの将軍・ポンペイウスと講和を結び、その代わり銀9トン(300タラント)を税として納めたという。因みに1950年代に一世を風靡した映画「ベンハー:主演はチャールトン・ヘストン」の中で、ユダヤのベンハーとローマの将軍が戦車(馬4頭立ての車)で競争を行う際に、金銀1000タラントの賭けをアラブの商人とローマの貴族がしていた。

【ナバティア王マリクス1世はクレオパトラを裏切った】   BC44年、ローマのカエサルが暗殺されたとき、隣国の騎馬王国パルティア(300年に渡ってローマと競う)がローマに迫り、2万人以上の戦死者がでてローマは敗北。このときナバティア王マリクス1世は、パルティア側について混乱を免れようとした。このときクレオパトラ7世が率いるプトレマイオス朝エジプトがナバティア王国のれき青を狙って迫ってきた。クレオパトラはローマのアントニウスに接近して援助したことでローマ軍はパルティアを押し戻した。こうして手に入れた死海のれ青をナバティア王国から奪ってクレオパトラに与えた。このときマリクスは銀6トンの納税で瀝青の権利を奪取。しかしローマでアントニウスとオクタヴィアヌスが激突(BC31アクティウムの海戦)し、マリクスはアントニウス軍を援助した。海戦はオクタヴィアヌスが勝利すると、マリクスは味方のアントニウス・クレオパトラ軍の船を焼き討ちし、オクタヴィアヌスに恭順の意を示した。このようにしてナバティアはローマのクレメンティアを利用しながら危機を切り抜けていった。

【ペトラの隆盛と衰退】   紀元後1世紀の初期には、ナバテア王であったアレタスは隣接するペレア王ヘロデと争い、アレタスが勝利。紀元後105年に、ローマ皇帝オクタビアヌスは、交易路の支配をすべく南アラビアに遠征。没薬、乳香、香辛料などの瀝青(ビトュメン)に並ぶ交易品(ラクダ一頭分の運搬費用だけでも1300万円にもなったという)の権益を死守すべく、ナバティア宰相・シュライオスは恭順してローマ軍を案内しながら行軍した。これはシュライオスの策略であり、充分な水もなく過酷な行軍を行ったローマ兵士は撤退するのである。かくしてナバティア王国は勝利して交易路はアラビア半島全域、ヨーロッパ、インド、シルクロードにまで及んだ(各地でナバティア王国のコインや土器が発見されている)。106年にはナバテア王国はローマ(皇帝トラヤヌス)に併合され、独自の宗教・ドゥシャラ神は奪われてやがて都市ペトラはキリスト教の拠点となり衰退していった。ローマ人は彼らの岩(墓でもある)を切り開いて円形劇場をつくり一時は栄えたがやがて地震などで死の街となったようであるが、そののち貯水技術を生かして農地改革を行っていたようだ。

コメント

【中東の国-1】 古代メソポタミア文明はオリエント

2020年12月04日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

【BC5000:シュメールはメソポタミア文明の基礎】  シュメールは完成状態で現れ、メソポタミア文明の基礎を形成した。BC8000年には農耕が始まり、数万人規模の都市ではビール(ビールの女神ニンカシ)が飲まれていたという。初めて楔型文字(メソポタミア全域で用いられた)が用いられ粘土板に残っている。これは交易、文学、天文学にも生かされた。ゼカリア・シッチン1920-2010は、シュメール文明の創造は二ビル星のアナンヌキという種族が関わっているという。自信をウンサンギガと呼ぶ。「天の神;アヌ」「地球の神:エンリル」「水の神:エンキ」の3神を崇拝。

ところでこのシュメールの地(メソポタミアの南部)は4500年前にノアの家族が移り住んだ場所で、ノアの箱舟が到着したアララテ山があるところ。洪水に備えて煉瓦とアスファルトで建てたのがバベルの塔である。ところがこれは神への反逆行為だとして、70の異言語(インド・ヨーロッパ語族、チャイナチベット、ウラルアルタイル、日本語族・・・・・)に分けられ全世界に散らばったというのが、旧約聖書創世記第11章にある。やがてシュメール人はアッカド人によって滅ぼされた。

【BC4000:彩文土器】  

【BC3000:祭祀-農耕】   シュメールは南部メソポタミアに定住 洪水多く粘土文化

【BC2700:ウルク、ウル、ラガシュ都市国家 by シュメール人

【BC2300:アッカド帝国】  サルゴン王、セム人、首都はアガデ メソポタミア統一 シュメール滅亡

【BC2200:ウル第3王朝】  聖塔建設--ジックラト 異民族(アラム、エラム)台頭

              バビロンのジックラト:バベルの塔

【BC2100:シュメール復興】  エラム人侵攻でウル第3王朝、シュメール滅亡

【BC2000:イシン、ラルサ時代】   アムル人侵攻、古バビロニア王国建設@バビロン 古代オリエントの始まり⇒東西に伝播

【BC1700:バビロニア王国】ハンムラビ王--ハンブラビ法典(文字はシュメール人の楔形文字)

              侵略され続けるメソポタミア---ハンブラビ法典発見は20世紀@スサ

【BC1600:ヒッタイト古王国:製鉄 馬車 戦車】  古バビロニア王国を滅ぼしたヒッタイトはインド・ヨーロッパ語族、これまでは700℃で作れる青銅器であったが、ヒッタイトは1200℃を扱うことにより鉄鉱石から鉄製品を作る。彼らは黒海と地中海に挟まれた地域の山岳民族(1200℃の高温を生み出すために山岳地帯の安定した風が必要だった)で、ビュクリュカレ遺跡(アンカラの東)やハトゥーシャ遺跡(BC18世紀)にみることができる(強かった証拠でもある)彼らはBC10世紀には黒海とカスピ海の間に移動、やがて8世紀には黒海の北部に移動(ビルスクヒルフォート遺跡)して、BC6世紀にはスキタイという遊牧騎馬民族として生き残ったようである。鉄器を持つ遊牧騎馬民族は最強で、ギリシャやペルシャからの侵略を退けている。そしてアルタイというモンゴルの遊牧民と交流を持つ。この交流の道をアイアンロードと呼び、シルクロードよりもずっと昔に東西4000kmに渡って栄えた。鉄を持ったことで「はみ」という馬を制御する技術を備えたことが、はるか中央アジアまで交易路を作った。トゥング古墳はスキタイ最古の古墳らしい。

【BC1500:アッシリア】セム系 古代オリエントを統一⇒ミタンニに服従⇒領土拡大@BC9世紀⇒エジプト征服@BC7世紀

  ヒッタイト、ミタンニ、カッシート、エジプトを統一、首都はニネヴェ---言葉が通じない:奴隷扱い--約50年で滅亡分裂

                             → ニネヴェ遺跡が過激イスラム教徒により破壊される

  数十年後に4っつに分裂--リディア:貨幣の概念---ギリシャに伝搬

             エジプト

             カルデア(新バビロニア):

             メディア:

  再び統合--ペルシャ王国(アケメネス朝)---それぞれ自由に発展させることで約150年続く:今のイラン

       王の道建設:交流、交易  スサからサルデス

       政治的首都:スサ

       夏の首都 :メディア-エクバタナ

       冬の首都 :バビロン

       祭の首都 :ペルセポリス(遺跡はアレクサンドロス大王が破壊)

【BC800:バビロニア バビロンの王・ネブカドネザルはユダヤ王国を征服】   この頃、ペルシャ湾沿岸には、ヒッタイトに代わってバビロニア王国が栄えて居た。

【BC626:新バビロニア】   バビロンの王・ネブカドネザルBC634-BC562はエルサレムを攻略、ユダヤ王国を征服し(7割死亡)、ユダ王国のユダヤ人を捕虜(バビロン捕囚:3割 BC586-538)として連行された。鉄壁の要塞を誇り、29年分の食糧備蓄もあったバビロニア王国であったが、メドペルシャ(メディア人)のアステュアゲス王に征服され、バビロニア王国が亡びる(BC550年)。

【BC550:アケメネス朝ペルシャの初代王・キュロス2世】   アステュアゲス王は魔術師のマゴスのお告げに従って、娘のマンダネBC584-BC559をメドペルシャの王子・カンビュセツBC580-BC559に嫁がせた。そして生まれたのが後に大帝国を建設したキュロス2世?-BC529である。実はキュロスは赤ん坊の時に、アステュアゲス王の命令で暗殺されかかった。命を受けたのは将軍ハハパゴス。キュロスは牛飼いに助けられて奴隷の子として育てられたが、のちに暗殺のことを知って激怒。祖父アステュアゲス王を打倒しメディアを滅ぼした。かくしてアケメネス朝が始まり、メディア全域を制圧した。BC538年にはアケメネス朝ペルシャの初代王・キュロス2世によりユダヤ人は解放され故国に戻ってエルサレム神殿の建設が許された。聖書預言者の一人であるダニエルは、バビロン、ペルシャ王国の政治顧問で、「ダニエル書」はBC538年頃に書かれ、ダニエルは旧約聖書を持って、キュロス2世に会っている。

【ここでユダヤ人について】ユダヤ人のことをハビル人とかヘブライ人というが、メソポタミア、ユーフラテス川の対岸から来た・・・という意味らしい。アブラハム(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の始祖)の子イサクの子・ヤコブが新生イスラエルを建国するが北王国(イスラエル)と南王国(ユダ)に分裂した。北王国をつくった支族が今のユダヤ人の祖。

  ユダヤの紋章・六芒星はイスラエル2代目ダビデ王家の紋章

  400年に渡ってエジプトで奴隷生活していたユダヤ人をモーゼは引き連れてシナイ山に上る(頂上にはモーゼの教会がある)

  やがてユダヤ人が故郷カナンの地へ行くと、ペリシテ人が住み着いていて争いとなる

  怪獣?ゴリアテに投石して勝利する。この瞬間の石像がミケランジェロのダビデ像。

  つまりダビデが勝利して第二代の王となる@イスラエル王国。

  その息子が第三代ソロモン国王。ソロモンの死後北側イスラエル王国、南側ユダ王国に分裂する。

  バビロンの王・ネブカドネザルBC634-BC562はエルサレムを攻略

  ユダヤ王国を征服し(7割死亡)、ユダ王国のユダヤ人を捕虜(バビロン捕囚:3割 BC586-538)として連行された

  鉄壁のバビロニア王国であったが、メドペルシャ(メディア人)のアステュアゲス王に征服される

  バビロニア王国が亡び、ユダヤ人捕虜は自由の身となる(BC550年)

  これだけ苦しんだユダヤ人---選民思想

  

【フェニキア人は海上交易で富を得た】   一大帝国を作ったアケメネス朝ペルシャであったが、BC350年にギリシャ・アレクサンドロスにより滅ぼされた。当時のペルシャ王はダリオス王。因みにダリオスの王国はゾロアスター教(二神教)正義(アフラ・マズダ)と悪(アーリマン)を司る二神で、光明神のアフラ・マズダを最高神とする(聖典はアヴェスター)。この神が由来となって広島マツダは誕生した。またこれはインドのビローシュダイムで、日本の盧舎那仏の語源でもある。当時のペルシャにはフェニキア人のツロが立ちはだかった。ツロはフェニキアの都市国家で現在のレバノン(2020年に港の倉庫で大爆発を起こした地)に位置するレバノン杉といって国旗にも杉が描かれているが、この杉の交易によって巨万の富を得た。エジプト神殿のレリーフにも杉の大木を船で運ぶ様子が描かれている。交易先はエジプトだったのである。ネブカデネザルBC604-561がエルサレムを崩壊した時、ツロは道路税を払う必要がなくなったため喜んだというが、ツロは裁かれた。この240年後にアレクサンドロスBC356-323により滅ぼされたのである。因みにフェニキア人はレバノン山脈の西で海上交易で富を得たが、陸上交易・レバノン山脈の東で富を得たのはアラム人である。アラム人は以下に影響を与える---セム系

  ソグド--ウイグル--中国

  ヘブライ(祖はカナン人)--アラビア

 

4大文明は砂漠にある川沿いで発祥する

世界中が恐れた最強の騎馬民族・遊牧民族

コメント

【韓国-2】 近代朝鮮半島 朝鮮戦争(まだ終わっていない)による日本復興

2020年12月02日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

1882  事大党(清国への依存を重要視) VS 開花派(明治維新を志している日本を重要視)
      改化派----李王朝使節・金玉均1851-1894(暗殺)、朴泳孝が来日----近代化を目指して福沢諭吉に学ぶ:独立党結成
      明治政府は李王朝を独立国とみなしていた
      彼らは改革を日本に依頼
      当時の清国は家柄で身分は決定、社会的に成功する道はなかった----門閥制度
      福沢諭吉も1850年頃の中津藩の門閥制度に疑問を持っていた
      福沢諭吉は李朝の若者を慶応義塾@1858に入塾させた

1884  甲申事変:独立党クーデター失敗、粛清
      李王朝の高宗の父・大院君と高宗の妻・閔妃との抗争
      閔妃が大院君を追放して身内を要職につけて権力を握る
      大院君が兵士を集めて反乱を起こすが失敗----日本公使館襲撃 日本人外交官死亡
      独立党の開化は邪魔
      閔妃一派は清に援助を依頼----清による支配からは脱却できなくなる
      日本は半島に大きく関与開始
      独立を目指す金玉均は井上薫、渋沢栄一、後藤象二郎、大隈重信、伊藤博文に相談
1894  -3 金玉均暗殺 
    -7 日清戦争 
      事大党はロシア側につく
1904  -2 日露戦争 
1910  -8 韓国併合        

1941  -4 ソ中立条約

1943  カイロ会談     :蒋介石、チャーチル、ルーズベルト---日本敗戦を前提に会談---挑戦分割はない

1945  ヤルタ会談      :朝鮮分割byソ連の対日参戦

1945  -08 GHQ占領統治開始

1948  朝鮮南北分断 後に朝鮮戦争
      北--社会主義--金日成 : 高句麗
        チュチェ思想--民族主体思想 : ソ連は不要
      南--資本主義--李承晩 : 韓族(馬韓-弁韓-辰韓)--百済、新羅、加羅---新羅が統一---高麗が統一---朝鮮王朝
        米軍  

1948-11 極東軍事裁判

1949    共産主義上昇(ソ連原爆保有、中国国民党台湾に撤退)
       かくしてソ連の了解のもとに朝鮮戦争始まる --- 共産主義が強まる

1950-06-25 朝鮮戦争勃発:ユギオ事件--朝鮮統一戦争
  -09-14 釜山侵攻
  -09-15 国連軍上陸@仁川(安保理事会:米英仏中(当時は台湾)ソ(欠席)) 司令官はマッカーサー
      米は中国の国境迄侵攻:蒋介石の巻き返し目的 
  -10-  中国義勇兵参戦

1951-06-24 38度線で膠着状態

      マッカーサーはトルーマン大統領に原爆使用(@中国)を示唆--トルーマン拒否

      マッカーサー退任

  -07-  休戦会議

1953-07-  休戦協定
      
---韓国では軍事独裁政権(親米右派)
       朴正煕1963-1979 :日韓基本条約@1965 :(援助はこれで最後と釘を刺した条約)
       パクチョンヒ    5億$:国家予算の2年分
                 これで韓国は発展
                           
                 この間に北朝鮮・金日成が終身大統領を受けて朴正煕も終身大統領@1972維新憲法
                 KCIA創設 統一教会組織 
                 1968 反共産主義連合
                 1971 朴正煕の独裁に対する民主運動 By金大中1924-2009
                 1972 ニクソン大統領訪中(中ソ分裂策)
                 1972 田中角栄訪中   (米従属見直)→日米悪化→ロッキード事件@1976 
                 1972 金日成キムウイルソン永久国家主席
                 1972 朴正煕も終身大統領 ⇔ 金大中(民主化運動家)→米韓悪化→朴正煕大統領暗殺@1979
                 1973 金大中、日本へ亡命中にKCIAに捕獲され拷問をうける
                 1979 朴正煕大統領暗殺 犯人は側近KCIAトップ?(妻も暗殺されている@1974)
       全斗煥1980-1988 :民主活動家は暗躍 →全斗煥が叩く →民主活動家は北朝鮮と組む
                 文在寅1953-(ムンジェイン)は人権弁護士:親北左派
                 金大中とともに活動 
                 韓国経済が北朝鮮を追い抜く
       盧泰愚1988-1993 :1987 民主化宣言
                 1988 ソウル五輪  
                 1991 ソ連崩壊
                 1991 北朝鮮核武装 
       朴槿恵2013-2017 :朴正煕の娘 親米右派 
                 崔太敏、崔順実親子(祈祷師)に心酔
                 国家機密情報を崔順実に漏洩 ⇔ 文在寅
                 任期途中で失職、逮捕@2017
       文在寅2017-2022 :チュチェ思想(民族主体思想) 親北左派→米属国の日本は敵 
                 日本からのフッ化水素(半導体製造)行方不明事件 →核開発用に北朝鮮へ流出?
                 日本自衛隊機へのレーザー照射事件
                 日韓基本条約違反
                 日本に於ける親韓保守撲滅
                 徴用工問題 :日韓基本条約@1965で終結しているのだが・・・
                        →日本の親韓保守が目を覚ました?

                        現在の保守政党

1950-08 警察予備隊結成

1952  保安隊に改編

1954  自衛隊

1955  自民党結成 55年体制

1998  金大中登場 --- 太陽政策:親北朝鮮 --- 中道左派・民主党 

2017  文在寅:親北朝鮮=反日教育、反日活動

2022-5 尹錫悦1960-(イ・ソンニョル)大統領就任
    ・元々は法律家・元検事総長 60歳で政治家
    ・腐敗政治は反対 :法と正義を守る
    ・朴政権の頃世論捜査を暴いて左遷されている
    ・文政権の頃は祈祷師事件に検事として追及
    ・文政権の法務大臣が汚職まみれを追及して罷免される
    ・反北朝鮮=親日
    ・⇔ 李在明(イ・ジェミョン)1964-(バリバリの親北左派)に0.7%の僅差で勝利
    ・米韓合同軍事演習に米空母参加
    ・北朝鮮の人権弾圧に抗議 ⇔ 金正恩激怒
    ・米バイデン批判
    ・外交が全く違う2大政党を持つ韓国:本当の意味の2大政党制 
2023-1 ・核武装発言@2023-1-12
      核開発又は米による核再配備(日本では報道されない)
2024-12 ・厳戒令発布:軍での封鎖は憲法違反---内乱罪で有罪の可能性あり
      親米与党1/3、反米野党2/3のため国会決議不能:民主主義の危機が理由?
      戒厳令下で国会開催されて戒厳令は無効となる
      

      

 

【朝鮮半島分断1945】   1945年、第二次世界大戦で日本が負けたことで、35年間に渡る朝鮮半島への努力、投資のすべては水の泡となった。するとソ連が南下したため、アメリカは38度線で朝鮮半島を分断することを提案すると、ソ連・スターリンは合意。南北それぞれに自由選挙を行い代表者に統治させようとしたが、これにソ連は反対した。

韓国のみが選挙を行い朝鮮の独立運動家・李承晩が選ばれて大統領になった。一方北朝鮮は中国出身、ソ連在住であった金日成を立てた。金日成とは本名ではなく、金成柱といってスターリンが大勢の中から面接して「こいつなら言いなりになる」として選んだ人物である。そこで初代首相に対しての信用を得るために、金成柱ではなく金日成という朝鮮半島では伝説の人物の名前を借りてなりすました。金正日が北朝鮮を統治すると聞いた国民は、金成柱のあまりにも若く、たどたどしい朝鮮語を話す人物に愕然としたという逸話があるという。

【朝鮮戦争勃発1950/6】   しばらく後の1950/6/25、北朝鮮側からソ連軍が南へ侵攻してきたことで朝鮮戦争は勃発した。以前38度線での分断に合意したはずのソ連である。これは1945年8月9日に日本との不可侵条約を無視して侵攻してきたのと同じである。

当時韓国にはほとんど兵器は無く、戦車は1台も所有していなかった。

これに対してソ連支援する北朝鮮は快進撃を続けて韓国釜山まで占領。

韓国崩壊まで寸前であったが、これに脅威を感じた米側は、日本に駐留していた米兵75000人をすべて韓国に投入して北側の侵攻を押し返すこととなる。朝鮮半島の東から上陸すると見せかけて、実は仁川から上陸するというおとり作戦が実行されたのは1950/9/15である。たちまち北側の補給路を断つと、北側は総崩れとなって、米支援の韓国側は北側をソ連、中国の境界線まで押し返すことになる。

【日本の警備予備隊は今の自衛隊】   この時アメリカは、日本に駐留米兵が誰も居なければ、これ幸いとソ連が侵攻してくるかもしれないとして、日本に警備予備隊75000人の組織を編成した。

憲法で軍を持つことは許されていないので日本警察という名目でソ連に対する守備兵を整えたのである。

これが後の陸海空自衛隊となる。また、戦地での物資等々の補給はアメリカ本土からではなく、多くが日本からであった。かくして日本は朝鮮特需といって戦争による恩恵で経済発展をすることとなる。

【日本とアメリカの軍事力】   全世界の軍事予算は年間220兆円、米は80兆円、中国25兆円、サウジ7兆円、日本5兆円である。米空軍は5000機の作戦機を保有(F22が178機)する。世代前の戦闘機F15は過去に撃墜されたごとがないが、F22にはまったく勝てないという。F35は300機。一方日本の制空戦闘機は200機(米は3000機)。空中空輸機は米500機、日本6機。空母については米10万トン級が11隻、日本は2~3万トン級4隻。駆逐艦・巡洋艦については米はイージスシステムを搭載して91隻、日本はイージス艦9隻、護衛艦30隻。潜水艦は、日本24隻(旧型おゃしお型はディーゼル+蓄電池は潜水時は電池の為長時間潜航は不可能)に加えてそうりゅう型(ディーゼル+蓄電池+AIP駆動)は潜航しながら蓄電可能で画期的であるが、AIPの出力が弱くAIP潜航速度は5ノット。従って11番艦からはディーゼル+リチウムイオン電池駆動で性能向上させている。一方米は60隻以上を保有し、動力は全て原子力のため潜航時間は無限大で速度は30ノット以上。シーウルフ型は40ノットである。このように米は日本に比べて10倍以上の戦力を持ち、今後も益々拡大する。最近20年の経済成長は米3倍、日本1.0倍(GDP成長比)であるから。(因みに現在のGDPは米2500兆円、日本500兆円)

【ソ連・中国の反撃】  アメリカの支援で韓国は有利に戦いをすすめたが、ここで中国は中国人民義勇軍を結成、350万人の兵力で抗戦する。この時各所に埋めていた地雷で多くの義勇軍が犠牲になったという。350万人という人海戦術でいどみ、ソ連はジェット戦闘機を提供して空中戦を戦うが、やがてこの戦争は膠着状態となって、1953年7月27日に軍事境界線のある板門店で休戦協定を結ぶ。したがって現在も尚朝鮮戦争は終わったわけではない。結局この戦争で南北合わせて300万人以上が死んだという。

コメント