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平安時代中心の歴史紹介とポートレイト

古代史から現代史に至る迄(日本史/世界史)の歴史散策紹介とポートレイト

零式艦上戦闘機-27 硫黄島陥落

2015年01月01日 | 太平洋戦争

 フィリピン戦の惨敗は、南方資源の確保補給路を断ち、アメリカ軍第一線を日本本土に接近させることとなった。そしてアメリカ軍はB29による攻撃を開始するようになる。B29は対日本本土空襲兵器として開発されたもので、航続半径は2800km、常用高度は9000m。しかしそれを迎撃する戦闘機は日本陸海軍には少なく、烈風改は試作段階、秋水もまだ生産段階に入るには程遠い状況である。秋水はドイツのメッサーシュミット迎撃戦闘機を模倣したロケット機で名古屋航空機製作所で高橋巳治郎設計主任のもと設計された。しかしB29来襲の頃にも試作機すらできていなかった。防空用戦闘機としては陸軍の三式戦、二式単戦、一式戦、海軍の雷電、紫電、月光があったが1万mの高度維持が精一杯で、迎激戦は不可能であった。

 サイパン方面からのB29本土襲来は11月1日、二機の偵察に始まり、11月24日には約70機の東京空襲によって本格的になった。こうしたなかで、零戦は月産115機に減少し、軍の増産要求に相反していた。12月18日、B29爆撃機編隊はついに名古屋航空機製作所に襲い掛かり、工場は破壊され500名にも及ぶ死傷者がでたのである。こうした状況のなかで、曾根嘉年により烈風は試作されていたが、ついに名古屋製作所は解体分散された。昭和20年にはいるとB29による空襲はいっそう激しくなり、2月末までには延べ1100機のB29が来襲、アメリカ軍の太平洋上の攻撃は日本軍を完全に圧倒し2月19日には硫黄島への上陸作戦を開始した。硫黄島の陥落はさらなる本土空襲に繋がるために守備隊23000人は激烈な抵抗を見せた。アメリカ軍33000名を死傷させ、戦車270台を破壊したものの、師団長・栗林忠道中将は、残された800名の将兵とともにアメリカ陣地に斬りこんで全員戦死した。硫黄島陥落により3月のB29来襲機は1000機を超え、大編隊による完全な無差別爆撃が行われたことで、4月1日からは沖縄戦が始まり、日米戦争にとって壮絶な戦闘となっていった。

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司馬遼太郎は何故「ノモンハン事件」を発表しなかったのか

2014年12月31日 | 太平洋戦争

2014年も大変多くの方々に「平安時代中心の歴史紹介とポートレート」を見ていただき、感謝いたします

文字だらけの歴史を読んで頂いたあとには、ポートレートでほっこり(^0^)

今年最後のネタは、私の好きな司馬遼太郎先生の苦悩についてです

最後までお付き合いいただければ幸いです

それと、再びほっこりのために ポートレート2014総集編を掲載予定

 去年、今年の二年間は、近代の中でも太平洋戦争という無意味な戦いに於ける大本営の責任について記載してきたが、これらは司馬遼太郎先生の思うところでもある。司馬遼太郎といえば「梟の城」で1959年に直木賞を受賞し、「龍馬が行く」を1962年に発表したことで日本における歴史文学の地位を確固たるものとした歴史小説家である。そして龍馬が行くの後、精力的に神骨を注いだのが「太平洋戦争が何故起こったのか、何故止めることができなかったのか」である。司馬遼太郎は大阪外国語学校モンゴル科に入ったものの学徒出陣で兵庫県小野市の青野が原の戦車第十九連隊に入隊した。22歳のときに敗戦を迎え、軍人時代に経験した疑問をずっと抱えて記者生活を送る。軍人はえらそうにしているが、それは何故か?命を賭けて一般市民を守っているからであるというのが大義名分。ところが、「軍人は命令を遂行するために一般市民を戦車で轢き殺してもよい・・・・」という事を陸軍時代に経験し、軍人大義との乖離に苦しめられている。1968年に手がけた「坂の上の雲」では日露戦争を祖国防衛戦争として捉え、これ以降日本の軍隊は迷走し、日本の近代はゆがんできたと、司馬遼太郎は言う。しかし、日本はそれ以前の江華島事件で朝鮮侵略を始め、明治9年に不平等条約を挑戦に押し付けている。江華島事件とは1875年に日本の軍艦が朝鮮半島の江華島を挑発して戦争に発展させた事件である。当時朝鮮王朝は鎖国政策をとり、日本は朝鮮に開国を迫り、翌年の1876年に日朝修好条規を結んだ。そしてその後日清、日露戦争を経て1910年に日本は韓国を併合するのである。そして朝鮮では35年に及ぶ日本による植民地支配が続くのである。日本という国家は、数千年の文化を持った独立国を平然と合併という形で奪ってしまった、というのが司馬遼太郎の思いである。

 幕末の歴史を考えてみると、ペリー来航以来江戸幕府はアメリカ側から開国を迫られて拒絶した。しかし坂本龍馬を筆頭に夢見た開国による夜明けは、決してアメリカによる植民地支配ではなく、アメリカとともに技術を学んで対等に交易をはかろうとする幕末の志士たちの思いであった。ここに英雄・坂本龍馬を見出し、「龍馬が行く」という明るい歴史感を司馬遼太郎は描いたのである。そして今度は、日露戦争以降、太平洋戦争が終わるまでに、どんな夢が日本にはあったのだろうと司馬は考えていた。太平洋戦争という愚劣な行為が日露戦争の後に起こるのは何故か、ということも坂の上の雲では伝えたかったことの一つである。日露戦争を境として日本人の国民的理性が大きく後退して狂騒の昭和期にはいる。やがて国家と国民が狂いだして、太平洋戦争をやってのけて敗北するのは、日露戦争後わずかに40年のちのことである。韓国を併合した日本はやがて大陸に進出し、満州事変、日中戦争へと突き進み太平洋戦争という愚かな戦争に向かった。司馬遼太郎は22歳のときに考え始め、昭和の日本に取り組んだ。

 坂の上の雲当時、文芸春秋の編集者であった半藤一利氏は、司馬遼太郎の切り口を見守っていた。日露戦争後の日本を陸軍がどのようにして引っ張っていこうとしたのか、を司馬は考え、統帥権にたどり着いたという。統帥権とは軍隊の指揮・統率権のことで、大日本帝国憲法では次のように記されていた。「天皇は陸海軍を統帥す」 統帥権は天皇に直属し内閣からは独立していた。陸海軍はこれを大きく解釈して、統帥権からインチキの理論・論争を持ち出すことができる。つまり統帥権を持ち出すことで政府が軍に介入できない構図が生まれるというのである。

 分岐点となったのは1931年に起こった満州事変、これは満州の関東軍が謀略により始めた軍事行動をいい、政府はこれを追認した。これを司馬遼太郎は魔法の時代の始まり、日本史上異様な時代の始まりという。統帥権をテーマに司馬遼太郎は小説を書こうとし、昭和14年5月に始まったノモンハン事件に注目し昭和の時代を浮き彫りにしようと考えた。ノモンハン事件とは満州とモンゴルの国境をめぐる事件で、日本軍はソ連のモンゴル軍団と戦って2万人にも及ぶ死傷者をだした。しかしこの事実は当時極秘とされ、国民に知らされることはなかった。関東軍の参謀であった服部卓四郎と辻政信は事件を独断で拡大。その間、関東軍を統括する東京の陸軍参謀本部は、服部卓四郎、辻政信の行動を追認したのである。何故大本営は、こんな無謀な戦いを止めなかったのか。司馬は当時の参謀本部の担当者を取材している。ノモンハン事件当時、陸軍参謀本部作戦課長だったのは稲田正純。この取材は全く的を得ず、司馬遼太郎の確信に触れた問いに対して、稲田は巧みにかわす。つまり稲田には妖怪の怖さみたいなものが残っていて、官僚的な意味のない答弁だけで取材は終始したという印象だったようだ。つまり参謀本部は関東軍に対してどのような指揮を行ったのか、ああいう悲惨な戦闘になるような作戦を練ったのか、何故関東軍は参謀本部の指揮下にあるのに暴走したしたのか、という問いに対しては 「もちろん大本営は指揮をしたが、関東軍のあのばかどもは暴走したのだよ・・・」という調子だったようだ。しかしこの発言は大嘘であり、無責任極まりない。大本営参謀本部の命令・指揮は絶対であり、その指揮に違反した場合には罪に問われるはずである。つまり関東軍の服部卓四郎と辻政信は責任を取らされるはずであるが、のちに大本営参謀になるという大出世をしている。大本営参謀本部作戦課の稲田正純氏は、取材において大本営の責任を認めず、関東軍に全責任を押し付ける発言をしたのである。

 ノモンハン事件の惨状詳細については既に当ブログで今年の10月に触れた。最終的には壊滅的な状況に追い込まれながらも参謀は、戦争を肉弾戦により続けたのである。当時の連隊長で生き延びたのはわずかに3人だけで、そのひとりを司馬遼太郎は長野県に訪ねている。応じたのは連隊長の息子・須見武さんである。歩兵第26連隊を率いた須見新一郎氏は、関東軍のあまりにも無謀な作戦を終始批判したものの、命令には従った。そして事件後には自決を強要されたという。典型的な大本営の卑怯なやりかたであり、証拠隠滅のための自決強要であることは言うまでもない。須見新一郎氏は、これに従わなかったために予備隊に配属された後は、軍人としては除名処分を受けている。これらの詳細、須見氏の憤りは、ノモンハン事件の体験を記した須見氏の手記からもはっきりと伺える。兵士たちを無駄に死に追いやった上官への怒りに満ちた手記は次である。「我が作戦の愚昧なること、また装備もお話にならない。その性能極めて鈍重なる我が戦車は敵の戦車砲の前には豆腐のごとき存在でしかなかった。迷夢の酔者たちは日本を引きずってついに大東亜戦争まで突き進み、すべてが終わった」

 関東軍を率いた服部卓四郎と辻政信は間もなく大本営の参謀となり、ノモンハン事件から2年後に日本は太平洋戦争へと進むのである。司馬遼太郎の小説には暗闇の中にあっても一筋の光を与える主人公がいる。しかしノモンハン事件を描こうとするときに、主人公とも言える人物がどこにもいないことを多岐に渡る取材から悟った司馬遼太郎は、とうとうノモンハンを小説にはしなかったのである。ノモンハンに出てくる連中に明るさを持つものは誰一人としていなかったのである。昭和45年、大本営の作戦本部参謀だった瀬島龍三氏と司馬遼太郎との対談が文芸春秋に掲載されたとき、いきのこりの連隊長、須見新一郎は、大本営の参謀と意気投合している(かのように写った)司馬遼太郎に対して激怒し、その内容を手紙にして司馬に送っている。かくして10年近くも取材をしてきたノモンハンという小説は、「日本人は何故このような愚かな戦争に向かったのか」、を問い続けてきた司馬遼太郎によって表現されることはなかった。

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零式艦上戦闘機-26 特攻に使われた零戦

2014年12月28日 | 太平洋戦争

 レイテ沖海戦に集結した日本側全戦力は、「大和」「武蔵」を含む7戦艦、空母4、空母戦艦2、重巡14、軽巡7、駆逐艦33である。日本海軍全67隻に対してアメリカ海軍は全166隻。日本艦隊はアメリカ艦隊と接触する前に、アメリカ空軍機の大挙来襲と潜水艦攻撃にさらされて武蔵を含む27隻を失い大敗した。この作戦中に世界史上例を見ない飛行機による特別攻撃隊の初出撃が行われた。戦況が不利になるにともない体当たり攻撃しかないという悲壮な空気が流れる。実は昭和18年4月に陸軍の一式戦闘機によるB17への体当たりが行われ、19年5月には陸軍戦闘機4機によりビアク島南岸のアメリカ艦艇に突入して撃沈、10月には航空戦隊司令官・有馬少将によりアメリカ機動部隊に突入していた。かくして大本営は戦局の劣勢を挽回すべく特攻を頼りにするようになっていった。10月19日、第一航空艦隊司令長官に就任した大西瀧治郎中将がフィリピンのマバラカットの201空戦戦闘機基地を訪問、特攻を指示したのである。これにより201空副長玉井浅一中佐と先任飛行隊長指宿正信大尉の了承のもの、特攻隊の編成を行った。関行男大尉を指揮官に若き搭乗員24人が集められのである。アメリカに比べて圧倒的に不利な兵力であることは大西瀧治郎も山本五十六もわかっており、日本本土の攻撃を回避するためには、死を代償とした特攻意外にはないと24名も承知していた。

 関行雄大尉を長とした第一次神風特別攻撃隊は、敷島・大和・朝日・山桜の4隊によって編成された。10月25日、関大尉の指揮する敷島隊は全機アメリカ艦隊に突入した。250kg爆弾を装着して、4機の零戦の援護を受けて、関大尉、中野盤雄一飛曹、谷一飛曹、永峰飛長、大黒上飛の5機は空母、巡洋艦各1を撃沈させた。この突入に続いて26、27日、そして規模を徐々に大きなものにして多くの若い操縦士たちは自爆していった。彼らの死は戦争指導者たちの無能さの犠牲とされたのである。この特攻はアメリカ海軍の脅威となり、艦艇の損害も大きく、アメリカ軍将兵に与えた恐怖は激しく、「カミカゼ」と恐れられた。これに対してアメリカ海軍は対空砲火を増強し、迎撃体勢を整えた。

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零式艦上戦闘機-25 捷一号作戦発動

2014年12月19日 | 太平洋戦争

 零戦に対抗すべく開発されたアメリカ軍の新鋭機はF6Fグラマン・ヘルキャット。零戦の2倍の発動機を装備し12.7mm機銃は6挺、防弾性能に優れ急降下性能も零戦をはるかに凌ぐものである。ただ、航続力と旋回性能は零戦に及ばないため、2機一体となって零戦に挑む戦法をとる。正面きっての格闘戦は避けるのであるから零戦も撃墜される確率が高くなっていった。アメリカ軍は後続の戦闘機をどんどん開発してくるが、日本側は零戦を改良するのみで、酷使してきたのである。とうとうデビュー以来4年、零戦もわびしげな色が濃くなってきた。「あ号作戦」の失敗で孤立したサイパン島は7月7日アメリカ軍の手中に落ち、南雲忠一海軍中将、斉藤義次郎陸軍中将は自決、残された3000の将兵も総突撃という悲劇的な死を選んだ。サイパン陥落によりアメリカは飛行場を建設しB29爆撃機編隊による日本本土爆撃を開始することとなる。サイパン陥落後はグアム、テニアン両島守備隊も全滅したことで東条内閣は総辞職したのである。

 昭和19年の末になると航空機製作所の従業員の数は激増していた。女子挺身隊員や勤労学徒まで動員されたためである。しかし問題なのは部品の質、調達、組立の悪化である。さらに日用必需物資を含む食料の欠乏が目立ち始めた。そういう中で三菱での零戦生産は月産130機を上げているから休む間なく労働を強いられていたのである。戦局はというと、ビルマ方面日本軍は壊滅、太平洋方面のペリリュー島、モロタイ島の守備隊は全滅、そして10月21日にはフィリピンのレイテ島に600隻の艦艇により25万人のアメリカ軍上陸が開始された。これに対して「捷一号」作戦が始動し、全戦力をレイテ沖に集結させた。

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零式艦上戦闘機-24 零戦の神秘性が失墜

2014年12月17日 | 太平洋戦争

 昭和19年は、アメリカ軍によるマーシャル群島来襲が始まり、クエゼリン島・ルオット島の日本軍守備隊は全滅し、トラック諸島大空襲により日本海軍は船団43隻、飛行機270機を失い、連合艦隊司令長官・古賀峯一大将はラバウル引き上げを決断した。この1年間に渡る戦闘で海軍は6000機、陸軍は2000機の航空機を投入し、そのほとんどを失った。戦死者も陸軍9万人、海軍4万人に及び、艦船70隻、船舶115隻を失った。そしてラバウルには陸軍7万5千、海軍4万人の守備隊が残されたのである。この年、名古屋航空機製作所の分工場水島航空機製作所や熊本航空機製作所でも航空機の製造を開始していた。零戦の生産数は月産300機であったが、熟練者は少なく技術程度は低いために生産機の質の低下は免れない。こんなときに工場を視察していたのが三菱本社副社長の岩崎彦弥太、生産性の鼓舞に赴いていたのである。

 この頃太平洋方面でのアメリカ軍の反攻はさらに激化し、サイパン島におかれた航空機による攻撃と戦艦8隻および40隻以上の艦艇による艦砲射撃が開始された。マリアナ群島は日本本土を守る重要な地域で、陸海軍はここに押し寄せてくるアメリカ機動部隊を壊滅させようと、「あ号作戦」を立てた。しかし結果は惨敗で特に航空兵力は壊滅的となった。「大和」「武蔵」を含む艦艇46隻に守られて、大型空母3、改装空母6隻には多くの航空機が搭載されていたが、無数のアメリカ航空機による攻撃で、旗艦「大鳳」をはじめ翔鶴、飛鷹が撃沈され、その他の艦船も大打撃をうけた。そして母艦に搭載されていた艦上機も残ったのはわずかに25機、ほとんどが撃墜されたのである。この「あ号作戦」の失敗により日本本土を守る防衛線は突き崩されたといえる。零戦もこの戦闘において神秘性は失われた。ついにアメリカ軍に零戦に対抗できる新戦闘機が現れたのである。

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零式艦上戦闘機-23 ラバウル壊滅

2014年12月16日 | 太平洋戦争

 アッツ、キスカの陥落によって北方の防備を固める必要性が生じて、海軍は航空兵力を千島、北海道方面にさき、青の結果南太平洋方面の航空兵力はますます劣勢なものとなった。かくしてニューギニア、ソロモンへの侵攻は急速に展開した。唯一日本軍に残されたブーゲンビル島にもアメリカ軍は11月1日上陸を開始した。連合艦隊司令長官古賀峯一海軍大将は、これに対してすべてをかけて反撃、零戦167機をラバウルに集結させ、一挙に戦局挽回を図った。この作戦を「ろ号作戦」という。ところが戦果はあがらずブーゲンビル島の日本軍は壊滅状態となり、200機の航空機を失う結果となった。かくしてブーゲンビルにはアメリカ航空基地が建設され、そこから発信したアメリカ機によるラバウル爆撃が簡単に行えるようになった。そしてラバウル上空には絶えずB17,B24が飛来し、その基地としての機能は失いはじめていた。

 こういう状況のなかで陸海軍からの「1機でも多く」の生産要求は、工場の生産能力を度外視したものとなり、名古屋航空機製作所にも中島飛行機にも強引に押し付けられてきた。名古屋航空機製作所の従業員数は昭和18年末で4万6千に膨れあがり、零戦の生産は年間1029機、中島製作所では1967機となっていた。開戦の年の昭和16年の陸海軍の要求2038機に対して実生産数は1697機、翌年17年は3287機要求に対して2514機である。比率でいうと80%から75%に落ちている。生産が追いつかない理由は軍からの改造要求がめまぐるしく変わるからであった。特に零戦に関しては、11型、21型、32型、22型、52型、52型甲、52型乙、53型丙、63型、54型丙という風に終戦までにこれだけの改良が要求されたのである。三菱の生産が中島よりも少ないのは三菱が設計を担い、要求変更に翻弄されていたからである。また海軍で大きな期待を寄せていた局地戦闘機・雷電を量産させるために、零戦の生産を制限したりと、量産の妨害が数多くなされた。

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零式艦上戦闘機-22 山本五十六の一式陸攻撃墜される

2014年12月15日 | 太平洋戦争

 「い号作戦」は終了し、山本五十六連合艦隊司令長官は4月18日にはバラレ、ブインの前線基地を視察し19日にはラバウル発トラックの武蔵に帰還することとなっていた。しかしその視察連絡の暗号電報がアメリカ側に傍受され、ガダルカナルのヘンダーソン基地に伝えられた。基地では山本長官機を迎撃するための作戦が整えられることとなる。4月18日の朝一式陸上攻撃機2機に山本長官をはじめ連合艦隊の首脳陣が搭乗、零戦6機の護衛をうけながらラバウル基地を離陸し、ごぜん7時40分頃ブイン上空に達したとき、待ち構えていたアメリカ陸軍戦闘機16機の奇襲を受けた。攻撃したのはヘンダーソン基地第339中隊所属のミッチェル少佐指揮のP38ライトニング戦闘機隊であった。たちまち空中戦が展開された。その間に一式陸上攻撃機は低空で回避しようとしたが山本長官機は被弾してブイン西方11浬の密林中に墜落、宇垣連合艦隊参謀長以下高級幕僚が搭乗していた二番機はモイラ岬の南方海上に不時着した。護衛の零戦は数に負けるP38との空中戦に妨げられて長官機、二番機を守ることができなかった。

 アメリカ軍は丹念に島を手中にしてソロモン制圧、ニューギニア確保により日本海軍の重要前線基地ラバウルを包囲孤立させていった。そしてソロモンはウイリアム・ハルゼー海軍大将により、ニューギニアはダグラス・マッカーサー陸軍大将が、アメリカ、オーストラリア連合軍を指揮して堀井富太郎陸軍少将統率の日本軍を圧迫していった。日本軍の補給はなく、恐るべき飢餓にさらされる一方で、頭上にはコンソリデーテッドB24,ボーイングB17大型爆撃機が多数の戦闘機に護衛されて来襲してきたのである。それに対して零戦はわずかな機数で戦いをいどみ、貧しい国力を背景に多くの危険を覚悟して突き進む悲壮な姿であった。こうした状況の中で2万人のアメリカ武装軍隊が北太平洋アリューシャン列島のアッツ島に上陸し、島の守備隊2000人を制圧した。上陸からわずかに半月後の5月29日のことである。

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零式艦上戦闘機-21 ガダルカナル島攻防戦での損害

2014年12月14日 | 太平洋戦争

 大本営は昭和18年1月30日、ガダルカナルの撤退を決めたが、このときのガダルカナル死者数は15000名、餓死者は4500名、周辺の攻防で失った機は893機、搭乗員は2362名が犠牲になった。もちろん艦船の犠牲も大きく、物量に乏しい日本にとっては想像をはるかに超える消耗戦となった。アメリカ軍の反攻態勢は急速に整えられ、ガダルカナル島を整備するとともにニューギニア地区にも拠点を確保、ブナの日本軍を全滅させるとラエ、サラモアにも迫っていた。海軍航空隊のラバウル基地兵力が消耗する中で、ラエ・サラモア増援のためビスマーク海海戦と称される戦闘が開始され、陸海軍機100機が船団の上空援護を担ったが、4000名近い日本兵員と艦船のほとんどを失い、零戦も30機が撃墜された。こうした戦況悪化を回復するために大本営はい号作戦という航空兵力のみによる作戦を開始した。それは航空兵力のすべてを結集してソロモン、ニューギニア両方面に空襲を行うもので、戦闘機182機、爆撃機81機、陸上攻撃機72機偵察機4機、計339機の海軍機が動員された。そしてトラック諸島の連合艦隊旗艦・武蔵に乗っていた山本五十六司令長官も直接の指揮にあたりラバウル基地に赴いた。4月7日から始まった「い号作戦」は輸送船35隻を撃沈し、敵機183機を撃墜して好結果であった。

 ニューギニア、ソロモン方面に投入されたアメリカ戦闘機はグラマンF4F,F4Uコルセア、P38ライトニング、P39エアコブラ、P40トマホーク。中でもF4Uは視界が悪いことによる着艦性能の悪さが懸念されたが、その性能自体は優秀なものであった。2000馬力の空冷エンジンを搭載した単発戦闘機は零戦よりも水平速度、上昇速度に優れ、特に急降下性能に優れていたが、格闘戦になれば零戦とは対等に戦えなかった。しかし一撃離脱作戦をとるようになってなってからは、容易に撃墜できなくなっていった。高度8000m以上に上昇すると零戦はそれを捕捉することができない。また数が少ないうちは脅威ではないが、圧倒的な数を投入するアメリカに対して、防弾強化という声が高まるようになっていく。しかし日本陸海軍には攻撃こそ最大の防御であるという要求がすべてを支配し、零戦には防弾を要求するだけの余裕はなかったのである。零戦は中国大陸に進出して依頼2年8ヶ月の間優れた戦闘能力を発揮していただけに二義的な防御性能は全く無視され続けたのである。

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零式艦上戦闘機-20 ガダルカナル島へ反復する零戦の限界

2014年12月12日 | 太平洋戦争

 連日のガダルカナル島への出動は零戦および日本海軍機にとっては過酷なものであった。第一にラバウルからガダルカナルまでの距離である。開戦日に行われた台湾からフィリピンへの渡洋航空戦では450浬という長大な距離の飛翔に成功したが、ラバウルからガダルカナルまでの距離は560浬である。それでも零戦は克服して出撃を反復していたが、激しい空中戦では燃料消費が激しく、基地に帰還できずに不時着する機も多くでるようになった。そのため海軍はラバウルとガダルカナルとの間にブイン中継基地を設けたが、日本とアメリカの基地設営能力は全く違っていた。裸身でツルハシ・スコップに頼る日本の設営隊に対してアメリカはブルドーザーなどの重機を使っての設営である。飛行場を爆撃しても、瞬く間に再生する。また日本海軍航空隊の脅威は、アメリカ陸海軍機の増強能力であった。ラバウルの海軍航空機は遠距離飛翔にもかかわらずかなり多くのアメリカ戦闘機を撃墜していたが、それを上回る戦闘機が増強された。疲れ果てた零戦は群がるアメリカ戦闘機との空中戦を強いられるのである。

 またこの頃からアメリカ軍は新鋭の戦闘機を投入してきた。そのひとつがアメリカ陸軍の戦闘機P-38ライトニングである。双発、双胴の大型戦闘機で、20mm機銃1、12.7mm機銃4を備え、3000馬力の排気タービン加給器付の発動機を備えていた。つまり高度な航空性能と急降下速度に優れている。これはアメリカが零戦に対抗するために開発したものであり、一撃離脱作戦を遂行するにふさわしい戦闘機である。しかしその大型双発戦闘機に寄せられた期待は裏切られることとなる。零戦はその動きを生かして次々とライトニングを撃墜することとなる。そこで高空性能と急降下速度に優れている機を再見直しして一撃離脱作戦に徹した。基本的にはその作戦は零戦にとっての脅威ではなかったが、P-38を捉える機会が少なくなったことが零戦隊員へのあせりとなってあらわれ始めた。しかし現実には、アメリカ軍の副座爆撃機SBDドーントレス、三座のグラマンTBF艦上雷撃機アベンジャー、マーチンB26爆撃機、PBY飛行艇カタリナなどなどいずれも零戦の前では簡単に撃墜されていったのである。そんな神秘の零戦であったが戦闘力の通じがたいアメリカ機もあった。それはボーイングB17とコンソリテッドB24の4発大型爆撃機である。これらは800浬以上の行動半径を持ち、巨大な機体から大量の爆弾を投下する。それを撃墜するために零戦は基地を飛び立つが、空の要塞といわれた両爆撃機の防弾性能は著しく高く、容易に撃墜ができないのである。零戦の20mm機銃を燃料タンクに命中させても、自動閉鎖式防弾装置が働いて火災にはならないのである。唯一の方法は操縦席の搭乗員を狙うかタンクに機銃を集中的にあびせるかしかない。しかし空の要塞の攻撃力も高い。前後、上下、左右の銃座があり安易に接近はできない。こうした状況のなかでも零戦はルソン島空爆のときにはB17爆撃機の撃墜を行っている。

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零式艦上戦闘機-19 ガダルカナル島へ反復する零戦

2014年12月10日 | 太平洋戦争

 ポートモレスビー作戦が発動された直後の7月20日、南海支隊の先遣隊がラバウルを出航し、ニューギニア北岸のブナに上陸、28日にはオーストラリア軍一個大隊を撃破してココダ飛行場を制圧、主力も合流して一か月分の食料を携行してスタンレー山脈を越えてポートモレスビーへの進撃を開始した。すると8月7日、思いもかけない戦況がソロモン群島に発生した。ラバウルに置かれていた第8艦隊司令部に、ガダルカナルとツラギ島がアメリカ海空軍によって攻撃を受けている情報が入った。そしてアメリカ軍は戦艦1、空母2、巡洋艦3、駆逐艦15、輸送船30という大規模な陣容でガダルカナルに上陸したのである。開戦以来わずか9ヵ月後のことであり、アメリカ軍の猛反撃が始まったのである。

 昭和17年8月7日、アメリカ軍2万の上陸に対して日本も奪回を目指して多数の将兵を送り込んだ。第1次、2次、3次ソロモン海戦で多数のアメリカ艦船を撃沈はさせたものの、ガダルカナル島に上陸した日本陸軍の将兵は乏しい武器で戦い悲惨な結果を残した。一方アメリカの物資補給はすざまじく、日本とアメリカの体力の差が、ここでまざまざと現れたのである。結果3万人以上の兵士に飢餓と武器不足がおとずれる一方、ラバウルの第11航空戦隊はガダルカナル島をめぐる戦闘に最大限の力をふりしぼってアメリカ航空兵力と対峙していた。8月7日陸上攻撃機27機、零戦18機を投入し、F4Fを主力とする数倍にも及ぶアメリカ艦上戦闘機群と交戦し、46機を撃墜するという驚くべき成果をあげた。そしてその後も連日ガダルカナルへの出動が繰り返されたのである。

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零式艦上戦闘機-18 サッチ零戦攻略作戦

2014年12月09日 | 太平洋戦争

 サッチ零戦攻略作戦、それは対零戦攻略戦法で考案の中心人物はアナコスチア海軍基地で初めて零戦に搭乗したアメリカ海軍の戦闘機戦法権威ジョンSサッチ少佐である。彼は1対1での空戦では零戦に勝てないとし2機が協力して零戦に対戦する方法を考えた。零戦よりも高い高度を維持した1機が急降下して一撃を加えてすぐに離脱する方法である。一撃に失敗しても決して空戦は行わず、1機が零戦に追われた場合には他の1機が零戦の後方から銃撃して友軍機の逃避を助けるのである。つまり2機がチームワークを保って一撃しては離脱し絶対に格闘戦は行わないというものであった。このサッチ戦法はF4Fワイルドキャット戦闘機隊によって実践に適用され、他の機種にも次々と採用された。

 零戦にとって、空軍にとって絶体絶命の危機が訪れたのである。ミッドウエー海戦後に新たに編成された海軍第一戦線の機数は、必死の増産にもかかわらず、零戦492機を含む1498機が配備されているだけで、それは開戦時に比べてわずかに184機増加しているだけである。これに対してアメリカは昭和17年の生産能力は3万6千機、18年は8万5千機と圧倒的な差である。さらに日本陸海軍機が現状維持に精一杯であったのに比べて、アメリカでは多数の優れた設計者によって担われていた。パイロットの育成についても大きな差がある。ミッドウエー海戦後、日米戦争の焦点はニューギニア、ソロモン群島におかれ、アメリカの反抗作戦を挫折させるために、ニューブリテン島のラバウルに本拠地を置いた。ここは飛行場と艦船泊地を持つ基地で、ソロモン方面制圧には最も適していた。海軍の基地航空隊主力もラバウル占領と同時に、ニューギニアのポートモレスビー攻略を反復していた。開戦以来、マレー・ビルマ・フィリピン・インドネシアを手中に収めた日本は、オーストラリアの戦略的意義を重視し、アメリカとの連携を絶とうと考えていたのである。

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零式艦上戦闘機-17 昭和17年6月5日アリューシャン列島での零戦捕獲

2014年12月08日 | 太平洋戦争

 ミッドウエー海戦は大敗北に終わったが、零戦は依然としてアメリカ戦闘機に対して圧倒的な優位を誇っていた。しかしミッドウエー海戦と併行して行われたアリューシャン列島攻略作戦では神秘的な存在であった零戦の全貌がアメリカ側に露見する事故が起こった。アリューシャン作戦は細萱中将の第5艦隊、角田少将の第2機動部隊、キスカ・アッツ、アダック攻略部隊から構成され、5月26日空母龍驤、隼鷹、重巡高雄、摩耶、第7駆逐艦を擁した第2機動部隊の出撃から開始された。6月4日第2機動部隊の艦上から発した攻撃機、爆撃機、戦闘機によってダッチハーバーのアメリカ海軍基地に空襲を決行、翌7日には海軍舞鶴鎮守府第3特別陸戦隊員600名がキスカ島に上陸、8日には北海支隊1400名がアッツ島上陸に成功した。しかしダッチハーバーのアメリカ海軍基地に空襲を決行したときに不運な事故が発生したのである。空母龍驤、隼鷹から発艦した零戦、攻撃機、爆撃機のうち志賀大将ひきいる龍驤隊はアメリカ戦闘機との交戦と悪天候にはばまれ、やむなく引き返したが、山上大尉指揮の零戦、97式艦上攻撃機の編隊はダッチハーバー基地を攻撃して成果を挙げていた。その直後零戦の1機がガソリンタンクに被弾、母艦への帰還が困難と成った古賀一等航空兵曹機は基地ちかくの無人島に降下していった。

 その島は万が一のときの不時着地として指定され、搭乗員救出のために潜水艦も回航されていたところである。着陸は無事できるはずであったが、意外にも着地の瞬間転倒して裏返しになったのである。指揮官は草原と思われていたこの地が湿地帯であることに気づいたのである。指揮官は古賀機遭難を報告するとともに、潜水艦による収容を依頼した。ところが潜水艦は不時着地点を見つけることができず、たまたま足を踏み入れたアメリカ海軍捜索隊によって発見されてしまったのである。アメリカ海軍関係者たちは、これが零戦であることを知り狂気した。ほぼ原型のままをとどめた零戦の調査は、アメリカ本土で行われることとなる。アメリカ海軍航空隊アナコスチア基地に運び込まれた零戦21型は、完全な形に復元され、その神秘性は徹底的にひきはがされた。F4Fなどの戦闘機との比較性能試験が繰り返され、陸軍航空隊ライトフィールド基地でも分析された結果、スクラップとなったのである。調査結果はアメリカ航空関係者を驚愕させた。機銃の重装備に反して航続距離が長く、総重量の軽さは群を抜いている。その運動性能の高さはどのアメリカ機を上回る。しかし欠点も徹底的に暴かれた。急降下速度制限が低く、安全装置の不備、高空性能が低く高速での横転に弱いことなど零戦の限界が明らかになった。これにより零戦の弱点をつく戦法を考案し、零戦をしのぐ新型戦闘機の開発を急いだのである。 

 

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零式艦上戦闘機-16 昭和17年6月5日ミッドウエー海戦の大敗 

2014年12月07日 | 太平洋戦争

 ミッドウエー海戦は6月5日日本海軍機・飛竜飛行隊・友永大尉率いる零戦36機を含む108機の第一次攻撃隊の発進により始まったのである。間もなく編隊はPBY-5飛行艇のちょうこう弾に誘導されたアメリカ海軍戦闘機・バッファロー、F4F-ワイルドキャット数十機の来襲を受けた。しかし零戦はほとんどの戦闘機を撃墜、友永は第二次攻撃の必要有りと、南雲忠一艦隊司令長官に発信した。この発信がとりかえしのつかない結果を生むのである。機動部隊の赤城・加賀・飛竜・蒼竜の4空母艦上には魚雷を装備した第二次攻撃隊が待機していたが、友永大尉の電文により、魚雷から地上爆撃用の800kg爆弾に装備変更となった。ところが重巡・利根から飛び立った零式水上偵察機からアメリカ機動部隊発見の連絡がはいった。これにより800kg爆弾ははずされ再び魚雷が装備された攻撃機が発艦しようとしたときに、アメリカの急降下爆撃機12機が赤城・加賀・蒼竜を襲ったのである。命中弾はわずかであったが不運にも混乱で放置されていた大量の爆弾が一斉に誘発、3空母は大火災に包まれたのである。約10時間後、加賀・蒼竜が沈没、赤城は敵の手に落ちることを避けるために駆逐艦・野分に魚雷により沈没、また飛竜も駆逐艦・巻雲の魚雷により沈没した。飛竜から発艦した攻撃機10機および零戦6機の友永攻撃隊は、アメリカ空母・ヨークタウンを攻撃し、伊168潜水艦により撃沈させたが、空母4隻を搭乗機とともに失うという大敗に終わった。軍中枢部は、それが日本全土に同様を与えるとして極秘としたのである。また、救出された乗員から敗北が漏れないように、彼らをしばらく軟禁状態において一定の場所に閉じ込めるような措置をとっている。

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零式艦上戦闘機-15 昭和17年B25による空襲

2014年12月05日 | 太平洋戦争

 その日、名古屋航空機製作所の上空を低空で飛行したB25爆撃機は焼夷弾を投下、その双発機は空母・ホーネットから発進した16機にも及ぶ編隊である。つまり本土空襲が実行されたのである。被害は大きいものではなかったが、本土上陸は決して許さないと言っていた海軍の面目は丸つぶれとなった。そして海軍のあせりは二つの作戦行動に現れ、これが将来の日本に致命的な打撃を与えることとなるのである。ひとつはアメリカ爆撃機が本土空襲後に中国大陸に着陸するはずの中国空軍基地の攻撃である。これは直ちに実行され航空部隊によって成功がもたらされた。ふたつめは連合艦隊司令長官・山本五十六によって企画されたミッドウエー攻略である。アメリカ空軍機を再び日本本土に侵入させないためには哨戒線をアリューシャン列島からミッドウエー島まで広げなくてはならないと判断したのである。実はこの作戦、海軍上層部の激しい反対にあったが、山本五十六司令長官の主張は強く、大本営も同意し、昭和17年5月5日陸軍との共同のもとに攻略命令が発せられた。作戦の展開はアリューシャン列島とミッドウエー方面に二分され、ミッドウエー方面への参加艦艇は、主力部隊として山本司令長官が搭乗する戦艦・大和を旗艦に、長門・陸奥・伊勢・日向・山城・扶桑の7戦艦、空母は鳳翔、潜水母艦2、駆逐艦20、また機動部隊は第一航空艦隊司令長官・南雲忠一率いる赤城・加賀・飛竜・蒼竜の4空母、榛名・霧島の2戦艦、利根・筑摩の2重巡、駆逐艦16.さらには近藤信竹中将を指揮官に戦艦・比叡・金剛、重巡・愛宕・鳥海・妙高・羽黒・熊野・鈴谷・三隈・最上、空母は瑞鳳など連合艦隊の全兵力に近い大艦隊である。

 これらの大艦隊は5月27日南雲忠一機動部隊の出撃に端を発し続々とミッドウエー目指して進撃した。この頃アメリカ海軍は日本の暗号電文を解読、空母エンタープライズ・ホーネット・ヨークタウンを含む重巡、駆逐艦を日本艦隊邀撃のためにミッドウエーに接近させていた。そしてミッドウエー海戦は6月5日日本海軍機の発進により始まったのである。

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零式艦上戦闘機-14 昭和17年陸軍部隊の進撃

2014年12月04日 | 太平洋戦争

 昭和17年2月陸軍部隊によるボルネオ本島の占領も終わりさらにジャワ本島への攻略を考えていた。ジャワ島が敵の要塞となるのを防ぐとともに、隣のスマトラ本島にあるバレンパン油田を確保するのが目的である。作戦は2月3日海軍戦闘機隊により開始され、ジャワ島スラバヤ周辺の蘭印空軍基地にはバッファロー、カーチスなどの戦闘機100機が98式陸上偵察機により認められた。作戦の主力は台南航空隊の零戦隊、横山保大尉指揮の零戦隊27機合わせて合計60機がバリックパパン飛行場に集結した。ここからスラバヤまでは430浬、約800kmに及ぶ飛行は開始され、戦闘には98式陸上偵察機、続いて零戦の編隊が3時間後にはスラバヤ上空に到達すると、迎撃体制にあった欄印の戦闘機群と空中戦となった。蘭印空軍は3時間の飛行してきた零戦を待ち受けていたのである。やがてスラバヤ上空には優美な姿の零戦のみとなり、機首を戻して帰還にとりかかった。零戦の損害が3機に対して蘭印軍の損害は膨大となったことで制空権は確保された。

 この頃零戦は毎月80機のペースで生産され、一式陸攻も月産30機である。名古屋航空機製作所には海軍大臣・嶋田繁太郎大将、大本営陸軍部参謀総長・杉山元大将、海軍横須賀航空隊司令高松宮殿下などが相次いで来所したことで工場の士気は大いに高まっている。病が癒えた堀越二郎は海軍14試局地戦闘機(隼)の設計主務者としてグループを率いていた。これは迎撃機であるため航続距離は短いが最高速度は600km/h@6000m、発動機は三菱製火星13型である。昭和17年3月には第一号機の飛行試験を終えていた。4月には17試艦上戦闘機(烈風)の要求が海軍から計画され、アメリカの工業力に対抗しようとしていた。

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