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古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

戒律を確立した鑑真和上

2009年11月14日 | 奈良・飛鳥時代

 鑑真和上688-763は、752年に渡日を決意したが当時の玄宗皇帝が鑑真の才能を惜しみ渡日を許さなかった。そのために753年に遣唐使が帰日する際に遣唐大使の藤原清河は鑑真の同乗を拒否したが、副使の大伴古麻呂が密かに鑑真を乗船させた。その渡航は暴風のため困難を極めたが、古麻呂の副使船は持ちこたえ、実に10年の歳月を経て仏舎利を携えた鑑真は渡日を果たす。 753年、鑑真は太宰府観世音寺に隣接する戒壇院で初の授戒を行い、754年には平城京で聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇の勅により戒壇を設立し東大寺に住する。 常設の東大寺戒壇院が建立され、761年には日本の東西で登壇授戒が可能となると戒律制度が急速に整備されていった。 758年淳仁天皇の勅により大和上に任じられ、自由に戒律を伝えられる配慮がなされた。 759年には新田部親王の旧邸宅跡が与えられ唐招提寺を創建し、戒壇を設置した。 763年唐招提寺で死去したときに弟子の忍基が鑑真の彫像(脱活乾漆木彫)を造り、それが唐招提寺・御影堂に伝わっている唐招提寺鑑真像である。

唐招提寺にある戒壇と鑑真の御廟

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唐招提寺建立に尽力した藤原刷雄

2009年11月14日 | 奈良・飛鳥時代

 文室浄三693-770の父は天武天皇の皇子・長親王で、初名は智努王といい、兄弟に大市王等がいたが、母は不明である。  717年従四位下に叙されると、造宮卿などを歴任し、平城京の造営を手がけたといわれている。 752年文室真人の姓を賜って臣籍に下り、761年頃浄三と名を改めた。 これは唐招提寺に帰依した鑑真より戒律を授かったためである。 757年参議となり、中納言を経て762年御史大夫(大納言)に昇任すると、764年には職を辞している。 770年の称徳天皇の崩御後、吉備真備に皇太子に推されたが、浄三はこれを辞退し、その約2ヵ月後に亡くなった。 

 文室浄三は、聖武天皇の招きに応じ、苦難の末、日本にやってきた唐僧鑑真和上とともに唐招提寺の建立に尽力します。 鑑真は日本に着いてから5年間、戒壇院での授戒を制度として確立するためを東大寺で過ごしましたが、東大寺から解放された後の758年、故新田部親王(天武天皇の第七皇子)の旧宅を賜り、そこを「唐律招堤」と称し、戒院として教学の場を営むことになります。 聖武太上天皇はすでに崩御していたが、光明皇太后と孝謙天皇の鑑真への帰依は深く、当時権力を振るっていた藤原仲麻呂も鑑真を歓迎し、やがて鑑真を支持する人々から居室や宿舎を贈られ、倉庫、食堂、講義用の講堂、本尊を安置する仮金堂などが建てられ、鑑真の没後も金堂や東塔が建立されます。 伽藍全体が完成したのは平安時代の初頭であり、そのころ「唐律招堤」から「唐招提寺」となります。 実は、藤原仲麻呂の息子・藤原刷雄も建立に尽力したといいます。 後に仲麻呂は反乱を起こして一族連座して処刑されますが、六男の藤原刷雄は若い時から禅行を修めており、遣唐使留学生だった経歴が考慮され死を免れ隠岐に配流されたが、赦免されて官界に復帰後は但馬守に任ぜられている。

平成大修理を終えた唐招提寺・金堂の薬師如来立像、盧舎邦仏坐像、千手観音立像を拝みに、早速いってきました。ここは話題にことかきません。ぼちぼち紹介してきます。

 

 唐招提寺の 「金堂」は ”天平の甍” として知られ奈良時代に建立された金堂としての唯一の遺構です。 「過去」の「薬師如来立像」、「現在」の「盧舎邦仏坐像」、「未来」の「千手観音立像(阿弥陀如来像)」があり、 過去、現在、未来の「三世仏」といわれているが、一般的には盧舎邦如来の脇侍に薬師如来、千手観音が立つことはなく、 鑑真と文室浄三の思惑が反映されている。 上記の三尊と「講堂」の本尊「弥勒如来坐像」とで、「東」の「薬師如来立像」、「南」の「盧舎邦仏坐像」、「西」の「千手観音立像(阿弥陀如来像)」、「北」の「弥勒如来坐像」となり、これが東西南北の「四方仏」となっている。  金堂中央の本尊・盧舎邦仏坐像(3.05m)は、「脱活乾漆坐像」としては最大のもので、膨大な漆を使用していることがわかっています。 二重円光の光背の高さは515cmにもおよび、864体の小さな釈迦像の化仏を付けた数十の小光背により構成されている。 結跏趺坐し、右手は上に上げ、左手は掌を上にして膝上に置いている。(施無畏与願印と違って親指と人差し指で輪を作る来迎印) 写真は小学館「古寺を巡る」より

                                  阿部倉梯麻呂
仏教賛成派             ┏ 吉備姫王  ┗ 小足媛624-
蘇我稲目-579            ┃   ┣ 軽大郎女 ┣ 有間皇子639-   ┓
 ┣ 蘇我堅塩媛?-?        ┃   ┣ 36孝徳天皇(軽皇子)594-654 ┓┛
 ┃ ┃     ┏━━━━━━━━━┛  ┃  飛鳥宮 ┏漢皇子     ┃
 ┃ ┣ 桜井皇子            ┣ 35皇極天皇(宝皇女)594-661 ┃
 ┃  ┣ 炊屋姫(33推古天皇) -628   ┃  ┃板葺宮 (37斉明)       ┃
 ┃  ┃       ┃      大俣女王┃  ┣ 間人ハシヒト皇女628-665  ┛  ┓
 ┃ ┃      ┣ 田眼皇女  ┣ 茅渟王   ┣ 40天武(大海人皇子)630-686┃
 ┃ ┃       ┣ 竹田皇子 ┃     ┃   ┣ 十市皇女648-678     ┃┓ 
 ┃ ┃           ┣ 尾張皇子  ┃          ┃ 額田王631-689       ┃┃
 ┃ ┃       ┃      ┃     ┣ 38天智(中大兄皇子)626-671┛┃
 ┃ ┃       ┃息長真手王 ┃     ┃乳母は蘇我,葛城で育つ ┃┃  ┃
 ┃ ┃       ┃  ┗広姫 ┃     ┃   ┣ 大友皇子648-    ┃┃  ┛  
 ┃ ┃       ┃    ┣押坂彦人皇子  ┃ 宅子娘┣葛野王669-705┃┃
 ┃ ┃       ┃┏━━┛  ┃     ┃      十市皇女648-678 ┃┃
 ┃ ┃       ┃┃小熊子女?┣ 34舒明天皇(田村皇子)593-641      ┃┃
 ┃ ┃       ┃┃┃    ┃    ┃ ┣ 古人大兄皇子  622-   ┃┃
 ┃ ┃       ┃┃┣ 糠手姫皇女-664 ┃法提郎女         ┗ 倭姫王┃
 ┃ ┣ 31用明天皇┃┃┃ ━━┓      ┣ 蚊屋皇子                 ┃
 ┃ ┃宣化     ┃┃┃   ┃     蚊屋采女            ┃
 ┃ ┃ ┗┓    ┃┃┃     ┣ 来目皇子                             ┃
 ┃ ┃石姫皇后   ┃┃┃     ┣ 殖栗皇子 ┏━━━━━━━━━━━━━┛
 ┃ ┃ ┣ 30敏達天皇538-585┣ 茨田皇子 ┣大田皇女644-667 石川郎女
 ┃ ┃ ┃          ┃      ┃  ┣大伯皇女661-701┣-
 ┃29欽明天皇509-571        ┣ 厩戸皇子 ┃ ┣大津皇子 662-686 
 ┃ ┣穴穂部間人皇女-621  ━┛     ┃  ┃ ┣-     長娥子(不比等娘)
 ┃ ┣穴穂部皇子                   ┃  ┃山辺皇女663-686(天智娘)  ┃
 ┃ ┣宅部皇子             ┃  ┃    御名部皇女(天智娘) ┃
 ┃ ┃                 ┃  ┃          ┣ 長屋王
 ┃ ┃                 ┃  ┃尼子娘(胸形君徳善娘)┣鈴鹿王 
 ┃ ┣泊瀬部皇子(32代崇峻天皇)      ┃  ┃  ┣ 高市皇子654-696  ┓ 
 ┣ 小姉君                     ┃天武天皇631-686        ┃
 ┣ 石寸名郎女                      ┃┃┃┃┗ 刑部皇子665-705(忍壁)┃ 
 ┣ 境部臣摩理勢(蝦夷が滅す)        ┃┃┃┣但馬皇女-708      ┛
 ┃  ┗ 蘇我倉麻呂            孝徳┃┃┃氷上娘-682(鎌足娘)
 ┃     ┃              ┃ ┃┃┣長皇子-715
 ┃     ┃              ┃ ┃┃┃┣智努王693-770(文屋真人)
 ┃     ┃              ┃ ┃┃┃┃┗三諸大原-806
 ┃     ┣ 蘇我倉山田石川麻呂━━━┓ ┃ ┃┃┃┗大市王704-780 
  ┃     ┣ 蘇我日向                ┣乳姫┃┃┣弓削皇子-699
  ┃     ┣ 蘇我赤兄623-            ┃  ┃┃大江皇女-699(天智皇女 川島妹) 
  ┃     ┃ ┣常陸娘              ┃  ┃┃         長屋王
 ┃   ┃ ┃  ┣山辺皇女         ┃  ┃┃         ┣膳夫王-729
 ┃   ┃ ┃天智天皇          ┃  ┃┣ 草壁皇子662-689 ┣葛木王
 ┃   ┃ ┗大蕤娘669-724     ┃   ┃┃ ┣ 吉備皇女683-707
 ┃   ┃    ┣紀皇女       ┃    ┃┃ ┣ 軽皇子683-707(42文武)
 ┃   ┃    ┣田形皇女      ┃   ┃┃ ┣ 氷高皇女  (44元正)
 ┃   ┃    ┣穂積親王          ┃   ┃┃ 阿閉皇女661-721(43元明)
 ┃   ┃    ┃  ┃┗但馬皇女  ┃   ┃┃        聖武天皇
 ┃   ┃  天武天皇┣大嬢 二嬢   ┃   ┣41持統天皇645-703  ┗井上内親王
 ┃   ┗ 蘇我連子  大伴坂上郎女  ┃   ┣健皇子649-658
 ┗ 蘇我馬子(嶋大臣)551-626        ┣蘇我遠智娘-649
      ┣ 蘇我蝦夷587-645          ┗姪娘
   ┃  ┣ 蘇我入鹿605?-645豊浦宮
   ┃  ┗ 蘇我畝傍 
   ┣ 河上娘(崇峻天皇妃)
   ┣ 法提郎女
      ┣ 刀自古朗女-623
   ┗━━━━━┓
阿佐姫(弓削氏)  ┃
 ┣物部守屋-587 ┃
 ┣布都姫    ┃
 ┃  ┣物部鎌足姫大刀自
 ┣石上贄古大連(物部守屋の同母弟)
物部尾興?-?(安閑・欽明朝の大連で中臣鎌足と廃仏主張)

天武天皇631-686   軽皇子(42代文武天皇) 701-756
 ┣ 草壁皇子662-689 ━┛  ┃ 
持統天皇41代645-703      ┃ 
蘇我娼子娘            ┃
  ┣ 武智麻呂(南家)680-737┃ 
  ┃   ┣ 豊成704-765    ┃ 
  ┃  ┃   ┗継縄━ 乙叡 ┃母:百済王明信           
  ┃  ┃     -796  -808 ┃
  ┃   ┣ 乙麻呂         ┃
  ┃   ┃   ┗是公      ┃ 
  ┃  ┃     ┗ 吉子,雄友┃ 
  ┃  ┃ 大伴犬養娘-764 ┃         多治比真宗769-813 
  ┃  ┃  ┣ 刷雄?-?   ┃             ┃是公娘・吉子 -807    
  ┃   ┣ 仲麻呂706-764  ┃後に恵美押勝  ┃┣ 伊予親王
  ┃ 貞姫  ┣ 真従,真先 ┃         ┃┃乙牟漏皇后 760-790 伊勢継子
  ┃     房前娘・袁比良女┃         ┃┃┣ 高志内親王789-809┣高岳親王
  ┣ 房前  (北家)681-737┃元正の内臣  ┃┃┣ 安殿親王774-824(51平城天皇)   
  ┃  ┣ 永手714-771     ┃      和新笠┃┃┣ 賀美能親王 -842(52嵯峨天皇)   
  ┃  ┣ 魚名-783        ┃        ┣山部王(桓武天皇)737-806  
  ┃  ┣ 真盾━内麻呂    ┃右大臣     ┃ ┃           
  ┃  ┗ 鳥養   ┗ 冬嗣 ┃       ┃ ┣ 大伴親王786-840(53淳和天皇)  
  ┃       ┗子黒麻呂-794 ┃平安京視察  ┃百川娘・旅子 759-788   
  ┃       ┗葛野麻呂 ┃-818      ┃  
  ┣ 宇合ウマカイ(式家)694-737┃        ┃
  ┃   ┣ 広嗣 諸兄に対乱 ┃        ┃  
  ┃  ┣ 良継 白壁王支持 ┃         ┣ 早良親王(大伴家持派)
  ┃   ┃  ┣ 乙牟漏      ┃      白壁王(49光仁天皇)709-781        
  ┃   ┃ 阿部古美奈     ┃       ┣ 他部親王          
  ┃  ┣ 百川 道鏡追放   ┃県犬養広刀自┣ 酒下内親王754-829(斎宮 桓武妃)   
  ┃   ┃  ┣ 緒嗣774-843 ┃ ┃       ┃  ┗朝原内親王779-817(平城妃)    
  ┃  ┃  ┗ 旅子        ┃ ┣ 井上内親王717-775      
  ┃   ┗ 清成          ┃ ┣ 不破内親王          
  ┃長岡造 ┣ 種継737-785 ┃ ┃     ┣ 氷上川継782の謀反       
  ┃       ┃ ┣ 薬子 -810┃ ┃    塩焼王   大伴家持 坂上苅田麻呂  
  ┃       ┃ ┗ 仲成     ┃ ┃          
  ┃       ┗ 正子(桓武妃)┃ ┃          
  ┃五百重(天武夫人)     ┃ ┣ 安積親王728-744   
  ┃┣ 麻呂 (京家)695-737┃ ┃     
  ┃┃  ┗浜成流罪で京家没┃ ┃   701-756     
  ┃┃ 賀茂比売         ┣首皇子(45代聖武724)   
  ┃┃  ┣ 藤原宮子   ━━┛ ┣ 基皇太子727-728  
  ┃┃  ┣ 長娥子(長屋王妾)  ┃        
藤原不比等 659-720          ┣ 阿部内親王(46代孝謙/称徳718-770)
       ┣━━━━━━━━ 安宿姫701-760(光明子・皇后)
県犬養(橘)三千代-733                  
        ┣ 橘諸兄モロエ684-757(葛城王 真備・玄を重用) 
     ┃  ┗ 奈良麻呂 反藤原氏クーデター757    
      ┣ 佐為王(聖武天皇教育係)-737     
      ┣ 牟漏女王       
     美努王 
   栗隅王┛ 
  大俣王┛ 
難波皇子┛

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飛鳥寺

2009年10月24日 | 奈良・飛鳥時代

 時代は1400年前に遡る。飛鳥の地に、古墳に代わって本格的な仏教寺院が建立された。当時の法興寺は現在の飛鳥寺の20倍もの広さで壮麗な寺だったらしい。その後寺は寂れて江戸時代の後期に堂宇が再建され、現在は日本最古の仏像・釈迦如来坐像が残るのみになっている。 この像の作者は法隆寺の釈迦三尊像を製作したことでも有名な鞍作鳥である。しかしながら像のほどんどの部分は修復され、鳥がつくったのは左耳、指の一部のみであるという。 日本最古の仏像がある飛鳥は畝傍山、耳成山、天香具山に囲まれた極めて狭い場所である。 この場所に日本の中心としての飛鳥板葺宮、飛鳥浄御原宮があり、蘇我馬子が館を構えた甘樫丘や、馬子の墓といわれる石舞台古墳がある。 また数多くの石の遺跡が残っている。

甘樫丘から見た飛鳥寺一帯                           板葺宮

 

豊浦寺跡                           石舞台古墳

 

 日本に仏教が伝来したのは538年といわれている。百済の聖明王が仏像と経論を献じ 日本にはいった。百済は日本と通交しており多くの人が文化と技術を持って渡ってきたのである。その百済人が多く住んでいたのが飛鳥である。当時大和朝廷を構成していたのは大和を本拠地とする 物部氏・蘇我氏などの有力豪族であった。古くから武門の名家であった 物部氏に対して、渡来人と密接な関係のあった蘇我氏が新興勢力として勢いを伸ばしていた。 仏教排他論の 物部尾興と推進派の蘇我稲目はこのときに対立した。 当時の欽明天皇は百済からの仏像を朝廷に置かずに蘇我稲目に与えた。

 587年ついに尾興の子・守屋と稲目の子・馬子が神仏戦争を起こすこととなる。この熾烈な戦いでは多くの地方豪族は蘇我氏側に就き、 物部氏と蘇我連合軍との戦いになったが、連合軍側には後の聖徳太子が加わり連合軍の統合に一役かっている。 推古天皇の時代には聖徳太子が摂政として実質的な政権を担当し仏教を基調として政治を革新する。 仏像の制作、寺院の建立を推奨し、次第に仏教が浸透していった。 物部氏を滅ぼした蘇我馬子は本格的な大伽藍を持つ寺の建立を開始した。 それが飛鳥寺なのである。 物部との戦いに勝利した翌年の588年に建立を開始した飛鳥寺は渡来人の技術によるもので、蘇我氏の寺から国家の仏教寺院という位置づけに変化していった。 当時、高句麗や新羅と敵対していた百済は日本との繋がりを強めておくために、多くの技術と僧侶を惜しげなく投入したのである。 聖徳太子の師である僧・恵慈は高句麗から、慧聡は百済から、また 舎人であった秦河勝なども渡来人である。 

 飛鳥寺建設当時の伽藍配置は飛鳥寺式とわれ、「一塔三金堂」という様式である。 塔は仏舎利を納める墓所の意味を持ち、金堂は仏像を納める建物の意味を持つ。そして飛鳥寺の中心は塔であった。それが奈良時代にあると仏教美術が繁栄し、金堂に納められた仏像が重要視されるようになり寺の中心は塔から金堂へと変化した。 こうした壮大な飛鳥寺も次第に衰退していくこととなる。 物部氏が滅んだ後、蘇我氏の横暴ぶりは目にあまり、聖徳太子が622年に亡くなったあと、蘇我入鹿が権力を握り、ついには聖徳太子の長子である山背大兄王とその一族を全滅させた。 その入鹿は、645年皇極天皇の頃、中大兄皇子と中臣鎌足らの手によって殺害された。 藤原京遷都ののち飛鳥の地に取り残された飛鳥寺は徐々に衰退し、ほとんどの伽藍は焼失した。そうした歴史のなかで一部とはいえ飛鳥大仏が今も残っているのは奇跡といっていい。

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京都最古の広隆寺と桂宮院

2009年10月01日 | 奈良・飛鳥時代

 『日本書紀』によると、603年聖徳太子は群臣を前にして、「私は尊い仏像を持っている。 だれかこの仏を祀るものはいないか」と尋ねられた。そのとき秦造河勝(聖徳太子に仕えた舎人)が「私が祀りましょう」と名乗りでて、仏像を拝領した。そして、その仏像を祀るために建てた寺が、今の広隆寺の前身である蜂岡寺であるという。  また『広隆寺縁起』によると、あるとき聖徳太子は秦造河勝に次のような話をした。「私は昨夜、不思議な夢をみた。香ばしい香りに満ちた桂の林の中に大きな枯れ木があり、五百羅漢がその下に集まってお経を読んでいる。枯れ木からは大光明が放ち、羅漢の読経が微妙な声で仏法を説いているように聞こえ、まことに格別な霊地に思えた」。 すると、河勝は「その場所は我々が住む葛野です」と答え、その場所へ聖徳太子を案内した。そこでは、大きな桂の枯れ木の周りを無数の蜂が飛んでいて、その蜂の群は羅漢が説法しているように見えた。そこで、仮宮殿を造って楓野別宮となずけ、河勝に命じて蜂岡寺を建立させた。 楓野別宮は桂宮院のことであり、現在の建物は鎌倉時代の再建だが、国宝建造物として広隆寺の奥に建っている。 因みに、 秦氏族は、4世紀に百済国の弓月君が大勢の民を率いて渡来し帰化した。養蚕機幟の業が主で、先進的な大陸の農耕、土木、醸酒などの技術をもって地位を築き、6世紀の後半には、子孫の秦酒君が山城北部・葛野の地を賜っている。

 

  広隆寺新霊宝殿には50数体の仏像(17体が国宝)が安置されていて、一度に参拝することができる。 その中の宝冠弥勒の名で親しまれている弥勒菩薩半跏像は 国宝1号に指定された優美な弥勒像で、56億7000万年後にこの世に現れ、人々を救うという未来仏である。 半跏像は右手の指を頬に近づけ、まっすぐに下ろした左足に右足首をのせて、衆生の救済方法を思案している姿であるという。 聖徳太子が河勝に授けた仏像は、この宝冠菩薩とされている。

 実は、広隆寺にはもう一体の弥勒菩薩半跏像が安置されており、やはり国宝であるが、幾分憂いを含んだ表情をしているため、「泣き弥勒」の名で知られている。 『日本書紀』によれば、623年新羅の使節が来朝して、仏像1体および金塔と舎利を献上した。これらの献上品のうち仏像は蜂岡寺に安置し、その他は四天王寺に納めた、と記されている。

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藤原宇合が開基の太山寺

2009年09月09日 | 奈良・飛鳥時代

 太山寺は兵庫県神戸市西区にある天台宗の山岳寺院である。 本尊は薬師如来と十一面観音で、開基は藤原北家の宇合と伝えられている。  「播州太山寺縁起」によれば、元正天皇の勅願寺として716年に発願者である藤原鎌足の孫の藤原宇合が堂塔伽藍を建立したとされる。 開山(初代住職)は藤原鎌足の長男・定恵(不比等の兄)とされている。  開山とされる定恵は、若くして出家し、遣唐使とともに唐に渡った経験をもつ。 生涯について謎が多く、没年についても『日本書紀』『藤氏家伝』は665年、『元亨釈書』は714年とするなど定かではないが暗殺されたとされる。 太山寺の境内および周辺からは定恵の時代までさかのぼる遺跡、出土品等は確認されておらず、実際の創建は平安時代に降るとみられている。 南北朝時代の南朝方勢力として支院41ヶ坊に僧兵を有していた往時の繁栄をしのばせる大規模な本堂は国宝で、国の重要文化財は仁王門、阿弥陀如来坐像など数多い。 また安土桃山時代の枯山水名園、安養院庭園は国の名勝に指定され春は桜、秋は紅葉の名所である。

阿弥陀堂の阿弥陀如来坐像

 

天武天皇631-686   軽皇子(42代文武天皇) 701-756
 ┣ 草壁皇子662-689 ━┛  ┃ 
持統天皇41代645-703      ┃ 
蘇我娼子娘            ┃
  ┣ 武智麻呂(南家)680-737┃ 
  ┃   ┣ 豊成  704-765   ┃ 
  ┃  ┃   ┗継縄━ 乙叡 ┃母:百済王明信           
  ┃  ┃     -796  -808 ┃
  ┃   ┣ 乙麻呂         ┃
  ┃   ┃   ┗是公      ┃ 
  ┃  ┃     ┣ 吉子     ┃ 
  ┃  ┃     ┗ 雄友    ┃大納言     多治比真宗769-813 
  ┃  ┣ 仲麻呂706-764  ┃後に恵美押勝 ┃是公娘・吉子 -807    
  ┃  貞姫   ┣        ┃        ┃┣ 伊予親王
  ┃        房前娘       ┃         ┃┃乙牟漏皇后 760-790 伊勢継子
  ┃                     ┃         ┃┃┣ 高志内親王789-809┣高岳親王
  ┣ 房前  (北家)681-737┃元正天皇の内臣┃┃┣ 安殿親王774-824(51平城天皇)   
  ┃  ┣ 永手714-771     ┃      和新笠┃┃┣ 賀美能親王 -842(52嵯峨天皇)   
  ┃  ┣ 魚名-783        ┃        ┣山部王(桓武天皇)737-806  
  ┃  ┣ 真盾━内麻呂    ┃右大臣     ┃ ┃           
  ┃  ┗ 鳥養   ┗ 冬嗣 ┃       ┃ ┣ 大伴親王786-840(53淳和天皇)  
  ┃       ┗子黒麻呂-794 ┃平安京視察  ┃百川娘・旅子 759-788   
  ┃       ┗葛野麻呂 ┃-818      ┃  
  ┣ 宇合ウマカイ(式家)694-737┃        ┃
  ┃   ┣ 広嗣 諸兄に対乱 ┃        ┃  
  ┃  ┣ 良継 白壁王支持 ┃         ┣ 早良親王(大伴家持派)
  ┃   ┃  ┣ 乙牟漏      ┃      白壁王(49光仁天皇)709-781        
  ┃   ┃ 阿部古美奈     ┃       ┣ 他部親王          
  ┃  ┣ 百川 道鏡追放   ┃県犬養広刀自┣ 酒下内親王754-829(斎宮 桓武妃)   
  ┃   ┃  ┣ 緒嗣774-843 ┃ ┃       ┃  ┗朝原内親王779-817(平城妃)    
  ┃  ┃  ┗ 旅子        ┃ ┣ 井上内親王717-775      
  ┃   ┗ 清成          ┃ ┣ 不破内親王          
  ┃長岡造 ┣ 種継737-785 ┃ ┃     ┣ 氷上川継782の謀反       
  ┃       ┃ ┣ 薬子 -810┃ ┃    塩焼王    大伴家持  
  ┃       ┃ ┃  ┗娘    ┃ ┃           坂上苅田麻呂
  ┃       ┃ ┗ 仲成     ┃ ┃          
  ┃       ┗ 正子(桓武妃)┃ ┃          
  ┃五百重(天武夫人)     ┃ ┣ 安積親王728-744   
  ┃┣ 麻呂 (京家)695-737┃ ┃     
  ┃┃  ┗浜成流罪で京家没┃ ┃   701-756     
  ┃┃ 賀茂比売         ┣首皇子(45代聖武724)   
  ┃┃  ┣ 藤原宮子   ━━┛ ┣ 基皇太子727-728  
  ┃┃  ┣ 長娥子(長屋王妾)  ┃        
藤原不比等 659-720          ┣ 阿部内親王(46代孝謙/称徳718-770)
       ┣━━━━━━━━ 安宿姫701-760(光明子・皇后)
県犬養(橘)三千代-733                  
        ┣ 橘諸兄モロエ684-757(葛城王 真備・玄を重用) 
     ┃  ┗ 奈良麻呂 反藤原氏クーデター757    
      ┣ 佐為王(聖武天皇教育係)-737     
      ┣ 牟漏女王       
     美努王 
   栗隅王┛ 
  大俣王┛ 
難波皇子┛

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神護寺と和気清麻呂

2009年08月10日 | 奈良・飛鳥時代

 橘奈良麻呂の某反後の758年、孝謙天皇は皇太子大炊王を立てて、淳仁天皇を即位させると、藤原仲麻呂は天皇より恵美押勝という名を贈られている。 そして760年に太政大臣に、762年には正一位という最高潮を極めた。 その後息子・真先、弟・久須麻呂を参議にしたが、次第に仲麻呂に翳りが見え始める。 760年に光明皇太后が死去した。 淳仁天皇の後ろ盾はあったものの、孝謙太上天皇に近づいた看病禅師・道鏡との仲が親密になると、仲麻呂と孝謙との間に亀裂がはいるようになった。 仲麻呂は淳仁天皇を通じて、孝謙の態度を戒めると逆に孝謙は、国家の大事に対しての決済を行うようになり、仲麻呂の権力を奪ってしまった。   763年、仲麻呂側の僧を追放し、道鏡を少僧都とすると、益々孝謙と仲麻呂の確執は深まる。 そして仲麻呂は兵を集めて反乱にでるが、坂上刈田麻呂(坂上田村麻呂の父)に阻まれ、 逆賊となった仲麻呂は官位を奪われ、764年処刑される。 その後、淳仁天皇は廃され孝謙は復位して称徳天皇となった。 そしてその後称徳天皇が亡くなるまでの約7年間、女帝と道鏡による政治が行われる。   しかし769年、道鏡を天皇にするか、聖武天皇の血を残すか 悩むときがきた。 そして女帝は和気清麻呂を呼びよせ、決断をゆだねる。 和気清麻呂の姉・広虫は紫微中台の官人で、尼法均として女帝に仕えていたため、清麻呂は秀才官僚としてのし上がってきていた。 そして清麻呂は、道鏡の即位は律令制度の王位継承権に違反するとの判断を下すが、これに憤慨した称徳天皇は、清麻呂の官位を剥奪し、姉も備後に流罪となった。  この事件後、称徳天皇は継承者を指名しないまま病死し、道鏡も朝廷から姿を消したのである。 781年、病により皇位を山部皇太子に譲り桓武天皇が誕生し、弟の早良親王を皇太子にする。 桓武天皇は渡来氏族・和乙継の血をひく天皇であっただけに安泰ではなかった。 翌782年に氷上川継の某反が起きる。 氷上川継は天武系塩焼王と井上皇后の妹・不破内親王の間に生まれ、その血統から言っても桓武の即位に不満を持っていたのは確実である。 某反の結果、藤原浜成(京家・麻呂の子 中央への復帰はなく、京家は姿を消す)、大伴家持、坂上刈田麻呂らが逮捕される。 また、藤原魚名(北家・房前の子)はやめさせられ、翌783年になくなっている。  桓武天皇の擁立に貢献したのは藤原式家の良継、百川の陰謀であったが、桓武の皇后として良継の娘乙牟漏を、南家・是公の娘吉子、百川の娘旅子がはいることで、藤原家に支えられ、天皇独裁の立場となった。  784年桓武の寵臣 藤原種継があらわれ中納言となる。式家清成の子で百川の甥にあたる人である。 種継は桓武天皇の新天地として新羅系渡来氏族の秦氏が開発した長岡への遷都を勧めた。  当時桓武は、弟早良皇太子の勢力を懸念し、皇后・乙牟漏との子 安殿親王を皇太子につけたかった。 天皇が平城京への行幸の最中、寵臣種継が矢で倒れた。事件の容疑者である大伴氏らが逮捕されるが、皇太子・早良親王への報告の上の決行と自白する。 これにより朝廷は早良親王を逮捕すると、淡路に排される途上断食の末に死亡した。 その後、桓武の子 安殿親王は皇太子となるが、桓武天皇は早良親王の怨霊に悩まされることになる。 788年に近親者・旅子夫人、早良親王の母でもある高野皇太后、皇太子安殿親王の母・乙牟漏が相次いで死亡したからである。また、790年頃、天然痘が蔓延した。  道鏡事件で流罪になっていた和気清麻呂はその後朝廷に復帰にていたが、792年頃遷都を推進すると、長岡の取り壊しを行い、794年に葛野群宇太村を平安京とし新京造営を行った。

 和気清麻呂は藤野(備前国和気郡藤野郷)にうまれ、吉備藤野和気真人といった。平城京・長岡京・平安京で官人として仕えたときも故郷とは深い関係を持ち続けて美作・備前の国造りを兼ねていたという。 清麻呂の先祖は垂仁天皇で、その皇子・鐸石別命の三世孫の弟彦王が美作と備前で勢力を蓄えたことによる。 九州から近畿入りをした神功皇后軍と忍熊王との軍が戦ったときに南山背が戦場となり、山背の豪族・和珥氏が神功側に味方をして勝利を納めた。このときに鐸石別命は功を挙げたのである。 和気氏も神功側に味方をし応神王朝が誕生する契機となったことで頭角をあらわした。 清麻呂を考える上で欠かせないのが姉・広虫の存在であった。 道鏡事件で流された清麻呂に連座して広虫も備後国に配流となったが、参議の藤原百川は密かに支援をしていたという。 道鏡を寵愛していた称徳天皇が死ぬと光仁天皇が即位し、清麻呂と広虫は許されて天皇に仕え、清麻呂は平安京の造営大夫として抜擢された。 広虫は葛木連戸主に嫁いだが宮中への出仕は続き、764年に道鏡の排除をはかって藤原仲麻呂が乱を起こそうとして敗北したときには、斬刑となった375人の罪を減じるように天皇に働きかけたのは広虫であった。 769年に太宰主神の阿蘇麻呂が宇佐八幡の神託と称して道鏡を皇位につけると天下泰平になると進言したしたときに、宇佐の神意を確かめるように任を託されたのも広虫である。 結局、和気清麻呂がその任を果たしたのであるが、その道中、道鏡からの圧力の痕跡が数多く残っている。 桓武が即位した781年、清麻呂は摂津大夫となり長岡京を造営するためには舟運のため淀川の整備が必要として働き、平安京遷都のさいには清麻呂の息子・広世とともに尽力した。 清麻呂は淀川治水のさいに水源である奥嵯峨の清滝を訪れ、おおいに関心をもったようである。

天武天皇631-686   軽皇子(42代文武天皇) 701-756
 ┣ 草壁皇子662-689 ━┛  ┃ 
持統天皇41代645-703      ┃ 
蘇我娼子娘            ┃
  ┣ 武智麻呂(南家)680-737┃ 
  ┃   ┣ 豊成  704-765   ┃ 
  ┃  ┃   ┗継縄━ 乙叡 ┃母:百済王明信           
  ┃  ┃     -796  -808 ┃
  ┃   ┣ 乙麻呂         ┃
  ┃   ┃   ┗是公      ┃ 
  ┃  ┃     ┣ 吉子     ┃ 
  ┃  ┃     ┗ 雄友    ┃大納言     多治比真宗769-813 
  ┃  ┣ 仲麻呂706-764  ┃後に恵美押勝 ┃是公娘・吉子 -807    
  ┃  貞姫   ┣        ┃        ┃┣ 伊予親王
  ┃        房前娘       ┃         ┃┃乙牟漏皇后 760-790 伊勢継子
  ┃                     ┃         ┃┃┣ 高志内親王789-809┣高岳親王
  ┣ 房前  (北家)681-737┃元正の内臣  ┃┃┣ 安殿親王774-824(51平城天皇)   
  ┃  ┣ 永手714-771     ┃      和新笠┃┃┣ 賀美能親王 -842(52嵯峨天皇)   
  ┃  ┣ 魚名-783        ┃        ┣山部王(桓武天皇)737-806  
  ┃  ┣ 真盾━内麻呂    ┃右大臣     ┃ ┃           
  ┃  ┗ 鳥養   ┗ 冬嗣 ┃       ┃ ┣ 大伴親王786-840(53淳和天皇)  
  ┃       ┗子黒麻呂-794 ┃平安京視察  ┃百川娘・旅子 759-788   
  ┃       ┗葛野麻呂 ┃-818      ┃  
  ┣ 宇合ウマカイ(式家)694-737┃        ┃
  ┃   ┣ 広嗣 諸兄に対乱 ┃        ┃  
  ┃  ┣ 良継 白壁王支持 ┃         ┣ 早良親王(大伴家持派)
  ┃   ┃  ┣ 乙牟漏      ┃      白壁王(49光仁天皇)709-781        
  ┃   ┃ 阿部古美奈     ┃       ┣ 他部親王          
  ┃  ┣ 百川 道鏡追放   ┃県犬養広刀自┣ 酒下内親王754-829(斎宮 桓武妃)   
  ┃   ┃  ┣ 緒嗣774-843 ┃ ┃       ┃  ┗朝原内親王779-817(平城妃)    
  ┃  ┃  ┗ 旅子        ┃ ┣ 井上内親王717-775      
  ┃   ┗ 清成          ┃ ┣ 不破内親王          
  ┃長岡造 ┣ 種継737-785 ┃ ┃     ┣ 氷上川継782の謀反       
  ┃       ┃ ┣ 薬子 -810┃ ┃    塩焼王    大伴家持  
  ┃       ┃ ┃  ┗娘    ┃ ┃           坂上苅田麻呂
  ┃       ┃ ┗ 仲成     ┃ ┃          
  ┃       ┗ 正子(桓武妃)┃ ┃          
  ┃五百重(天武夫人)     ┃ ┣ 安積親王728-744   
  ┃┣ 麻呂 (京家)695-737┃ ┃     
  ┃┃  ┗浜成流罪で京家没┃ ┃   701-756     
  ┃┃ 賀茂比売         ┣首皇子(45代聖武724)   
  ┃┃  ┣ 藤原宮子   ━━┛ ┣ 基皇太子727-728  
  ┃┃  ┣ 長娥子(長屋王妾)  ┃        
藤原不比等 659-720          ┣ 阿部内親王(46代孝謙/称徳718-770)
       ┣━━━━━━━━ 安宿姫701-760(光明子・皇后)
県犬養(橘)三千代-733                  
        ┣ 橘諸兄モロエ684-757(葛城王 真備・玄を重用) 
     ┃  ┗ 奈良麻呂 反藤原氏クーデター757    
      ┣ 佐為王(聖武天皇教育係)-737     
      ┣ 牟漏女王       
     美努王 
   栗隅王┛ 
  大俣王┛ 
難波皇子┛

京都・時代祭りでの広虫

 

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桂川と豪族・秦氏

2009年08月06日 | 奈良・飛鳥時代

 秦氏といえば渡来系の豪族で、聖徳太子の舎人であった秦河勝が、その氏族の名を日本中に轟かせた。 平安京遷都でも一役かった秦氏の本拠地は映画村のある太秦地方である。 確かに「秦」の文字が地名となっている。 この秦氏が桂川と大きなかかわりがあるという話をはじめて知った。 桂川は昔は大堰川、古代には葛野川といった。 源氏物語には桂川のことを大堰川として何度も登場する。 そして桂川の中でも観光客が数多く訪れる渡月橋の北側は保津川という名になって、保津川下りでお馴染みの保津峡がある。 保津峡は川の浸食によってできたもので角倉了以は木材の運搬には流れが速すぎる保津峡を削って安全に川下りができるようにと土木工事に人生をささげた。 このように渡月橋を境にして上流は危険なほどに水流が早く、下流はとてもおおらかな流れとなる。 この理由は渡月橋のすぐ北側にある川幅いっぱいの堰にある。この堰のために古代の葛野川は大堰川と呼ばれるようになり、堰きとめられた川の水は取水口から外部の水路へと導かれて灌漑用水として利用される。 これは長岡京での失敗の反省からである。 かつて用水路が整備されていなかった長岡京では雨が降らなければ作物の収穫ができず、雨が降れば洪水を起こして衛生面から疫病がはやって、やがては呪われた都に変貌していった。 これの反省で試みられたのが秦氏の財力を投入しての堰と取水の土木工事である。 排水先の平野の状況を把握していた豪族・秦氏でしかなしえない工事であったともいえる。 取水口は灌漑用だけではなく、後に物資を運ぶ舟用の運河としても利用され改造されたのが西高瀬川である。 堰によって大堰川と名を変えた葛野川には、桓武天皇も御幸を行い、宇多天皇は大堰川に対して歌を詠んでいるという。

 葛野の地で勢力を固め、嵯峨野に多くの古墳を残しているという秦氏が堰を造ったのはいつごろか。最初に記載した秦氏の長者・秦造河勝は推古天皇の時代に葛野を本拠として広隆寺を建立し朝廷にも出仕した。 この頃に既に田の用水に大井を利用した記述があるらしい。 大井とは堰のことであり専門家である秦氏が関与したことは間違いない。 秦河勝は皇極天皇にも仕えている。 この皇極天皇は舒明天皇の妃となり、中大兄皇子(後の天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)の母となった。 天智天皇が藤原鎌足と組んで蘇我入鹿を倒したそのとき皇極天皇は目の前で斬首を見たのである。 この乙巳の変により蘇我氏宗家は滅び、大化の改新が始まり、いつしか皇極天皇は石造りの水路の建造に夢中になる。 皇極天皇の板蓋宮近辺から奈良の石上神社あたりまで伸びた水路の建造によって民衆は疲弊し、極めて評判は悪かったが、この水路もひょっとしたら秦河勝を首長とする秦氏の技術によるのかもしれない。(下名の説:生没年不詳の秦河勝は聖徳太子よりも数年年上だから645年の乙巳の変のころは80歳を超えることになる。まして皇極天皇が水路建設に夢中になったのはそれから10年くらい後なので、この頃に河勝はいない。 また、河勝の時代の堰は石造りではなく、竹や木を使っての水位調整と考えられるから、この頃の数十年で堰、水路の技術は極めて発展したと思われる。)  つまり葛野大堰を造ったのは秦造河勝とみていいと森浩一先生が述べられている部分は大いに賛成である。  名前をよく見れば河に勝つとなっていてその人生の意気込みを河をコントロールすることに注いだわかりやすい証拠ではないかとも云える。

板蓋宮近くの甘樫丘発掘現場(暗渠、水路、溝などが発見されたもの) 2007.2.11

 

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永観堂・みかえり阿弥陀

2009年06月27日 | 奈良・飛鳥時代

 紅葉で知られる永観堂は禅林寺という正式名称を持っている。 この寺の創建は極めて古く、南禅寺が禅寺・永観堂の南に位置したから命名されたくらいである。 禅の名がついているが、禅寺ではなく最初は真言宗、後に浄土宗の寺となった。 永観というのは、かつてこの寺の住持だった僧の名前であるが開祖ではない。 永観堂の開山は空海の高弟・真紹僧都(797-873)で、清和天皇から863年に禅林という寺名を与えられこのときに開いた道場が永観堂の起源となったという。 真紹僧都から第7代の住持として永観がこの寺にきた。 学問に励む永観は浄土教の影響を受けて念仏信仰の道に入り、平等院鳳凰堂を建てた藤原頼通などの知遇を受けたが、光明山に隠棲生活を送り始めた。 1072年に再び禅林寺にもどった永観は一生をこの地で過ごした。 勧進や地域開発を行った行基のように、永観も衆生救済のために奔走し京都の人々から親しまれたという。

 当時の念仏者たちは恵心僧都・源信の往生要集が説く観想念仏をさらに進めて称名念仏を説き、当時の人々に受け入れられた。 この教えはその後に登場する法然に受け継がれた。 真言宗だった永観堂が浄土宗に変わったのは第12代の住持・静遍僧都(1166-1224)の頃という。 静遍僧都は平頼盛の子であり、池禅尼の孫に当たる。 つまり源頼朝が平家を滅亡させた後も頼盛一族だけは池禅尼から受けた庇護を恩に思い保護さえ行った。 そして静遍僧都は真言密教の僧として 名声を得るようになる。 静遍僧都は笠置の貞慶僧都を師と仰ぎ、論敵の法然を論破しようと貞慶の意思を受け継いだ。 しかし法然の念仏集を読むうちに自分の間違いに気づき、法然の信仰に傾倒していくのである。 この静遍僧都の後を継いだのが善恵坊証空である。 証空は法然の高弟のひとりで念仏は徹底していた浄土宗西山派の開基という。 そして応仁の乱の頃には永観堂は真言・浄土の寺ではなく阿弥陀仏を本尊とする浄土宗西山派の寺にかわっていった。 本尊の阿弥陀如来は「みかえり阿弥陀」として知られており、永観が修行中に合掌をして祈ると阿弥陀は振り返ったことから、その姿をとどめてつくられたという。念仏を唱えて阿弥陀来迎を待ち望むというのは当時の人々には普通のことであり、熱心な浄土教の信者であった藤原道長も臨終の際には阿弥陀如来像から五色のひもを引き、そのひもの先を握り締めて息をひきとったという。

 

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奈良二上山・鹿谷寺跡

2009年06月24日 | 奈良・飛鳥時代

 聖なる二上山を登頂したあと、通称竹内街道・国道166号線(推古天皇の時代に造られた官道第一号) への帰り道は鹿谷寺経由のコースをとった。 まさに奈良時代には石棺や石塔に使われた凝灰岩の産地という雰囲気いっぱいの岩肌下山である。 二上山の雄姿、雄岳(517m)と雌岳(474m)を後に 30分ほど降りると 「史蹟 鹿谷寺跡」に到着し、巨大な多層塔があった。 わが国最古の十三重石塔(8世紀・5.45m)だそうだ。 そこは寺院建設のため、尾根を切り出して造った造成地で、十三重石塔は、凝灰岩性の地山を堀り残して造ったもので、塔自体が地面と地続きになっているという。 木造では三重塔・五重塔がほとんどであるが、石造では三・五・七・九・十三重塔と各種あり、層数は奇数が原則である。 飛鳥時代に中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を倒す計画を練った所として有名な多武峯・談山神社にある木造十三重塔は1532年の再建で、世界唯一のものとしてしられており、十三には特殊な意味合いがありそうであるが、今はよくわからない。

  

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唐招提寺と智努王・文室浄三

2009年05月30日 | 奈良・飛鳥時代

 文室浄三693-770は、奈良時代の皇親で後に臣籍降下することによって政治的な圧力から逃れて自己の意思を全うした人物である。 父は天武天皇の皇子・長親王で、初名は智努王といい、兄弟に大市王等がいた。  717年従四位下に叙されると、造宮卿などを歴任し、平城京の造営を手がけたといわれる。 752年文室真人の姓を賜って臣籍に下り、761年頃浄三と名を改めた。 これは唐招提寺に帰依した鑑真より戒律を授かったためである。 757年参議となり、中納言を経て762年御史大夫(大納言)に昇任すると、764年には職を辞している。 770年の称徳天皇の崩御後、吉備真備に次期天皇に推されたが、浄三はこれを辞退し、 その約2ヵ月後に亡くなった。 藤原仲麻呂による権勢を批判した鑑真とともに唐招提寺の建立に尽力した。

 文室浄三は、聖武天皇の招きに応じ、苦難の末、日本にやってきた唐僧鑑真和上とともに唐招提寺の建立に尽力します。 鑑真は日本に着いてから5年間、戒壇院での授戒を制度として確立するためを東大寺で過ごしましたが、東大寺から解放された後の758年、故新田部親王(天武天皇の第七皇子)の旧宅を賜り、そこを「唐律招堤」と称し、戒院として教学の場を営むことになります。 聖武太上天皇はすでに崩御していたが、光明皇太后と孝謙天皇の鑑真への帰依は深く、当時権力を振るっていた藤原仲麻呂も鑑真を歓迎していた。 やがて鑑真を支持する人々から居室や宿舎を贈られ、倉庫、食堂、講義用の講堂、本尊を安置する仮金堂などが建てられ、鑑真の没後も金堂や東塔が建立されます。 平安時代初頭に伽藍全体が完成し、そのころ「唐律招堤」から「唐招提寺」となります。 

 唐招提寺の 「金堂」は ”天平の甍” として知られ奈良時代に建立された金堂としての唯一の遺構です。 「過去」の「薬師如来立像」、「現在」の「盧舎邦仏坐像」、「未来」の「千手観音立像(阿弥陀如来像)」があり、 過去、現在、未来の「三世仏」といわれているが、一般的には盧舎邦如来の脇侍に薬師如来、千手観音が立つことはなく、 鑑真と文室浄三の思惑が反映されている。 上記の三尊と「講堂」の本尊「弥勒如来坐像」とで、「東」の「薬師如来立像」、「南」の「盧舎邦仏坐像」、「西」の「千手観音立像(阿弥陀如来像)」、「北」の「弥勒如来坐像」となり、これが東西南北の「四方仏」となっている。  金堂中央の本尊・盧舎邦仏坐像(3.05m)は、「脱活乾漆坐像」としては最大のもので、膨大な漆を使用していることがわかっています。 二重円光の光背の高さは515cmにもおよび、864体の小さな釈迦像の化仏を付けた数十の小光背により構成されている。 結跏趺坐し、右手は上に上げ、左手は掌を上にして膝上に置いている。(施無畏与願印と違って親指と人差し指で輪を作る来迎印) 写真は小学館「古寺を巡る」より

金堂 三尊像                                盧舎邦仏坐像

  

 金堂向かって左の千手観音立像(5.4m)は、「木心乾漆造」では最古最大の像で、右側に位置する薬師如来立像(3..4m)とともに「木心乾漆造」です。 ただし 木心乾漆造の漆の使用量は盧舎邦仏坐像に比べて極端に少なく、当時の鑑真、文室浄三の権勢の衰えと仏像建造の資金との関わりをうかがうことができる。 頭上に十面を乗せ、42本の大脇手を含めて953本の脇手を付けている。 もともとは1000本を備えていたと思われ、正しくは千手千眼観自在菩薩といい、掌それぞれに一眼が墨書きされている。  光背は唐草や火焔をあしらった円形の頭光で、中央には八葉蓮華がある装飾性豊かなものである。  講堂の中央須弥壇に座す弥勒如来は弥勒菩薩が釈迦に次いで如来になったもので未来仏と云われる。 左の掌は下にして膝のうえに乗せる蝕地印を結び、釈迦が悟りを開いた状態を示す珍しいものである。 

金堂・千手観音立像                          講堂・弥勒如来坐像

 

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かぎろひ・柿本人麻呂

2009年05月25日 | 奈良・飛鳥時代

 東の野にかぎろひの立つ見えてかえり見すれば月かたぶきぬ。原文では「東野炎立所見而反見為月西渡」となるようです。   柿本人麻呂が、軽皇子(後の文武天皇)に随行して安騎野に宿った時に作ったとされる歌である。  「荒道」を往き、亡き父・草壁皇子と遊猟した想い出の地を訪れた皇子(軽皇子)は、懐かしさにこころ騒ぎ、寝つかれないままに朝を迎える。   「阿騎の野に宿る旅人打ち靡き寝も寝らめやも古思うに」  「ま草刈る荒野にはあれど黄葉の過ぎにし君が形見とぞ来し」   「東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ」  「日並の皇子の尊の馬並めて御猟立たしし時は来向かう」   詠われた軽皇子の安騎野遊猟は父皇子の死からおよそ四年後のことのようである。  ここで詠まれた安騎野というのは奈良・大宇陀町にあり、 現在では柿本人麻呂公園として整備され、すぐ北側にはかぎろひの丘がある。 もちろん当時に柿本人麻呂が軽皇子とともに見たという「かぎろひ」 に興味を持って是非見てみたいと思いこの公園にいった。 「かぎろひ」とは、日の出の二時間ほど前に見られる深紅とブルーで彩られた状態をいうらしいが、 実際の日の出が六時四十分すぎに対して、四時ごろから見られた最初の微光が観察されたのが平成8年で、過去をさかのぼっても数度しか見ることはできないらしい。 

女色夫古娘 泊瀬部皇女  姪娘(蘇我倉山田石川麻呂・娘) 
   ┃   ┃      ┣ 御名部皇女 
   ┣ 川島皇子657-691  ┣ 阿閉皇女(43代元明天皇)661-722  
天智天皇(中大兄皇子) 626-671                  ┃
 ┣*1           ┣大友皇子39代弘文天皇648- ┣氷高皇女(44代元正天皇)   
  ┣*2        宅子娘     ┃             ┣━━━━━━━吉備皇女683-729
遠智娘            額田王       ┣葛野王669-705┃ 宮子682-754        ┃
宍戸臣大麻呂       ┣━十市皇女652-678     ┓ ┃  ┣首皇子(聖武天皇)701-756┃
 ┣ 泊瀬部女       ┃*1大田皇女-667      ┃ ┣軽皇子(42代文武天皇)683-707┃
 ┣ 忍壁皇子656-705┃┣ 大津皇子662-689    ┃ ┃ ┣高円朝臣広成701-    ┃ 
 ┣ 磯城皇子       ┃┣ 大伯皇女661-701斎王┃ ┃  ┣高円朝臣広世      ┃
40代  天武天皇  631-686              ┃ ┃石川朝臣刀子娘             ┃
 ┣ 長皇子 ┃ ┃┃  ┣ 草壁皇子662-689    ┃ ┛ ┏━━━━━━━━━━━━┛
 ┣弓削皇子┃  ┃┃ *2持統天皇41代645-703  ┃  ┣膳夫王-729
大江皇女   ┃  ┃┃              ┃    ┣葛木王 
      氷上娘 ┃┣━━     高市皇子654-696┛   ┣鉤取王 
           ┃胸形君徳善女尼子娘┣ 長屋王676-729  
           ┃               ┣河内女王┣安宿王(奈良麻呂乱で流罪高階真人) 
           ┃天智天皇┓       ┣ 鈴鹿王 ┣山背王-763
          ┃ 御名部皇女(元明天皇・姉)658┣黄文王
           ┣ 新田部皇子-735      長娥子(不比等娘,宮子妹)
      五百重娘 ┣ 塩焼王-764  
      (鎌足娘)  ┗ 道祖王-757(ふなど)聖武後皇太子(朝廷機密漏洩事件)

 

 

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7年ぶりの御開帳・善光寺

2009年05月10日 | 奈良・飛鳥時代

7年ぶりの前立阿弥陀三尊御開帳・善光寺

 本田善光を開基とする善光寺、今年は7年ぶりの御開帳ということで、善光寺式前立阿弥陀三尊像を拝観するのを楽しみに行きましたが、とても拝観できる状態ではございませんでした。 因みにご本尊は552年に百済から渡ってきた日本最古の仏像であり秘仏ですので約1400年間誰も見たことはなく、本堂奥の厨子の中に安置されています。 やはり拝観のみを目的に早朝より赴く必要があります。 本堂前の回向柱(本尊の右手と結ばれている)に触れることすらままならず、釈迦堂の回向柱に触ることでご利益を頂きました。  阿弥陀如来右手の印相は施無畏印で東大寺大仏と同じで衆生の畏れを取り除くことを意味しています。 左手の印相には大きな特徴があり、手を下げ、第二指、第三指を伸ばし、他の指を曲げた形をしており、刀剣印と呼ばれるとても珍しい印相です。右の観音菩薩、左の勢至菩薩の印相は梵篋印と呼ばれ、胸の前に左右の手のひらを上下に重ね合わせる珍しい格好をしています。

  (平凡社『日本史大事典』より) 長野市にある天台宗および浄土宗の別格本山で、古来より、四門四額と称し、東門を定額山善光寺、南門を南命山無量寿寺、北門を北空山雲上寺、西門を不捨山浄土寺とする。 本尊は善光寺式阿弥陀三尊で、善光寺如来とも呼ばれる。 「扶桑略記」によると、欽明天皇十三年に百済国の聖明王が献じた一尺五寸の阿弥陀仏像と一尺の観音・勢至像が善光寺如来であるといい、この像を推古天皇十年四月八日に秦巨勢大夫に命じ信濃国に送ったと記している。  さらに欽明天皇十三年、百済国より摂津難波に漂着した阿弥陀三尊仏が、推古天皇十年信濃国水内郡に移ったとしている。また「伊呂波字類抄」には推古天皇十年に信濃国麻績村へ如来が移され、さらに四一年後の皇極天皇元年に水内に移り善光寺が創建されたと述べている。 

 1179年の焼失に際して、源頼朝は87年信濃の御家人および目代に対して、勧進上人に助力し尽力すべきことを命じた。 この頼朝による善光寺再建への助成は、勧進上人すなわち善光寺聖の勧進活動の成果にほかならない。彼らは種々の説話をもって各地を遊行し、善光寺信仰の勧進教化に努めたが、その説話の一つに、善光寺如来と聖徳太子との間で消息の往返がなされたという話がある。善光寺聖はこの説話によって、冥界からの救済を説く善光寺信仰と、四天王寺の西門で極楽往生を願う念仏信仰とを結びつけ、善光寺如来と聖徳太子が共同で念仏者を往生させると唱導したのである。  それ以後、善光寺は生身弥陀の浄土ともいわれ、全国的総菩提所として納骨、納経、塔婆供養などの死者追善儀礼が行われるようになった。「沙石集」には鎌倉より娘の遺骨を善光寺に送ろうとした父母の話があり、当時善光寺への納骨が庶民の間でもさかんに行われ、そのうえ、遺骨を運ぶ聖の存在したことをうかがわせる。 善光寺の周辺から大峰山中腹の花岡平に至る広い範囲から発見された、数千基にも及ぶ中世の小型五輪石塔の存在は、そうした追善儀礼の盛況を示すものである。  また「平家物語」の千手前、あるいは「吾妻鏡」の虎御前などの伝承からもうかがえるように、中世には女人往生の霊場としても有名であった。

 善光寺における浄土信仰の成立と発展が、この地を念仏信仰の一大中心地としたことは、重源、明遍、証空、生仏、然阿、良慶、良山、親鸞、一遍らの高僧知識をはじめ、多くの念仏者の参詣と隠遁からも明らかである。 しかも北条氏による不断念伝衆・不断経衆の粮料寄進、保護もあって、善光寺の念仏は全盛をきわめるに至った。  さかんに行われた善光寺の念仏は、融通念伝の系統に入るものであり、一遍の善光寺参詣の伝承からも知られるごとく、踊をともなった念仏であった。 現在、善光寺大勧進には元禄年間(1688~1704)の「融通念仏仏名帳」や1661年(寛文元)制作の「融通念仏縁起」が保存され、しかも信者には今なお「融通念仏血脈譜」が配布される。 一遍は善光寺参詣ののち、みずからの行法に善光寺系の踊念仏を採り入れるなど、その影響を多く受けた。 一方、善光寺にあっても、一遍や真教の因縁で、時衆の一部が念仏衆と堂衆を兼ねながら当寺にとどまることとなり、ひいては妻戸衆の時宗化がなされた。 なおとくに注目すべきは、この期に成立した浄土宗名越派や浄土真宗高田派、あるいは時宗の徒が善光寺信仰を基盤に、それぞれの教線拡大を図ったことである。

 戦国時代の善光寺は、武田信玄と上杉謙信による数度の川中島の合戦で荒廃し、本尊はじめ多くの寺宝が甲府に移された。 その後、善光寺如来は岐阜、岡崎、吉田、甲府、さらに1597年には豊臣秀吉によって京都大仏殿方広寺に移されたが、98年に四二年ぶりに信州へ帰った。その間荒廃していた善光寺も1600年、豊臣秀頼の寄進によって如来堂は再建されたが、これも15年焼失した。その後も再建と炎上が繰り返され、42年の火災のときには再建をめぐって大勧進と大本願の確執もあった。 現在の本堂は92年に計画され、1700年には江戸幕府が松代藩真田家に普請方を命じ、日光門主の特旨で、江戸谷中感応寺住持慶運が善光寺大勧進職に任ぜられた。彼は翌年からまる五年間、江戸をはじめ日本全国で出開帳を行って再建の費用を集め、総工費二万四五七七両を費やして、07年ついに本堂が完成した。 また善光寺には天台宗の大勧進と浄土宗の大本願とがあり、大勧進は元来勧進聖の元締めとも、金堂(本堂)勧進の勧進上人の称からくるともいわれ、以前は妙観院と称し権別当職にあり、経衆の首班であった。大勧進は一時、真言宗醍醐寺の法流に属していたが、1643年寛永寺直末となり、善光寺別当と称し善光寺を管理するようになった。大本願は尼寺で開山を尊光上人と伝え、初め三論宗であったが、六五世称誉智誓上人の代に浄土宗に改宗したという。  この大勧進と大本願は江戸初期以来たびたび訴訟を繰り返し相争ったが、近年は両者並んで善光寺住職となり、本尊は善光寺の所有とし、大勧進・大本願双方の保管ということで落着している。

 

 

 

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當麻寺 中将姫伝説

2009年04月16日 | 奈良・飛鳥時代

 中将姫(747-775)は、右大臣藤原豊成 (藤原鎌足の曾孫)の娘である。 豊成はその頃朝廷に使えていた紫の典侍という美しい官女を妻に迎えたが、久しく子供が産まれず、そのために夫婦は長谷寺の観音に参篭して祈願をこめ、そして生まれたのが中将姫である。 ところが不幸なことに、姫が5才の時、その母が亡くなったので、父豊成は橘諸房の娘・照日前を後妻として迎えた。  姫は生来、輝くばかりの美貌と才能に恵まれ、9才の時には孝謙天皇の前に召されて、並み居る百官の前で琴を弾いた。天皇は大変感心されて、褒美として玉の簪を賜われた。姫が成長するに従い、和歌や音楽の才能はますます人々の目を見張らせるようになり、15才の時には三位中将の位までいただいた。それ以降、世間ではこの姫のことを中将姫と呼ぶようになる。  ところが継母の照日前は、こうした姫を次第に憎むようになり、ついには殺そうとまで思い詰めるようになる。 その頃、豊成は橘奈良麻呂が起こした反乱に関与したとして、九州に流罪となった。照日前は、この時とばかり、一気に姫を殺そうと計った。 しかし、姫はその身の上に同情した一人の家来によって危うく難を逃れたが、更に執拗に迫る追っ手から逃れるために、長谷寺や雲雀山など、あちらこちらをさまよい歩いた。  この時、姫は風の便りに、美濃の国大洞の里の願成寺の噂を耳にした。東大寺大仏建立の折りに、いろいろ霊験があったという話で、特にそのご本尊は、日頃尊信する長谷観音と同じ十一面観世音菩薩であると聞き、姫はその参詣を思い立って、はるばるこの地を訪れたのである。ところが、長い旅の疲れと折からの冷え込みのために婦人病にかかって苦しみ、なかなか治らないので困り果てた姫は、この寺の観音様に救いを求め、一心に祈った。すると不思議なことに、病気はたちまち快癒してしまった。姫は大層喜び、境内に一本の桜を植えて、真心を込めて祈った。『桜よ、お前は私に代わって、いつまでもこの観音様をお守りしておくれ。そしてそのご威徳を美しい花で末永く飾っておくれ。』そして観音様に向かい、『観世音菩薩様、私は今度の病気で、女の身には女しか分からない様々な苦しみがあることを知りました。どうか菩薩のお力で、この桜の花や枝葉を大切に保持する婦人には、あらゆる女性特有の災厄から守り、安産に、育児に、良縁に、夫婦の生活に、女の幸せをいっぱい与えてやって下さい。』  このようにして姫は、90日もの長い間、一心に祈り続けた。長い祈りを終えると、姫は大和の当麻寺で織ったのと同じ蓮糸の曼陀羅を一幅織り上げ、それを当山に納めた。この曼陀羅はその後長く寺の宝物として大切にされていたが、どういう訳があったのか、寛正三年に、尾張国飛保(愛知県江南市)の円福寺に飛んでいった。円福寺の方では、東の空から日輪が出ると同時に曼陀羅が飛んできたというので、日輪山曼陀羅寺と称号を改めた。

蘇我娼子娘
  ┣ 武智麻呂(南家)680-737 
  ┃   ┣ 豊成  704-765  
  ┃  ┃   ┣  中将姫747-775(母:紫の典侍) 
  ┃  ┃   ┗  継縄ツグタダ-796(桓武天皇側近) 
  ┃   ┣ 乙麻呂            ┣ 乙叡オトエ-808 ━平子
  ┃   ┃   ┗是公(これきみ) 百済王明信
  ┃  ┃     ┣ 吉子   軽皇子(42代文武天皇) 701-756    縄主
  ┃  ┃     ┣ 真友   ┃ 多治比真宗769-813       ┣娘
  ┃  ┃     ┗ 雄友    ┃    ┣ 葛原親王786-━高望王 薬子┃
  ┃  ┣ 仲麻呂706-764  ┃      ┃是公娘・吉子-807     ┃┃
  ┃   ┃         ┣   ┃    ┃┣ 伊予親王 -807    ┃┃帯子(百川娘)
  ┃  ┣ 巨勢麻呂 房前娘 ┃    ┃┃乙牟漏皇后 760-790   ┃┃┃伊勢継子
  ┃ 貞姫    ┣藤原伊勢人┃    ┃┃┣ 高志内親王789-809 ┃┃┃┣高岳親王
  ┃       ┣黒麻呂    ┃    ┃┃┃ ┣恒世親王    ┃┃┃┃
  ┃       ┗真作      ┃    ┃┃┃ 53淳和天皇     ┃┃┃┃
  ┣ 房前  (北家)681-737┃     ┃┃┣ 安殿親王774-824 (51平城天皇)   
  ┃  ┣ 永手714-771     ┃和新笠┃┃┣ 賀美能親王786-842(52嵯峨天皇)   
  ┃  ┣ 魚名-783        ┃   ┃┃┃┃ ┣業良親王    ┣正子 藤子 
  ┃  ┃         ┃   ┃┃┃┃ 高津内親王   橘清友┣54仁明810-850*
  ┃  ┃   坂上田村麻呂┃   ┃┃┃┃         ┣橘嘉智子┣55文徳帝   
  ┃  ┃   登子  ┗広野┃   ┃┃┃┃               ┗橘安万子順子┗56清和 
  ┃  ┃    ┣        ┃   ┃┃┃┃          藤原真作┃        
  ┃  ┣ 真盾━内麻呂-812┃    ┃┃┃┃種継           ┣三守        
  ┃  ┃    ┣ 真夏774┃   ┃┃┃┃ ┗藤原東子-807┗美都子  
  ┃  ┗ 鳥養  ┣ 冬嗣775┃   ┃┃┃┃  ┣ 甘南備内親王800-817 
  ┃         永継    ┃    ┣山部王(50代桓武天皇)737-806
  ┣ 宇合(式家)694-737  ┃  ┃ ┣ 大伴親王786-840(53淳和天皇)
  ┃   ┣ 広嗣 諸兄に対乱 ┃   ┃百川娘・旅子 759-788   
  ┃  ┣ 良継 白壁王支持 ┃   ┣ 早良親王750-785(崇道天皇)
  ┃   ┃  ┣ 諸姉(百川室)┃  ┣ 能登内親王733-781 
  ┃   ┃  ┣ 乙牟漏      ┃白壁王709-781(49代光仁天皇)
  ┃   ┃ 阿部古美奈-784  ┃       ┣ 他部親王761-775
  ┃  ┣ 百川 道鏡追放   ┃県犬養広刀自┣ 酒下内親王754-829(斎宮)
  ┃   ┃  ┣ 緒嗣774-843 ┃ ┃       ┃  ┣朝原内親王779-817(斎宮)
  ┃  ┃  ┣ 旅子-788    ┃ ┃     ┃ 桓武天皇  ┣
  ┃  ┃  ┗ 帯子-794    ┃ ┣ 井上内親王717-775  平城天皇
  ┃   ┗ 清成          ┃ ┣ 不破内親王 
  ┃長岡造 ┗ 種継737-785 ┃ ┃     ┗ 氷上川継782の謀反
  ┃五百重(天武夫人)     ┃ ┣ 安積親王728-744 
  ┃┣ 麻呂 (京家)695-737┃ ┃
  ┃┃  ┗浜成流罪で京家没┃ ┃
  ┃┃ 賀茂比売         ┣首皇子(45聖武天皇)701-756 
  ┃┃  ┣ 藤原宮子   ━━┛ 
  ┃┃  ┣ 長娥子(長屋王妾)
藤原不比等 659-720

 

誓いの石 と 誓願桜

 

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四天王寺・五重塔

2009年03月29日 | 奈良・飛鳥時代

 四天王寺は推古天皇元年(593)に物部守屋と蘇我馬子の物部合戦のとき、蘇我氏についた聖徳太子が 自ら四天王像を彫り 「もし、この戦いに勝たせていただけるなら、四天王を安置する寺院を建立しましょう」 と誓願し、勝利の後その誓いを果すために、建立されました。 聖徳太子が四天王寺を建てるにあたって、「四箇院の制」をとられたことが『四天王寺縁起』に示されています。 「四箇院」とは仏法修行の道場である“敬田院”、 病者に薬を施す “施薬院”、病気の者を収容し、病気を癒す “療病院”、身寄りのない者や年老いた者を収容する“悲田院”の四つの施仏教の場として四天王寺を建てられたといえるでしょう。 その伽藍配置は「四天王寺式伽藍配置」 といわれ、南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲む形式で、日本では最も古い建築様式の一つです。   

 

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京都・八坂寺

2009年02月04日 | 奈良・飛鳥時代

 京都・清水寺の北側に広がる八坂郷に八坂寺はある。 法名を法観寺といい、その寺の五重塔は八坂の塔として親しまれている。 考古学的には飛鳥時代後期の瓦が出土していて、奈良時代前期からあった数少ない寺である。 瓦の年代から天武朝創建の可能性が高い。 八坂は坂が多いという地形から生まれた言葉であって、八坂には八坂寺のほかに八坂神社がある。祇園さんとして親しまれるこの社は明治維新までは祇園社と呼ばれ、神仏分離の方針によって八坂神社として誕生した。 室町、江戸時代には八坂神社の名はなかったのである。 一方八坂寺は平安時代前期にも遡れ、法燈は連綿と続いているのである。 10世紀の延喜式にも八坂寺は登場し15の寺の中に法観寺は東寺、西寺とともにある。 創建時の五重塔がいつまで存続していたかは不明であるが、948年塔が西に傾いたとき雲居寺の僧・浄蔵が加持によって元に戻したという。 浄蔵は天台宗の僧で平安時代前期の学者として知られる三善清行の子で修行の末に注目をあびた。 尚三善家は百済からの渡来系氏族で愛宕群にも関係の深い錦織氏の同族である。 仁徳天皇の頃から南河内に本拠地があって飛鳥時代に氏寺を建立したことでもしられ、坂上田村麻呂の妻は三善高子という渡来系同士から妻を娶っている。 浄蔵のいた雲居寺は八坂寺に隣接した現在の高台寺近辺にあったと推定されており、 浄蔵は雲居寺で晩年を暮らし亡くなった。 

  815年の八坂郷の名前をつけた八坂造という高句麗系渡来氏族が八坂寺の造営の推進を行って以来、法観寺の五重塔は1436年に炎上したが将軍足利義教によって再建され現在に至っている。  八坂造の前身は八坂馬養造で馬の飼育に携わった集団で、継体天皇の頃の河内馬養首荒籠に代表される河内、倭に分布した。 山背は高句麗系の渡来集団の多くいた土地である。 続日本書紀によると越後目の高麗使主馬養、内侍の高麗使主浄日らには多可連を、狛広足、狛浄成らには長背連とした。 長背連は平安京の右京にいて欽明天皇の時世には衆を率いていたという。 八坂氏も狛、高麗と同様故郷の国名を氏としていたのである。 八坂寺は7世紀末には瓦葺の伽藍として建立されたが、よほど財力のある豪族が関与していたことは明らかである。 

    八坂の塔から東山を登ると東山三十六峰の霊山がある。 その歴史も平安時代に遡り、清少納言が「釈迦仏の御住処」と書いているように近畿の代表的な霊山寺があった。 霊山寺がすたれたあと時宗の僧・国阿が寺を復興し正法寺とし今も伝わっている。 時宗は伊予の河野氏の出である一遍がはじめ発展した。 一遍に率いられた男女の集団はよく旅をし、それを遊行といった。 国阿は伊勢神宮を信仰したびたび伊勢参詣にでかけたという。 正法寺のお堂にある木像は国阿のものらしく、伊勢参詣の前には必ず国阿堂に参り、行路の無事を祈願したという。 

  

 

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